2019年12月14日土曜日

自己矛盾が破綻しない「かんけい」


 前田英樹の『倫理という力』(講談社現代新書、2001年)を読んでいたら、次のような記述にぶつかった。

《たとえば、返す当てもないのに、必ず返すと言って、金を借りる。借りて行方をくらませば、自分は得をする。それは得をして、「幸福」になる一つのやり方だと言ってもよい。けれども、これを道徳に適った行為ということはできない。なぜなら、道徳行為の信条は、定言命法にしたがい、それが普遍的法則たることを意欲しつつ実行されるからだ。借金の踏み倒しが、普遍的法則になったのでは、約束をする意味もなくなるだろう。法則は自己矛盾を起して、破綻するだろう》p50


 前回触れた奥野克巳の長い表題の本『ありがとうもごめんさないもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、2018年)に、実は上述のケースとどんぴしゃりのプナンの振る舞いが記されている。プナンの人たちは、モノを借りる貸すという観念がないかのように振る舞う。現地を訪ねた奥野に金を貸してくれという。しかし、貸しても返さない。恩義を感じている気配もない。そして、奥野という人はケチではないという評判だけが行き渡るそうだ。プナンの人たちは、ケチをもっとも嫌う。自分の持っているものを欲しがる人がいれば、なんでも与えてしまうのを美徳と心得ていると、奥野は見て取る。だからプナンでもっとも尊敬される人は、一番の貧乏だと。そうしたプナンの振る舞いを見たのちに奥野は、ひょっとしたら、私たちの貸し借りの関係や契約関係の根幹から疑う必要があるのかもしれないと、自省している。

 前田英樹は、カントの考え方を説明するところで上記の「たとえ」話をしているから、近代社会を前提としているし、前田自身の考え方を述べているわけではない。前田は「倫理の原液」はヒトの生物的な自然から生まれるとみているようだ(同書「第一章」)から、奥野の自省のような視線も持ち合わせていないわけではない。それはそれで、同書を読み終わってから、あらためて考えてみたい問題である。だが前田の「たとえ」話は、今の時代に暮らしている私たちの常識的なものということはできる。そういうわが身を振り返る視点で気になったのだ。

 では、奥野が目にしたプナンの振る舞いは、どのような社会関係の中で規範として通用しているのであろうか。「ありがとうもごめんなさいもない」プナンの「かんけい」は、その集団の個体が個体それ自体として識別されていないのかもしれない。あるいは、個体が集団や社会を担う責任主体として認知されていないともいえる。何事が起こっても、ことごとくその集団すべての問題として受け容れられる。外部社会との接点はある。車を買う。免許がないから外部社会の免許を持った人の名義を借りて車を買う。分割払いの契約はするし、それが履行されために車を取り上げられることも、集団としては受け入れる。その支払いの金を手に入れるために獲ったイボイノシシの肉を町へ売りに行くこともしている。だが、その集団の成員の不始末を誰も責めないことを、奥野は不思議な面持ちでみている。「反省もしない」と記してもいる。つまり私たちの社会が成立する源流のあたりの共同体では、個体を独立の責任主体として切り分けるセンスがなかったことを意味している。これは、私たち自身が子どものころを想い起すと、家族というのがその全体を包み込んで抱えていくかたちで、同じようなセンスの海に浸かって暮らしていたことに思い当たる。

 今私たちはあまりにも遠くへ来てしまった。そして、昔日の、子どものころの「ありがとうもごめんなさいもない」(責任が問われようもない)海を忘れて、契約と責任の社会を泳いで渡らなければならない所に、わが子どもたちや孫たちは出くわしている。かつて保護膜のような働きをなしていた家族という集団すらも雲散霧消しかねない事態に出逢っている。

 もし私たちが、どう生きるかを主題として(倫理を)考えるのであれば、この源流のところから、どう、なぜ、隔たってきたかを省察しなくてはならないのではなかろうか。自己矛盾が破綻することを前提にしてしまうと、善悪二元論に吸引されてしまうような気がする。奥野のように、いったん現在社会の軛から(思考を)解き放って、つまり、価値的な判断を棚上げにして、善し悪しは別にした中動態的な考察へ踏み込む必要があると思う。それには、個人責任という「主体」設定をも棚上げにしてコミュニティを考える道筋を拓くことも視野に収めたい。

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