2020年7月17日金曜日

少子化時代の後期高齢者


 河合雅司『未来の年表2――人口減少日本であなたに起きること』(講談社現代新書、2018年)を読んだ。既視感があった。調べてみると昨年11月に、この方の講演を基調報告としたブックレット『人口急減社会で何が起きるのか―メディア報道の在り方を考える』(新聞通信調査会編、2018年)を読んでいた。たぶんそれで、図書館に予約したのが今ごろ届いたに違いない。
「人口減少カタログ」と銘打った章は、先行書「未来の年表」をカタログ風に書き落としたノウハウもの。それがちょうど、コロナウィルス禍の来襲にどう過ごそうかとおろおろしている後期高齢者にとっては、「近未来のリアル」ってわけだ。さかさかと読み通した。


(1)高齢者の不都合が各所に出来する。機能的な効率主義はほぼ通用しなくなる。
(2)幽霊屋敷が増え、高級タワーマンションが天空の老人ホームに変わる。
(3)農業従事者が激減。野菜不足が健康問題を増やす。
(4)中小製造業が廃業、小売業も経営難、公共交通機関も縮小。高齢者は孤立する。
(5)山林に手が入らず、流木被害が多発。居住地域以外の自然が荒れる。
(6)長寿の女性も大変。

 という調子。何だこれは、どれもこれも高齢者問題ではないか。

 ことに(2)。団地という集合住宅が人口減少にともなってどういう事態を引き起こすかというくだりは、昨年の「団地コミュニティの社会学的考察」とその後のやりとりで考えたことに通じる。一つ私が「これって行政の都市計画の問題でしょ」としていたことに、具体的に踏み込んで指弾している。
 都市圏の集合住宅の建築ラッシュに関して、売れるからと言って野放図に作っていると、古い住居がそのまま放置され、始末に負えなくなる。いずれ高層住宅も、人口減少がすすむと資産価値は激減し、空き家が多くなり、修繕積立金や改修費用が集められなくなって、スラム化するだろう。都市計画はそれを見越して建築制限をするなどの方策を取らないと、将来世代がとんでもない「負動産」を抱えることになると、訴えている。まさしくそうだ。
 
 そう思って考えてみると、「未来のカタログ」と考えていたものが、コロナウィルスの襲来によって一挙に「近未来」どころか、現実のことになった。コロナウィルスがやって来たことによって、あたかも仮想人口減少空間が現出したかのように、いま日々、密室、密集、密閉を避け、人々は互いを避けて通り、賑やかなおしゃべりを遠ざけ、親密を回避して過ごしている。河合雅司が「未来」と想定していたことを(全世界的に)リアルに体感している。
 
 (5)は、上記(2)の「負動産」という財産のモンダイではなく、私たちのみに沁みついた「ふるさと」(という自然)そのものが荒れ果てることを意味する。
 人口減少時代に山林が荒れ、雨によって大量の倒木が流木となって流れ出し、大被害をもたらすだろうと、これまた、昨日までの大雨が齎した大被害を予期していたような記述。私は山歩きをしながら、文字通り流れ出した倒木が沢に塞ぎ、登山道を寸断しているのを、何度も目撃している。というか、昨年、一昨年の台風や大雨が齎した被害を、片づけることもできないままになっている。それが少子化による人口減少のもたらした人手不足によるものとは、考えもしなかったのだが。でも江戸期へ立ち戻って考えてみると、原始の森が広がっていた時代にも、山林の崩壊がなかったわけではなかろう。人が居住していなかったことによって、大自然の崩壊もモンダイとならなかったから記録にとどめられなかったとは言えまいか。つまり、人工林の広がりも含めて、手を入れ過ぎ、加えて人口が減少して、その保持が難しくなったこと。百年単位で考えると、過剰が戒められているのだ。
 
 高齢者以外に目を向けて前社会問題として考えてみると、こうも言える。
 バブル崩壊後に職に就くことになったいわゆる「団塊ジュニア世代」が(いま)壮年期となって、もはや親のすねをかじることもできなくなった「近未来」。「ひきこもり」は、その壮年たちの特性でなく、いまやコロナウィルスに感染するまいと、全国民「引きこもり」となっていることを、昨年は考えもしないで、「未来」のこととして読んでいたなあ。親のすねかじりの親が亡くなっていくと、どういう事態が出来するか。いくつかの事件で、私たちはその顛末を知っている。
  昨年の11/15のブログに《「2042年問題」は、私たち親世代のモンダイである》とタイトルを振って、子ども世代のモンダイのように取り扱っているが、コロナウィルスにであってみると、これが直に後期高齢者の問題であると伝わってくる。他人事じゃないんだ。
 
 こうして今私たちは、河合雅司の「未来」を、日々リアルに生きている。思いもかけぬwith-コロナ時代を「カタログ」風に味わう。それも全世界的に。
 大自然の脅威を、みんなで体感している――なんとなく「赤信号、みんなで渡ればコワくない」風に感じているのは、日本人だからなのかなあ。

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