2019年12月6日金曜日
AIとの共生はできるのか
12/5の新聞各紙が、今年行われたOECDの「学習到達度調査(PISA)」の結果を報じた。《15歳対象国際調査 「読解力」続落 日本15位》と、2003年に読解力の順位が急落したことを機に文科省が全国学力調査を実施するなどの対策をとったが、効果が疑われるという内容。大雑把に、数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力の三指標をみたとき、前二者の順位は、2003年の1、2位から5,6位への変容だが、読解力は、8位から15位へ順位が落ちたというのである。
その一つの要因が(PISAがPCを用いて調査をしたことを取り上げて)パソコンを使う授業がOECD加盟国の中でも低いからと、文科省や朝日新聞の氏岡真弓編集委員は指摘する。だが私はむしろ、「(日本語の)読解力」そのものが落ちているという、新井紀子・国立情報学研究所教授(東大ロボ制作研究者)の指摘(『AIvs教科書が読めない子どもたち』)の方を取り上げたい。新井紀子はリーディングスキルテストを通じて、教科書が読めていない子どもの実態を指摘し、読解力を向上させるための教育こそが、いま重要だと主張する。つまり、数学や理科や社会の問題を解く能力以前に、問題文の意味するところを読み取る能力が欠落しているために解けないという。新井は読解力こそが、AIの最も苦手とするところであり、ヒトにしかできない領域だと考えている。
「日本の15歳はチャットやゲームで遊んでも、学習に(ITを)利用する時間は少ない」と氏岡は言うが、ITをつかうことに求められる能力が(それまでの言語を用いる能力から)変質してきていることを見過ごすわけにはいかない。ITが(その利用者に)求めるのは、YES/NOの明快な判断とその速さ。迷ったり、決断できなかったりするのは、まず対象外。文脈に、読み取っている自分の立ち位置を算入して文意をくみ取り、判断するという読解力に通じる能力は、ITシステムの構築者には不可欠な能力であっても、その利用者にはさほど必要とされない。しかも日常的には(銀行のATMや駅のチケット販売機を想いうかべてもらうとわかりやすいが)即断即決が必要だ。もたもたしていると、後ろに行列ができてしまう。こうしたITとの付き合いに馴染む過程で、今の子どもたちはモノゴトに白黒つけることが当たり前と思い、自らの選好が問われていることにうろたえ、習熟するにつれて直観を磨く。長い文章の細部を読み取って文意をくみ取ることに不慣れになり、ましてそれに対して自らを相対化して感懐を表明するのが苦手になるのは、いわば理の当然である。チャットやゲームのセンスも、同様に即断即決である。まして問いとなる情報を疑い、わが身の感覚の根拠に照らして自由に記述することは、ますます疎遠になっているに違いない。「正答率は前回より12ポイント下がっている」分だけ、彼らの読解力が変質してきていると考えた方が、事態を的確にとらえている。
それで思い出すのは、先月末に行われた36会Seminarが終わってからの雑談の中の話だ。これからの人たちはAIの時代に適応できないんじゃないかと私が話したとき、「それは私ら年寄りは、そういうことに触れる必要がないんだから、適応も不適応も問題にならないよ」「むしろ、AIが発展すると、年寄りには好都合な社会になるんじゃないか」「今の若い人たちの方が、私たち年寄りよりもはるかにAIに適応しているよ」と、ほぼ一斉に反発があった。すぐに忘年会に流れ込んだので、やりとりをする時間はなかったが、このPISAの結果報告をみて、私がいいたかったことが少し鮮明になった。
年寄りにとっては、ITもAIも、そもそもその作動するメカニズムやアルゴリズムが理解できない。というか、理解できないというバカの壁が立ちはだかって理解する気がないから、わかろうとしない。たしかにこれは、不適応である。だが、要は「バカは考えるな」と思って、モニター画面に表示される手順手続きにしたがって選好のボタンを押していけば、ATMでお金は降ろせるし、駅でチケットを手に入れることはできる。これは適応していると言える。つまり「適応できる/できない」という適応を、どの次元でどの視点から取り上げているかによって、論議の次元が変わる。まあ、でも余命いくばくの年寄りはいい。AI時代を生きていく若い人たちにとっては、AIにとってかわられることのない領域で力をつけないと、AIというヒトの適応能力を超えたテクノロジーの進展に向き合えないのではないか。そう私は、心配した。それが「読解力」である。
でもその話も、もう少し繊細に進める必要がある。テクノロジーのAIがヒトの適応能力を超えるというのと、ヒトの理解力を超えるというのとは、次元が違う。ヒトの理解力を超えて進展するというのをシンギュラリティ(技術的臨界点)と言っているのだとすると、その用語の最初の提起者の見立てでは2045年になる。このときにいう「ヒトの理解力」というのは、ヒトの社会の最先端、つまりエリート中のエリートの理解力をも超えるということだから、私たち庶民は、そういうエリートにおんぶにだっこで、「頑張ってね」とエールを送って見守っていればいい。だが、テクノロジーの進展がヒトの適応能力を超えるというのは、「ヒト」の標準をどこにおくかにもよるが、平均的なヒトの立ち位置を標準とすると、もう限界を超えているのではないか。ヒトは、ITやAIをブラックボックスのようにみている。それらが受け付けないことは、世の中が受け付けてくれないことなんだと引き下がるしかない。1円欠けても自販機のボトルは降りてこない。チケット自販機も、次への動きをストップして待機しているだけになる。金額が足りないことくらいは、誰でもわかるからいいが、ITやAIに組み込まれたアルゴリズムや論理に同意できないときは、ついにその機能を利用することもできない。そういう社会がやってくるのではないのか。
いや、すでにやってきていると私は考えている。ITやAIのブラックボックスに異議申し立てをしようとするとき、エリート中のエリートたちが手を付けない場合には、私たちには手の施しようがない。沈黙した自販機の前で立ちすくんでいるばかりだ。そして、エリート中のエリートである新井紀子が「教科書の読めない子どもたち」を事例に上げて「読解力の養成」を力説しているのは、大衆的な次元でAIと共生することのできる基礎能力を培う必要があると切実に感じているからではないのか。
ITやAIときちんとむきあって社会関係を保持し、ITやAI機器をコントロールしていく基盤を確保するために「読解力」が必要とされるというのが、新井紀子の指摘であった。便利な機器の普及する時代というのは、ヒトの原初から培ってきた能力を不要とし、違った次元の能力へとヒトを改造すると言われる。だがじつは、原初から培ってきた能力が要らなくなるのではなく、背景にしまい込まれるだけなのではないか。背景にしまい込んで忘れてしまうから要らなくなるように見えるというのは、じつは、社会的、国際的分業によって目撃する地平から消えているだけなのではないか。たまたま私たち日本人が目下、高度消費社会に浸って暮らしているから、ヒトのたどって培ってきた諸能力の古層の部分を忘れていられるだけに過ぎないのではないか。
文科省が、大学入試で英語の四つの技能を重視しようというのも、国語や数学の文章表現へ力点を移そうとするのも、あるいは(その大学入試が準備不足などを非難されるや)小中学生全員にパソコンを支給すると大風呂敷を広げるのも、たぶん、上記の時代への適応を意識してのことであろうが、その提起の仕方や政策の運びなどを見ていると、素人っぽくて危なっかしい。
そのように感じ、読解力の養成に気持ちが魅かれるのは、私たち年寄りのノスタルジーなのだろうか。子や孫の生きる時代を想って、あまり楽天的になれないのである。
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