2019年12月9日月曜日
また、霹靂
佐藤究『ANK:a mirroring ape』(講談社文庫、2019年)から受けた「刺激的であった」ことを書く前に霹靂が襲って、やむなく中断の運びになった。昨日のブログ記事のこと。
じつは、通風をまた、発症したのだ。最初の発症は2016/2/26。翌日のブログに《「雪の奥日光」余聞――晴天の霹靂》と記している。3年と10カ月ぶりだ。右足の足先の方に痛み。おやおや、また来たかという程度に、ずいぶん久し振りのやわらかい痛み。ところが、ほんの1時間ほどの間に強い痛みになる。おやおやというような悠長な気分ではない。歩くのも辛くなるほどの痛激に変わる。ちょうど日曜日、今日まで待っていま、医者に診てもらった。尿検査や血液検査、それに心電図もとったのは、私の持病が関係しているかもしれない。とりあえず、疲れがたまっているせいかもということにして、痛み止めの処方をしてもらった。今は落ち着いている。
何に刺激的であったと感じたのか。それを考えている。
(1)言葉が生まれる前段に「意識」が生まれるとこの作品は記している。
「意識」の出発点に自分と世界とをわけてみてとる作用が働いている。道具を使うというのは、自分の欲求目的を満たすために世界にあるモノを用具として用いることだが、それはモノがわが用をなさんと存在していると認知すること、つまり意味をもつものとしてモノを見ることである。それこそが「意識」の誕生である。
その「意識」の誕生を媒介したものが鏡であると、この著者は位置づける。この小説の副題a mirroring ape が示すように、鏡を見て、そこに写る自分を自分と認知できるかどうか。そこが最初の分岐点になる。1200万年前に枝分かれしたオランウータンは、鏡に映る自分を自分と認知できない。だが、ゴリラ、ボノボ、チンパンジーは、それをそれとして区別すると霊長類学は明らかにしている。850万年前の鏡は水溜りである。そこに写る自分の姿におののき、手をさしのべ、水の中の「じぶん」によって手が引き込まれていき、ついには水に没してしまう情景を描いて、鏡の神秘と「意識」の誕生を佐藤究は浮かび上がらせる。それを読む私は、その「意識」の誕生が、ちょうど宇宙のビッグバンのような役割を果たしたように思えた。
(2)「意識」が誕生するとは「じぶん」と「せかい」が分節化されることである。それと同時に、水の中の「じぶん」に引きずり込まれる「おののき」は「せかいの謎:不思議」になる。「意識」が目にするものは、驚きに満ちている。謎に満ちている。混沌の世界の不思議におののいてばかりではいられない。祈りがはじまったかもしれないし、禁忌がもうけられたかもしれない。動物の恵みを頂戴するときには、生きていたものを解体して食することへのおそれが、儀礼・儀式に転じたと文化人類学は説明している。
(3)「意識」が生まれ「じぶん」と「せかい」が分節化するとき、同時に、これは何? あれは何? それは何? と名前が付けられる。ことばの誕生である。「あれ」や「これ」や「それ」が「じぶん」と別のものとして意識されることによって、道具が生まれる。道具が生まれるとは、「じぶん」と「せかい」を意味を通じて結び直す振る舞いである。「せかい」の再獲得と言ってもいい。
世界がべったりと自分と不可分であるときは、たまたま手にあたってものを投げたり除けたりすることはあっても、それを何がしかの役に立てようと用いることはない。自分を自分と認知することであると同時に、それは、世界に自分を位置づける認知行為でもある。
「意識」の誕生がビッグバンであるというのは、そのことによって言葉が一挙に働き始める「せかい」のはじまりなのだ。文字通り、「はじめにことばありき」である。
(4)何よりもこの作家は、鏡に映る姿を認知することについて、それは「じぶん」であるが、「じぶん」ではないと相反するコトを同時に受け容れることとしている。絶対矛盾の自己同一である。鏡に映る姿は己の姿であるに違いないが、同時に、それは己自身ではないという認知が、「じぶん」と「せかい」のあいだに生じる「意識」の本質的な要素になる。こうした相反する要素を同時に取り込んでモノゴトを認知する力こそ、ことばの力である。
(5)ヒトの子どもも、1歳児には鏡を見て認知する「意識」はないという。だが2歳児となるとすでにそれは備わっているとなると、ことばの獲得と「じぶん」や「せかい」の認知とはどちらが先かということではなく、同時進行的に身に備わっていくもののようだ。むろん親・兄弟や取り囲む環境のもたらす作用があるからであるが、それがどのように作用しているか、興味深い。
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