2019年12月13日金曜日

沈黙という祈り


 奥野克巳の長い表題の本で指摘されていたもう一つの事実に触れておきたい。

 プナンは獲物をとってきて食するわけだが、イボイノシシをとってきた場合、解体から食べ終わるまで、全員が沈黙を貫く所作があったそうだ。声を発することが獲物を貶める振る舞いとみられているようだと奥野は言う。獲物にありつけるということは喜びであるはずだ。にもかかわらず沈黙を貫くというのは、獲物への敬意であり、命あるものを奪って食するということへの畏れであり、私たちの文化に引き寄せて謂えば、森やイボイノシシという自然への感謝の儀礼化したものということができる。沈黙という祈りであろう。


 また近親者が亡くなると、その近親者の名を呼んではならず、残された近親者が自らの名前をも変えてしまうという。彼または彼女が使っていた家財道具ばかりか(ときには)家なども処分して、別の場所へ移り住むという葬送儀礼もあったそうだ。狩猟採集生活だからこそできることではあるが。名を呼ばないということと、獲物を食し終わるまで沈黙を守るというのとどう関係しているのかいないのかはわからないが、声をたてたり名を呼ぶということが猥雑なことであり、命を失くしたものを貶めるという感覚があるのかもしれないと、最初は思った。。

 戦中生まれ戦後育ちの私の世代は、明治生まれの親の文化受け継いできた。食事中はおしゃべりをするものではないと、子どもの頃はしつけられた覚えがある。どうしてそうなのかは考えもしなかったが、そうした習俗にも、何がしかの意味合いが含まれていたのであろうと、いま思う。

 それをもう一歩踏み込んで考えてみると、何がしかのことを言葉にすることが、的を射ていないというか、軽んじることに通じると感じていたからではないか。私たちの日常でも、哀切な思いをどういっていいかわからないことがある。悲しみも愛おしさも、口にするとウソっぽくなる。同様にプナンは、例えばイボイノシイを獲ってきたとき、言葉にする何がしかの思いを「*」とする。罠にかかったイボイノシシのことにふれると、それを獲った側からみた「*」と罠にかかったイボイノシシの側からみた「*」とは、自ずから異なってくる。どちらのことも讃えようというとき、イボイノシシの命の賛歌とそれを奪った栄誉への賛歌とは、矛盾する。まして、それを屠って食することを称賛することは、イボイノシシと同じ世界を生きているものとして、どういえばいいのか。それが「*」である。

 「語ることができないことについては、沈黙するしかない」というドイツの哲学者の言葉を思い出す。プナンの「沈黙」は、言葉にすることへのためらいであるだけでなく、言葉にならない「*」が胸中にあることを大切にしておきたいという思いがこもる。奥野の指摘は、逆に、現代社会の私たちは「沈黙」という祈りを忘れているのではないかと抉り出しているように思える。「祈り」というのが、いま私たち自身が生きていることへの感謝であってもいい。それがイボイノシシの命によって購われていることであっても構わない。あるいはもっと広く、イボイノシシとそれを獲った者たちとそれらすべての環境を与えてくれた天然自然への畏れというのであってもいい。自分たち自身が天然自然によって生きていることを「*」すること。それが「祈り」であろう。そうした言葉にならないが、間違いなく私たちの胸中に湧き起る「思い」は「沈黙するしかない」所作によって、共有されていたように思う。ことばにしてしまうと、零れ落ちて、「祈り」にならないのだ。

 かくいう私自身が、ここに書き落としているような形でおしゃべりをして、大切なことを零し落している。言葉が「ない」ことの大切さを忘れているのが、日常というものであり、猥雑と称されるものだとすると、ときどきは沈黙して、大切なことを想い起すこともしておきたいと思う。

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