2019年12月30日月曜日
「学校の変容」はどうモンダイになるのか(6)ヒトの実存における棒のようなもの
昨日の(5)の話に関係する書き込みがありましたので、少しつづけます。朝日新聞(12/28)の「異論のススメ」で佐伯啓思がkさんのぶつかった事態と似たような事例をあげています。
《先日あるレストラン経営者と話をしていたら、次のようなことを言っていた。若いものが修業に来ても、簡単に叱れない。また、「君はどうしてそれをやりたいのか、ちゃんと説明してくれ」ともなかなか言えない。少し強く言うと、パワハラだといわれかねないからである。その種のことがネットで拡散すると、仕事に差し支えるからだ、と》
佐伯のこのコラムのメインタイトルは「社会が失う国語力」。学習指導要領の改変に伴って「現代国語」を「論理国語」と「文学国語」に分割するという「改革」が提示されていることを見当違いと指摘して「改悪である」と断定しています。OECDの国際学習到達度調査(PISA)で日本の国語読解力が低下したことにも触れて「実用文の読み取り能力」を向上させようという趣旨なのだろうと、背景に進行する「若者だけではない。大人も大差ない(社会が失う国語力)」状況を慨嘆しています。その事例が、上述のことです。kさんの指摘するエゴセントリックな生徒たちの振る舞いの一つの源泉を言い当てているように思えます。
こういう状況が、昨日のブログの末尾で触れた「動物化する人間」です。ITで全面が覆われようとしている社会の文脈に適応する姿が「国語力」に現れています。情報化時代の「営業」上の困難は、人間の変容がひょっとするともう引き返しのつかない地点(臨界点)を超えてしまっているのかとも思わせますね。人が社会をつくるように考えられていますが、ヒトは社会に適応するものです。社会が機能的に変貌して来ると、ヒトの機能主義的なスウィッチが入り、その方面の力能が鍛えられて伸び始め、逆に非機能主義的な方面の力は片隅へ追いやられていきます。ヒトというのは、自らの姿を鏡に映し、そこに映された(と受け止めた)自己像に合わせて自らをつくるものです。だから非適応的なありようを身近に置いてそれに反照させて自分の位置を確認する。その過程で、身近な非適応的ありように「仲間意識」をもちながら反撥し、いじめ、排除していくという厄介な「かんけい」を紡いでいるのです。
しかしその状況を見て取る、kさんと佐伯啓思の陳述の仕方は決定的に違います。佐伯は自分が高校生であった頃の(国語教科はまったく好きになれなかったが)読書三昧の日々を想いうかべ、《…だから私の場合、昨今の高校における学習指導要領の改変、大学入試の改革等も、この私のような高校生がいるとして、その目線から論じて見たくなるのだが……》と、自らの輪郭を描き出すような起点を提出しています。私は佐伯の読書三昧の記述の行間に、一本「棒のようなもの」が通っていることを感じています。kさんは、手を焼いている教師の状況として描いてはいますが、エゴセントリックな生徒の「目線」を組み込んでいません。秩序を維持することが前面に出てきて、エゴセントリックな子どもたちの琴線に触れるような響きがどこにも見当たらないのです。kさん自身の人間観に「棒のようなもの」が感じられないとでもいいましょうか。その違いが、「論理国語」と「文学国語」の端境を浮き彫りにしています。
子どもの目線を組み込む重松清は子どもや若者たちの日常の「かんけい」を描いて秀逸な作家です。たとえば、つい昨日図書館で手に取った『きみの友だち』(新潮社、2005年)は、小学生から中学生の学校におけるヒリヒリした情景をピックアップして、「かんけい」の移ろいを掬い上げています。重松も、学校の関係の中で孤立する子ども・生徒を取り出し、友だち関係に溶け込んでいる子ども・生徒たちと対照させて、その姿を浮き彫りにしていきます。にもかかわらずkさんが指摘するような、特異点をピックアップして「場」の全体の気風を見損なっていると思えないのは、孤立する子ども・生徒の成長が胸中にもっている「棒のようなもの」が垣間見えるからです。
ここで「棒のようなもの」と言ってるのは、ヒトが生きていくうえでの根底的な独立不羈の魂のようなことなのですが、魂と言っても精神とか霊魂とかそういうイメージではありません。もっと身に沁みこんで一挙手一投足に現れてくるような、生き方の振舞いです。年末になると思い出すのが、「去年今年貫く棒のようなもの」という高浜虚子の句です。掃除・片づけをきちんとやるとか、お節をつくるとか、コトゴトの始末をつけるという暮らしの仕種が、独立不羈の魂のように染み込んでいる挙措動作。かつて、暮らしということは、「棒のようなもの」を受け継いで伝えることでした。私たち戦中生まれ戦後育ちは、憚りながら、ひとたび崩壊してのちの貧しい時代を過ごしたこともあって、ヒトの暮らしの最初からやり直しているような感触を身につけてきました。竈に火を熾しご飯を炊くのも、火加減を見ながら火を落として釜を降ろすのも、たぶん原始時代からやって来たこととさほど変わらない作業だったに違いありません。こうしてヒトは生き延びてきたんだと思うような社会に、振り返ってみると育ってきました。それが棒のようなものを身に着けさせたのかもしれません。
それが崩壊していく。その気配を感じて懸念を表明しているのが佐伯啓思です。50代のkさんもまた、同様に身が働いて、その振る舞いが傍らに押し寄せられるのに、いら立っているのかもしれません。でもそれは、指摘される「現場」だけの「変容」がモンダイなのではなく、「社会が失う国語力」というような、大きな視界においてとらえなければならない事柄なのだと言えます。
では、現場の教師はどうすればいいのか。私たちが身をおく場は、身過ぎ世過ぎも含めて、ほんのちっちゃな「現場」にすぎません。ですからそこの当事者である教師が、手を付けられることは、ほんのささやかな試みですし、試みられると同時に蒸発してしまうような儚いことかもしれません。でも、そうしたことの一つひとつのアクションが、的確に的を射るように、それが遠近法的消失点から見てとると限りなく的を射ることに近づいていくモメントを含み持っていると感じられることを、行う。その社会的な広まりがいずれは気風をつくりだし、次の世代のヒトの暮らしを調えていく独立不羈の魂を磨いていくのではないかと、期待を込めて、ほのかに思っている次第です。
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