2020年7月1日水曜日

法と倫理の相互関係(2)――「恨(ハン)」というエネルギー源


 韓国の人々と韓国政府が違った立ち位置にたつことは、ありうること。だが、いくつもの疑問が浮かんでくる。
 1965年に政府の締結したことを全く無視して、「運動」が展開されるなんて、どういうことだ?
 しかも現在の韓国政府は、司法の判断だからという言い訳をして、最高裁の判断が政府の「不作為」を指摘してるのに、まったく知らぬ顔でスルーしているのは、どうしてなんだ?
 また市民の「運動」はどうして、自国の政府に向かわないで、日本政府に向かうんだ?
 
 オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)は、上記の私の疑問に実に丁寧に応えている。ところどころちょっとわからないこともあるが、「地政心理」で読み解くというのが、その地に暮らす人の心情に寄り添っていて、おもしろいと思った。また、対照させている日本(人)のものの見方や感じ方は、私自身に対する批判に思えて、これも興味深く感じた。そのいくつかを紹介しながら、彼の論理を辿ってみよう。


 ★ 子ども心に刻まれる「ふるさと」のイメージ

 地勢的な環境が、そこに暮らす人々の心情にもたらすものが大きいのは、和辻哲郎の論を待つ間でもない。ロー・ダニエルは韓国と日本を対照させて、半島と列島と呼びながら、対照する。
 半島(ことに南半分)は比較的平らかな部分が多く、国家権力の中央部にも見晴らしが利く。自然は人が利用するものであり、自然に従うものとは考えない。
 それに対して列島は7割が山であり、しかも(地震や洪水や山崩れという)災害が頻繁に起きることとともに生きねばならない。山間地に共同的集落をつくって散在する。そのため列島は、中央支配がすぐに視野に入るわけではなく、自然の節理にしたがいつつ暮らしをたてる。
 この両者の違いに、権力や権威に対する向き合い方が醸成されているとロー・ダニエルはみる。権力や権威に反抗的であり挑戦的な半島と無関心であり従順な列島という対比だ。彼が最初に掲げる「童謡」に驚いた。
 
 ローが子どもの頃、「1960年代に韓国の子どもが縄跳びをやりながら歌っていた歌」が紹介されている。
  白頭山が下に走り半島三千里
  無窮花のこの山川に歴史半万年
  代を継いで生きる我が三千万
  幸福なその国は大韓なのだ
 
 それに対して「明治時代に歌われた「日本の国」という童謡」を列島の子どもの歌として紹介している。
    日本の国は松の国 見上げる峰の一つ松
    はまべはつづく松原の 枝ぶりすべておもしろや
    わけても名に負う松島の 大島小島
    その中を通ふ 白帆の美しや
 
 日本の歌は、私たちの小学唱歌「ふるさと」にも通じる響きを湛えている。
 半島の「縄跳び歌」が、周辺国からの侵略にさらされてきた証のようだ。ローはそれを、列島は天災、半島は人災として、統一新羅時代(676年)以来、900回の外部からの侵入があったと記して、「地政学的受難」と呼んでいる。おおよそ1350年間に900回の侵略、1・5年に1回の割りで、外敵と向き合わねばならなかったわけだ。それも見晴らしの利く大地の上で。もちろん単なる外敵ではなく、内部の分裂をともなって利敵行為もあったろうし、朝鮮戦争のように外部の力を借りて、内部同士が骨肉の争いを繰り広げたことも数えきれないと言える。日本も、四回の侵略を試みているとあったが、近代になってからでも、日清、日露の戦いと絡んでいたことはいうまでもない。
 そうか、まずその違いがあるなあと、同情を禁じ得ない。日本人の私がそのようにいうと、他人事ではないかとお叱りを受けると思う。たしかに私の実感には、韓国を植民地にしたというかすかな記憶が、戦後の身の回りにいた朝鮮人差別として水鉛をおろしているが、「侵略」というのは、知的に身に刻んでいるにすぎない。それよりも、3年に2回の侵略を受けていたとなると、これは「うさぎ追いしかの山 こぶなつりしかの川」という「ふるさと」の実感を持つわけにはいかないと痛切に頭でも感じる。
 国民性というが、私などが考えている近代の「国民国家」というのは、日本も韓国も法制的な枠組みは変わらないとみている。システマティックに、つまり機能的な枠組みだけで、その国民国家には、国民の姿は組み込まれていない。だが「日韓問題」というのを考えるときには、法制的な枠組みだけではなく、そこに住まう人々を組み込んだモンダイを見て取らないと、理解するわけにはいかないと思う。
 
 ★ 半島に根付く「恨(ハン)」の心情

 常に侵略に脅かされて生きていくことが「恨(ハン)」の心情を培ったのか。不条理に襲い掛かる脅威に対する「恨(ハン)」と簡単に理解できるものではないと、ロー・ダニエルは解き明かす。要点をつまむと、脅かされて積もり積もる「恨み」の心情とともに、その悲しみや哀傷、あるいはそれに耐える根気と慇懃の美徳という、相反する「思い」を表象しているコトバなのだ。ローが印象する哲学者・小倉紀蔵の言葉がよく表している。

《「恨(ハン)」は被害意識。自分の現実と理想との差異に由来する感情。その主観的側面にもっともよくあてはまる日本語は、〈あこがれ〉であるという。もちろんハンには「恨み」という意味はあるのだが、単なる恨みではなく、そこにはあこがれの裏打ちがあるのである。》

 それを引き取ってローは、「ハンには「恨み」という情緒を問題視する視点と「美徳」と礼賛する視点が混在する。この矛盾の要諦には、その感情の痛烈さにある種の「力」が潜んでいる」と、韓国人のエネルギーの源泉とみてとっている。いかにも「地政心理」を標榜する解析になっている。
 「恨(ハン)」ということを単なる「恨み」としていては、とても韓国人の心裡をうかがい知ることはできない。小倉の〈あこがれ〉とかローの「力」の源泉と読み取ると、韓国人のデモの苛烈さが思い浮かび、底流する心情を感じることができる。
 
 だが待てよ。どうして韓国は日本にばかり挑戦的なんだ。歴史的により深いかかわりのあった中国や、南北分断後の相手方でもあるロシア、あるいはアメリカに対しても激しい抵抗や挑戦をしているのであろうか。どうもそうではなさそうだ。日本に対しては、とりわけ激しい「恨(ハン)」を「恨み」の心情側面で感じているようなのだ。
 ローがとりあげている対比の中で、半島と列島の身長の比較があった。男性で3センチほど、女性で2センチ余韓国人のほうが背が高い。倭人という呼び方には、矮小であるという蔑視が込められているという解説を読むまでもなく、韓国人にとっては、列島が文化の面において半島に学び、その教えにしたがって文化を進展させてきたことは歴史の明らかにするところという自負心がある。
 しかも、半島人は、小倉紀蔵に言わせると「国際社会での上昇へのあこがれと、その挫折による悲しみである「民族ハン」(を共有している)。そして、日本こそは民族ハン=上昇へのあこがれが挫折する悲しみを形成させる主犯である」との認識を共有している。つまり、「韓国の民族ハンの裏には、いつも日本がある。日本があらざるをえぬ。」という。
 別様にいえば、韓国人は日本を攻撃することによって自己の実存を確かめつつ、それをエネルギーとして国際社会で上り詰めてきたと考えているようなのだ。そう読み取って、一つ腑に落ちたことがある。昨年、日本政府がいくつかの輸出品について、それまでの「優遇扱い」をはずしたこと。あれは、韓国人の気持ちを著しく傷つけたに違いない。日本政府は単なる技術的な変更と説明する。だが韓国にとっては「優遇扱い」することこそ、日本の(植民地支配をしてきたことへの)贖罪であって、ただ単に、機能的な扱いの変更ではすまないことであったのだ。ローがいう「半島人の当為主義」的なベースを知らなければ、どうして日本政府の説明が受け入れられないのだろうと、不思議に思うばかりであった。
 そういう意味では、「日韓問題」は文明・文化の衝突だともいえる。
 でも、私たち日本人のもっている「近代的な」枠組みは、半島人には理解できないのだろうか。私などが考える近代的な国際関係の枠組みが韓国に通用しないとすると、ヨーロッパやアメリカと韓国はどうやってお付き合いしているのだろうか。(つづく)

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