2019年12月17日火曜日

問題浮上のいきさつ(2)二元論克服の道筋


 現役教師のkさんの反省の第二点は《「正義は我にあり」「悪は相手にあり」だから「そもそも正しい教育とはなにか?」と問う》と表題されています。kさんは、「そもそも正しい教育とはなにか?」と問うたことが、誤っていたと反省しています。そしてこう続けます。《それはまた、現場の教師としての「学校の共同体性」に解消されない、そこを超え出ていくような普遍性の追求、「学校教育の公共性」の追求でも、あったわけです》と綴っています。


 どう受け止めていいか、私は、う~んと唸っています。《現場の教師としての「学校の共同体性」に解消されない》ことと、《そこを超え出ていくような普遍性の追求、「学校教育の公共性」の追求》とを対置しています。そういう対比のモンダイなのでしょうか?  こういう対比で考えている限り、普遍的な二元論から抜け出せないように感じるのです。

 たしかに現場教師が、普遍性を求めることを目指したり「学校の公共性」の追求を目的としてしまったら、彼の具体的な現場でのアクションは、普遍性や公共性に至る手段に化してしまいます。そこですでに、逆立ちしています。教師のアクションは、現場で生起している具体的な事態に対して為される動きです。むろん教師が、何を意図してそのようにするのか、そのアクションによってなにが、どう動き始めるかは、モンダイになります。それ自体が(現場のそれを検証する人たちにとっては、普遍性に通じたり、公共性に通じる要素をもってはいますが)、普遍性や公共性の何かのために行われているわけではありません。乱暴を働く生徒がいれば、まずそれを鎮めることが行われるでしょうし、爾後そうした乱暴が繰り返されたり広まったりしないように考えて、対処すると思います。それは、《「学校の共同体性」に解消され》ることになるのでしょうか。何だかその表現には、《「学校の共同体性」に解消され》ることを蔑む響きを、私は感じてしまいます。

 確かに学校現場には、不都合なことに知らぬふりをしたり、コトを隠蔽したりする人もいますし、管理職にはそうした気風を当然のようにふるまう方がいるでしょう。でもそうだとしたら、それこそが現場の普遍性ですし、現場の公共性の現実です。それを壊して変えていこうというのであれば、一つひとつのデキゴトに向き合って、あなたのやり方を具体的なアクションとして発動していくしかありません。それが普遍的であるかどうか、適正な公共性に値するかどうかは、あとで、学者先生にでも喋々してもらえばいいことではありませんか。

 では教師は、何を規準にアクションを起せばいいのかと、現場の教師たちに問われるかもしれません。あるいは生徒や保護者に、あなたのアクションはおかしいと問い詰められるかもしれません。そこにこそ、現場の気風規範との具体的な闘いが始まるのだと、私は思います。なぜなら、他の人たちが向こうの方から、どうしてそんなことをするのかとあなたに関わってくるからです。つまり、あなたの話を聞こうと詰め寄ってくるのですから、そこでこそ、どうしてそのような振る舞いをするのかをあなたは説明もするし、詰め寄る人たちの胸の裡を聴き取ることにもなります。たいせつなことは、詰め寄る人たちが、なぜあなたのアクションに憤激しているのかを、あなたは知ることができます。また、あなたの説明もまた、あなたに分かる理屈を言えばいいのではなく、詰め寄る人たちの現状を組み込みながら、でも、*******(これこれこういう)ことが大切だと思いませんかと、あなたの考えを(その根拠を示しながら)ぶつけてみることができます。むろんアクションというのは、言葉を交わすように穏やかにやり取りできるかどうかは、わかりません。怒り狂った生徒が、乱暴を働くこともありましょう。その動きの一つひとつが、現場に立ち会う人たちによって吟味され、評価され、あるいは刺激的に作用し、あるいは退廃的に働いて、事態をぶち壊してしまうこともあるかもしれません。そのすべてが、あなたの「闘い」なのだと、私は思います。

 大事なことは、現場教師があらかじめひとつの「正しさ」だけでやりとりを片付けようとしないことです。説得ではないのです。教師ならずとも、必ず何がしかの「正しさ」を身に着けていて、日頃それに依拠して振る舞っています。ただ何が「正しい」かを言葉ではわかっているけれども、そう振る舞えないこともあるでしょう。あるいはまた、なぜそれが「正しい」のか、その根拠を考えたこともない人はたくさんいます。どちらの方が正しいという争いを直にしたりすると、たぶん、そのやり方に反撥して考えてもいないことをごり押しに「正しい」と言いはじめる人も出来します。この現場において「なにが正しいか」を、一緒に考えるような場面に持ち込んでこそ、学校であり、教師ではないかと私は思いますね。

追補:では、人は「正しい教育とは何か?」となぜ考えるのか。

 いまどき「正しい教育」っていうのも変ですが、kさんならずとも、教師ならたぶん誰もが心裡に、正しいとまではいわずとも、良き教育って、こういうんじゃないかというイメージを持っていると思います。それは子どものころから培ってきた人と人との関係、人と自然との関係のもたらした文化の堆積からなっています。

 それを、具体アクションにおいて控えろと(私は)言っているのではないのです。それは、控えるも何も、生徒に対して何がしかのアクションを起そうとしたときの「振る舞いの原基」になっているに違いありませんから、自ずから外に現れることだと思います。それが、時代の変遷とともに、移り変わっていると、私は考えています。

 なぜ「正しいか/良きか」を、ふだん私たちは、自分に問うたことがありません。感覚でいうと、好ましく思っているからにほかなりません。ただ単に「正しい/良き」ことという言葉になっていることだけでなく、振る舞い方や口のきき方、人と接する仕方において、私たちはいつしらず、身に付けてしまっていて、それをそのように受け止めていることがいっぱいあるのです。生徒もそうですし、保護者もそうです。人と接するというのは、そうしたそれぞれの抱え来ったことの全部をぶつけあって、ぼんやりと互いに共有したつもりになれるところで納得しているというわけです。

 だから、「正しい教育とは何か?」と問うのは、自分が「(これこれを)正しいと考えているのはなぜか」と問うことと考えると、誰もが自ら吟味しなくてはならないことです。それを、kさんもエッセイの中で触れているカントに触れながら、直に考えてみましょう。

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