2020年7月31日金曜日
変わらず降り続く雨
奥日光は、昨日(7/30)も朝から雨。ゆっくり食事をとり、宿を出て、竜頭の滝上の駐車場に車を置く。ここから高山を往復して来ようというわけ。上りはじめるころには雨がやみ、「9時~12時曇り」の予報通りだと喜んだのもつかの間、小雨になる。ただ、樹林の中を歩くから、それほどうるさく感じない。戦場ヶ原につづくカラマツの林とミヤコザサの森は、しっとりと濡れてみずみずしい。足元は砂利道になっていて、ぬかるんでいない。大きく高山の山体を西へへつって回り込み、緩やかに高度を上げる。高山の北端のピークを巻いて中ほどで稜線に上がる。ここにロープが掛けられているが、それほどの急登ではない。稜線上には「←竜頭滝・高山→」の標識が立つ。深い雲霧が進路を閉ざしている。
2020年7月30日木曜日
水滴る奥日光
今日(7/29)も雨。今年の梅雨は、どうなってんだろう。もうじき8月だぜ。いつもなら、「梅雨知らず」と言われる奥日光も、連日の雨、雨、雨。
でも、もともと雨だと思っていれば、雨はどうってことない。
今日も赤沼から歩き始めた。歩くはじめる前に、赤沼のバスセンターの案内センターに立ち寄った。戦場ヶ原はほぼ立入禁止。昨年の台風19号が残した爪痕の始末がついていないのだ。
2020年7月29日水曜日
まさしくgo-to-trouble
奥日光に来ています。東京のコロナ感染者数がどんどん増えていた今月の初め。7、8月に予定していた宿泊を伴う山行を、(山の会の常連が)白紙に戻した。宿(での感染)が心配というのだ。その当時は、梅雨が早く開けるといわれていたから、それで私の山プランは、まったくフリーになった。ならば、まず奥日光に行ってカミサンを師匠に植物の門前の小僧にでもなろうかと考え、宿を予約した。政府のgo-to-キャンペーンなどが始まる前の話。
2020年7月27日月曜日
とんび
新型コロナウィルスのお蔭で、古いドラマの再放送を観ることができる。7/25には、重松清原作の「とんび」の前編と後編、各73分が一挙に放映され、録画で観た。既視感があった。原作は読んだ覚えがある。ひょっとしてと思って、調べたら、2011年(2011/11/26)に「我がことも他人事、他人事も我がこと」と題して感想を書いていた。転載する。
2020年7月26日日曜日
完結編を眺望する
5/23に予定されていた卒後60年ぶりの「高校同窓会」が、コロナウィルスの関係で11/14に延期となった。その幹事長から「10/5に幹事会を開いて11/14の開催を行うかどうか決定する」と知らせがあった。それと合わせて彼が指導してきた「サッカー」に関するエッセイを添付してきた。私が高校生の頃には「蹴球」と呼んでいた。高校の授業ではラグビーを教えていたが、サッカーはやらなかった。手をつかっちゃいけないというルールだけで、グラウンドを走り回るのは、わかりやすいと言えばわかり易かった。だが、ボールを取り合ってすり抜けられるのは、身体能力的にとても適わず、いつも騙されたような無念さが残って感じが悪かった印象が強い。
2020年7月25日土曜日
植物の猛威――人間はもういい、か
昨日(7/24)の午前中が梅雨の晴れ間。秋ヶ瀬のサクラソウ自生地へ足を運んだ。植物案内人がいてこその見学。ゆっくり見て歩いたのは2カ月ぶり。昨日の雨で水溜りができていて、踏み込めないところがあった。それ以上に驚いたのは、草木の成長の速さ。いつもの見学通路が両側からすっかり覆われて、かき分けて歩かねばならなかった。その先は水溜り。ふだんなら案内の人は、長靴を履いて観察して歩くそうだ。バアソブの花が咲いているのをみせてくれた。花はないが、小豆の原種と大豆の原種が、葉を並べて生えている。見た目には小豆の原種の葉の方が大豆のそれよりも大きい。
2020年7月23日木曜日
原点からみる、「公共」ってなんだ?
映画『パブリック――図書館の奇跡』(エミリオ・エステベス監督、アメリカ2018年)を観た。面白かった。去年の今頃、フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス』(原題はEx-Libris The New York Public Libraly。2017年)を観た。その時の、文化(継承)に向き合う強烈な図書館員の熱意に、心揺さぶられた。それを許容しているアメリカという国の「公共性」にかける社会のエートスも、印象深く響いた。文化の多様性と日本では言うが、アメリカの多民族文化の比ではないと痛感させられたものだった。
2020年7月22日水曜日
今日の我が身・・・
久坂部羊『老父よ、帰れ』(朝日新聞出版社、2019年)を読む。この作家、医者である。何年か前、終末期医療のことを調べたとき、この方の記したスパゲッティ症候群の患者の記述が真に迫って気味悪く、私の終末期医療のかたちを決めさせたことがあった。本書のタイトルから認知症の父親を素材にしているとわかる。
登場する父親は75歳、私より若い。語り手は息子。この息子の設定を通俗的な市井の人にしていて、認知症の父親と医者や看護師やヘルパーという専門的介助者と市井の人との落差を書き記すと、自ずから啓蒙的な作品になると踏んで展開するから、スぺゲッティ症候群にみるような凄惨さが前面に出ない。むしろ認知症の父親の振る舞いに、うろたえる当人や隣人という、息子の世界が浮き彫りになる。その分だけ、認知症の世界を描いているというよりも、認知症者を抱える市井の人々の世界を主題にしていると読める。
2020年7月21日火曜日
新型コロナウィルスの正体に迫る「仮説」
感染者数の増減に一喜一憂する日々が続いている。東洋経済onlineで大崎明子コラムニストが、その正体に迫る「仮説」の一つを紹介している。それが結構、これまでに報道された新型コロナウィルスの広がりと死亡率と欧米などとアジアの落差とをとらえるのに、単純明快である。いろいろな「仮説」がこれからも出されてくるだろうが、私たち素人が何をもって、より正しいと判断できるか。いろいろな状況を、できるだけ単純に説明できることだと(私は)思っている。
2020年7月20日月曜日
何という晴れ間
昨日(7/19)、東松山の森林公園付近に届けるものと受け取るものがあり、車で行くことになった。天気の予報は、午前中曇り午後小雨。ただ行くだけじゃもったいないから武蔵丘陵森林公園へ行って、中を散策して来ようと思った。カミサンがお弁当も作ってくれるという。雨具と傘を用意し、双眼鏡をもって出かけた。
2020年7月19日日曜日
コトが過剰に装飾される
篠田節子『讃歌』(朝日新聞社、2006年)。図書館の書架で手に取った。一人のTV番組制作会社のディレクターを語り手に、子ども時代の「天才ヴァイオリニスト」の挫折とヴィオラ奏者として再生して音楽を慈しむ姿が、マスメディアの目に止まって評価が入り乱れてゆく過程を織り込んで、音楽というのが私たちに今、どのように受けとめられているのかを描き出している。世相の切りとり方、ヴァイオリンやヴィオラ奏者の技量の奥行き、聴く側の評価と演奏する側の「音楽」のズレを、油絵を描くように描きこんでいる。
2020年7月18日土曜日
沈黙の塊
退職して18年目を過ごしている。こんなに長生きするとは思いもしなかった。友人とのお付き合いも、絶えるに近いほどなくなってしまった。年に1回くらいしか会わないことになる。風の便りに、ある友人の奥方が亡くなったと知った。
無沙汰を詫び、風の便りを聴いたと振って、お悔やみの手紙を送った。何を書き送ったか、その内容は手元に残していない。その彼から来た返信が、書斎の積み上げられた書類の中から出てきた。目を通し、これは記し置いておくべきものだと思い、いま、転載しようとしている。
2020年7月17日金曜日
少子化時代の後期高齢者
河合雅司『未来の年表2――人口減少日本であなたに起きること』(講談社現代新書、2018年)を読んだ。既視感があった。調べてみると昨年11月に、この方の講演を基調報告としたブックレット『人口急減社会で何が起きるのか―メディア報道の在り方を考える』(新聞通信調査会編、2018年)を読んでいた。たぶんそれで、図書館に予約したのが今ごろ届いたに違いない。
「人口減少カタログ」と銘打った章は、先行書「未来の年表」をカタログ風に書き落としたノウハウもの。それがちょうど、コロナウィルス禍の来襲にどう過ごそうかとおろおろしている後期高齢者にとっては、「近未来のリアル」ってわけだ。さかさかと読み通した。
2020年7月16日木曜日
ちぐはぐは変化の兆し?
コロナウィルス禍の勢いが止まらない。東京都も再び警戒信号を出した。大阪府も警戒の色を隠さない。ただ政府だけが、馬鹿の一つ覚えのように「緊急事態宣言を発出する状況にはない」と、何を見てんだかと思うような見解を表明して、goto-キャンペーンの前倒し展開にこだわっている。TVメディアのコメンテータも、このこだわりように驚きを通り越してあきれ顔の反応だ。
2020年7月15日水曜日
神と云ふ大自然
一昨日(7/13)に山歩きをした。5時間の軽い奥武蔵稜線歩き。標高差はそれほどなかった。ところが、山行記録を書き落とした後の昨日(7/14)、お昼を済ませ、録画した映画「丹下左膳」を観ていて、どっと疲れが出ていると感じた。珍しいことだ。いつもなら3日か4日目に出てくる疲れを、こんなに早く感じるとはと、わが身が驚いている。映画が終わっても起き上がる元気がない。そのままうとうととソファで寝入ってしまった。夕食後も少し本を読んだだけで早々と床に就き、8時半には寝てしまったようだ。
2020年7月14日火曜日
雲の中を歩く
ほぼ毎日雨がつづく今週、月曜日だけが日中曇りという予報に、山へ足を運んだ。車で行ける所なら声をかけてと話のあったkwrさん夫妻にメールを二日前に送ると、すぐに行くと返信が来た。ところが日曜日に「予報」をみると、午後3時ころから雨となっている。
選んだ行程は7時間ほどの、しかし高低差のそれほど大きくない稜線ハイキング。8時半ころ出発しても3時を過ぎてしまう。そこで、下山口に1台車を置き、登山のスタート地点を(駐車場のある)正丸駅ではなく正丸峠にまでもっていくと、2時間ほどの短縮になる。お昼時間をとっても、5時間半ほどの行程なら、雨が落ちる前に下山できるのではないか。
2020年7月12日日曜日
欲望と抑制
「トランプ氏、元顧問の刑免除」と見出しを付けた記事が今朝の朝刊にあった。2016年の大統領選で「ロシア疑惑」にかかわったとして有罪となったロジャー・ストーン被告が、収監される直前に大統領の判断によって免除されたというもの。
ええっ、それって露骨じゃん。
「ロシアに関する作り話の犠牲者だ」とホワイトハウスは声明を出したそうだが、司法権限もへったくれもない、大統領がダメと考えるものはダメだと権力を揮うってことだ。
でも考えてみると、正直ではある。
2020年7月11日土曜日
キャンセルの不可思議
一週間後に大阪・堺の宿を予約していた。去年の12月のこと。コロナウィルス禍がやって来るとは思いもよらなかったころ。その宿の受付をしたのは、旅の諸予約を一手に引き受けているインターネット代理店。支払いもカードで済ませる、予約の「キャンセル不可」とあったが、半年以上先の予約の目的は「法事」であったから、キャンセルすることがあろうとは、思いもしなかった。一緒の方が良かろうと、兄弟の分も一緒にまとめたので、それきりにしていた。
2020年7月10日金曜日
夢の欠片――天皇制への視角
夢の名残というか、残りっ滓が起きてから胸中に漂う。夢の欠片。ドリップコーヒーにゆっくりお湯を注いでいるときに、粉がふっくらと湧き起り合間からぷつぷつと泡が起ちあがる。夢の欠片が天皇であったことにはたと気づいて、戸惑う。戸惑いながら、でも、何か天の啓示のように感じて、欠片の向かっていた先へ思いを馳せる。
欠片がもっていたニュアンスは、何とか感じ止めた。だが、意味を持つ言葉にはならない。
2020年7月9日木曜日
雨が降る、コロナがかかる
先週の月曜日、6/29に山に行って以来、雨が降り続く。梅雨と言えばいかにも梅雨なのだが、伝えられる各地の洪水災害は、しかし尋常ではない。
「線状降水帯」というらしい。TVの気象予報士は(この用語が以前から)「ありましたよ」と平然としている。私は初耳。いつもなら梅雨前線と言っていたではないか。それとの違いが何なのかは、しかし、画面のメインキャスターの関心にないのか、尋ねようとしない。
九州では例年の梅雨の一か月分の雨が一晩で降ったらしい。その降水量の「異常さ」を表すのに、「線状降水帯」という聞きなれない言葉の響きがぴったりはまっていたのだろう。自然現象だから、何か意図をもって降っているわけではないのだろうが、TVの解説では「もう少し南北に動いてくれれば(この地形の山稜で降った雨が分散されて)これほどの被害をもたらさなかった」と、後付けの期待を割りつけたりしている。モンダイは、この降雨がいかなる人為的振舞いの結果かなのだ、と理科学的な頭は考えている。
2020年7月8日水曜日
まだ原木とみる「敬意」
丸山ゴンザレス『世界の危険思想――悪いやつらの頭の中』(光文社新書、2019年)を手に取った。標題が面白そうと思ったから。殺し屋、裏社会、売春産業、麻薬の売人、その差配をする麻薬カルテルやマフィア、そういう悪いやつらと会って、言葉を交わし、ときに(少しばかり)行を共にし、やつらが何を考え、なぜいとも簡単に人を殺せるのかみてみたレポート、という感じの本だ。
なぜこんな本を図書館に予約したのか、わからない。どこかでコマーシャルを見て、書名に気持ちを惹かれたか。いやじつは、この著者の経歴が目を惹く。《「考古学者崩れ」のジャーナリスト》と経歴紹介にある。どう「崩れ」たかは、わからない。修士号までもつらしい。「ダークツーリスト」とか「クレイジージャーニー」とか「罰当たり旅行」という署名の本を出しているようだから、まちょっと、場を変えた戦場カメラマンみたいなことをしてきた方か。今年誕生日が来れば、43歳というから、まだ若い。
でもこの本は、悪いやつらに接したよ、けっこうヤバかったぜ、やつらは何の迷いもなく人を片付けるよ、と体験を記す。徹底して場面と情景を描写する具体性はない。そういう意味では、緊迫感は伝わってこない。いやけっこう緊張したよとご当人が言葉にするから、よけい、ふ~んそれで? とページを繰るだけ。ジャーナリストという肩書は、ちょっと誇大にすぎるかな。
2020年7月7日火曜日
法と倫理の相互関係(4)――皆もろともに奈落の底へ
オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)の始末をしておかねばならない。このシリーズのタイトルを「法と倫理の相互関係」としたのは、オーが次のように書いていることに、引っかかったからであった。
《(韓国人の)当為主義が、法と倫理を一体のものと感じているのに対して、日本人の機能主義は法と倫理を切り離して考えている。》
2020年7月6日月曜日
動態的に読む町おこし
スウィングするかどうか。町おこしも、動的にみなきゃあわからない。そんなことを感じさせる小説であった。篠田節子『ロズウェルなんか知らない』(講談社、2005年)を読んだ。
冒頭の章が「2030年人口ゼロ」とあるものだから、15年も昔にかかれたものだとは思いもしないで手に取った。そういえば小渕内閣の時代に、これからの人口減少に対応するためには毎年60万人の外国人労働者の移民を認める必要があると、審議会の答申が出されて話題になったことがあった。あるはそれ以前に「ふるさと創生」を看板に地方自治体にお金を配った内閣時代もあった。篠田はそういう時代の空気をきちんと読み込んで、首都圏からそう遠くは離れていない過疎の町おこしを舞台にしている。
2020年7月5日日曜日
暮らしが社会や政治と繋がるところ
面白い本を読んだ。ブレイディみかこ『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』(新潮文庫、2020年。2016年太田出版初出)。ン畔この本を手に取ったのかは、わからない。なにかの書評か広告をめにして図書館に予約したものが、届いたのだろう。その広告か書評に記してあったかもしれないが、異色の経歴をもっているらしいことが、読みすすむにつれて浮かび上がる。いや、読む前に著者名をみると、ハーフなのかな、それとも向こうで結婚してこういう名前なのかな、あるいは香港の人のように、中国名の外に英語名を持つのを当たり前とするような生き方をしたのかなと、先入疑念を抱きつつページをめくる。読み終わった後で、表紙裏の略歴をみて、上記の「それとも」なのかもしれないとわかった。
2020年7月4日土曜日
コロナ感染の広がりと山歩き
東京のコロナウィルス感染者数が再び増え始めた。何の思惑だか知らないが、都知事も政府も、第二波とは言わない。「緊急事態宣言」を出すほどではないと、何の根拠も示さず、感想を述べる。相変わらず、自分の身は自分で護れというわけだ。
山歩きは、感染拡大と縁が薄く、都県境をまたいで良くなったから、行動範囲も広がったと悦んでいた。だが東京の事態の進展をみると、身を護る関心も鋭くなる。世の中の基本は、自分が陽性者だと考えて、他人にうつさないように振る舞えということであった。それを頭で理解して、マスクをするなどしてきた。だが身を守る関心が鋭くなると、山歩きをする同行者もまた、陽性者ではないかと考えて行動することに、行きつく。むろん2メートルの距離は取る。しかしこれまで山小屋や旅館で同宿・同室であったことにも、警戒感が湧き起る。日帰りにしようという話になる。夏山のシーズンが、梅雨明けのこれからいよいよ本格化するというのに。
2020年7月3日金曜日
法と倫理の相互関係(3)――鬱屈の出口と身の土台
「国際社会での上昇へのあこがれと、その挫折による悲しみである「民族ハン」(を共有している)韓国の人々」がG20に入ったことを誇りにしているときに、日本が、先進国への輸出品の優遇扱いを止めるというのは、ひどいではないかと憤る気持ちはわかる。だが日本政府は単なる手続きの問題と躱し、ほかの問題を絡めているわけではないとしている。実はそうだと言葉にしていないが、1965年の日韓基本条約で解決済みの(徴用工)問題を蒸し返し、しかも韓国政府が(自国の最高裁が政府の「不作為」をとがめているにもかかわらず)、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるのは、国際関係の道義に反すると怒っているからだ。韓国の民衆運動も、自国政府の「不作為」に怒りを向けず、日本政府の(韓国政府への)「報復」だと矛先を日本だけに向ける。いかに「民族ハン」とは言え、自国政府に対する信義を踏み外しているんじゃないか。
2020年7月1日水曜日
法と倫理の相互関係(2)――「恨(ハン)」というエネルギー源
韓国の人々と韓国政府が違った立ち位置にたつことは、ありうること。だが、いくつもの疑問が浮かんでくる。
1965年に政府の締結したことを全く無視して、「運動」が展開されるなんて、どういうことだ?
しかも現在の韓国政府は、司法の判断だからという言い訳をして、最高裁の判断が政府の「不作為」を指摘してるのに、まったく知らぬ顔でスルーしているのは、どうしてなんだ?
また市民の「運動」はどうして、自国の政府に向かわないで、日本政府に向かうんだ?
オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)は、上記の私の疑問に実に丁寧に応えている。ところどころちょっとわからないこともあるが、「地政心理」で読み解くというのが、その地に暮らす人の心情に寄り添っていて、おもしろいと思った。また、対照させている日本(人)のものの見方や感じ方は、私自身に対する批判に思えて、これも興味深く感じた。そのいくつかを紹介しながら、彼の論理を辿ってみよう。
登録:
投稿 (Atom)