2019年12月18日水曜日
人倫の最高価値は雲散霧消してしまったのか
現役教師であるkさんの話を続けます。
「問題浮上のいきさつ(1)」で記しましたように、彼は「教育の謎」を問おうとして、抽象論の世界に踏み込み、「問題浮上のいきさつ(2)」の記述のように、「そもそも正しい教育とは何か?」を問うてしまったと、展開しています。そして、《現場の教師としての「学校の共同性」に解消され》るかもしれない、具体的なアクションの段階にとどめておけばよかったかと、反省しているように思いました。あるいは私のメモによる指摘を、そのように受け取ったのかもしれません。
アメリカのトランプ大統領は、「自分の利益になること」はすべて正しいと考えているように振る舞っています。「自分の利益」というのがあまりに狭ければ「(彼の考える)アメリカの利益」と言い換えてもいいかもしれませんが、自分を利する言説はtruthであり、不利益になる言説はすべてfakeと言って憚りません。このような「正しい」ということばの遣い方を、私は知りません。トランプ流ではまるで、「わたしが正義だ」と言ってるようです。「政治家は三百代言の輩」と私は思っていますから驚きはしませんが、このことばの遣い方の変容(とそれを大統領にかつぐような人たちが多数いる事態)は、時代の変わり方を示しているように思います。
正しいということは、真・善・美・聖という人倫の最高価値の領域へ向かおうとする言葉だと、私は思ってきました。だから、「善きこと」と「良きこと」とは違います。前者は、絶対的な価値を意味し、後者は、その状況における心地よきことです。逆にいうと、いろいろな「状況」における「良きこと」は相対的なものであり、その状況に身をおく人が感じる「良きこと」は、絶対的な価値・「善きこと」に向かう場合もあれば、まったく向かわない場合もあるというか、まずは、次元が違うことだと考えています。
ところがトランプ大統領ばかりか、高度消費社会に入った人類は、快気・快感・快適・快楽…など、自分が感じる心地よいことはことごとく良いことだと受けとめ、まことのこと・りっぱなこと・うるわしきこと・たっときことに向かうのを、忘れてしまったように「棚上げ」してしまいました。そうすることによって、わが利益が他の害悪になっても、それは喜ばしきこととして、駆け引きに勤しむようになっています。ここが、戦中生まれ戦後育ちの、私たち世代の感覚と違うところなのです。
子どもの頃はなべて貧しかったと地方都市育ちの私などは思っていますが、通りを歩きながらものを食べてはいけませんとしつけられて育ちました。食べ物のないほかの子たちの心根に配慮せよ(見せびらかすようなことは慎むべし)という気遣いの教えだったと受け取っています。食卓に着いたら、全員が着座してご挨拶を済ませてから、箸を手に取れとも教わりました。「いただきます」というのは、その食事の素材の一つひとつをつくってくれた(目に見えない)お百姓さんに感謝しているのだと思っていました。貧しかったがゆえに、手に入るもののことごとくが、人の手によってつくられ、受け渡され、手を加えられてここに並んでいると肌で感じていたことが大きかったと思います。
それが経済成長とわが身の成長とを経ていつしか、社会がつくったものを商品交換していると思い、商品生産も機械が製造過程を担っているようにうけとめ、人の手によってつくられていると思わなくなってしまったのではないか。価格が高いや安いかを値踏みするようになり、安価に手に入れると儲けたような気がして快哉を感じるという感性を育ててきましたね。
つまり「正しい」という次元が中空に消え、人と人との関係のあいだから人倫の最高価値を示す領域の言葉が雲散霧消して、金銭で計る価値へと変貌していきました。それが、高度経済成長以来の日本の私たちが辿ってきた道のりだと、いま振り返っているのです。その結果のひとつの現れが、政治家や官僚たちの目に余る退廃です。そういう政治家を選ぶ国民が悪いと誰かが言っていましたが、社会的仕組みも含めて、それが、大きな経済成長のもたらした文化的な「精華」なのです。むろん子どもたちの振る舞いも、その一つの事象です。kさんたち現役教師が向き合っている生徒も、その保護者も、いやそれを教えている現役教師も、まるごとこの「精華」の渦に巻き込まれています。
だから、kさんのように「なにが正しい教育か?」と考える方がいることは希少です。ですが、「*(これ)」が「正しい教育」ですということがわかったとしても、それをだれがそれとして受け止めてくれるでしょうか。もはや「正しい」という言葉が、受けとめる人の快感原則に沿うかどうかで判断されているのだとしたら、言葉で定義づけられたとしても、見向きもされません。そもそも、人倫の最高価値を示す領域は、そのような言葉の定義で継承されてきたものだとは、私は考えていません。
ここでkさんとは方法的な分岐があると思うのですが、では人倫の最高価値を占める領域への志向は、私においてはどう継承されてきただろうかと、まずわが身を振り返ります。もちろんわが身に染みているコトゴトには、幼いころから接してきた大人や子どもたちが居り、家族やご近所や学校という社会システムとそこに居合わせた人々が居る。そればかりか、新聞やラジオ、テレビ、図書館の本や書店の雑誌、美術館の絵画、メディアから流れる音楽や浪曲、落語、漫才、バラエティと、文化のすべてがかかわっています。そのかかわりのどこかで、私の身の裡の「人倫」にかかわるスウィッチが押されたとき、私の内部に「まことのこと・りっぱなこと・うるわしきこと・たっときこと」を感知する、あるいはそこへ向かう胚芽が生まれたのだと考えています。
例えば定時制高校の教師をしていたころ、担任していた生徒の一人が就職先を変えるための試験に合格しました。別の生徒も同じところを受けていて不合格であったので、「喜ばないように」と話してクラスへ返しました。その生徒の母親が卒業式のときに挨拶にみえて、「(娘に)そうおっしゃってくださって、ありがとうございます。大事なことを教えてくださいました」とお礼を言われたとき、ハタと気づきました。私は同じクラスに不合格者がいたから、そう言ったに過ぎないのですが、寿司屋の女将である母親のような受け止め方があって、はじめて娘にも、その箇所のスウィッチが入ったに違いないとおもったのです。人倫は、人に育まれて育ちもし、廃れもするのです。
時代の大きな変容というのは、人の個人的快感・快楽をくすぐることが商業的にも持ちあげられています。どちらかというと、個々人の本能的な快感や快楽を身の裡に抑える(我慢する)ところに人倫の崇高さが生まれてくるスウィッチが押されるのに対し、それに反する社会的気風が日常化しつつあることです。それに従って、「正しきこと」も、人それぞれの感覚の中で、自分が心地よいと感じるかどうかを規準として受けとめられるようになっています。それを社会システムのせいにしてしまうと、資本家社会的システムが、人倫とはっきり対立するように走り始めたと言えるのかもしれません。
そうしていま、その社会システムに適応しようと、人間自身が変わってきている。そう考えた方がいいのかもしれませんね。もう人倫の最高価値は雲散霧消してしまったのかもしれない、と。
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