2020年7月22日水曜日

今日の我が身・・・


 久坂部羊『老父よ、帰れ』(朝日新聞出版社、2019年)を読む。この作家、医者である。何年か前、終末期医療のことを調べたとき、この方の記したスパゲッティ症候群の患者の記述が真に迫って気味悪く、私の終末期医療のかたちを決めさせたことがあった。本書のタイトルから認知症の父親を素材にしているとわかる。
 登場する父親は75歳、私より若い。語り手は息子。この息子の設定を通俗的な市井の人にしていて、認知症の父親と医者や看護師やヘルパーという専門的介助者と市井の人との落差を書き記すと、自ずから啓蒙的な作品になると踏んで展開するから、スぺゲッティ症候群にみるような凄惨さが前面に出ない。むしろ認知症の父親の振る舞いに、うろたえる当人や隣人という、息子の世界が浮き彫りになる。その分だけ、認知症の世界を描いているというよりも、認知症者を抱える市井の人々の世界を主題にしていると読める。

 そうしてみると、この息子が思うように、介護老人ホームに放り込んで知らぬふりをして過ごすよりは、自宅において、世話をする(認知症の)老後を過ごさせるとどうなるかというこの小説の場面設定が、人の暮らしを描き出すのにふさわしい。
 ところが町においてみると、認知症の老人は明らかに異質であり、安心・安全の市民生活とは異なる志向性を持っている。それは逆に、私たちの「普通の暮らし」が、いかに「(想定された)普通」に満ち満ちて、設定されているかを浮き彫りにする。つまり私たちの「普通の暮らし」は、標準仕様の標準タイプであって、それに合わせない「にんげん」にとっては、窮屈極まりない牢獄にみえる。つまり語り手の息子は、「普通の暮らし」の感性と「異質な老父」のいる世界との間を右往左往しつつ、ついには自分が変わらなければ、認知症の老父とともに過ごすことはできない地点に邂逅するというわけだ。これって、やまゆり園の障碍者殺害事件と同じモンダイではないか。
 認知症の老父は、しかし、自身の世界を内側に抱え込んで、ときどき外界と交信しながら気ままに振る舞っているように、外からは見える。だが久坂部羊が点描する老父は、ことごとく外界と通底し反応している存在なのだが、外の人たちには通じるコトバがないから、捨て置かれる。それは、文字通り隔離されている(ようにみえる)。この両者に通じるコトバを私たちはこれまで持たなかったのか、あるいは棄ててしまったのか。
 たぶん、認知症を発症するほど人が長生きするようになったから、異質な世界が出現しているのだ。そう受け止めると、両者に通じるコトバを私たちはあらためて紡がねばならない。にもかかわらず、社会設計は「普通の暮らし」をスタンダードとすることによって、無意識のうちに異質な存在を切り捨てるようになっており、大きな出来事(事件)が起これば、その都度それに気づくという仕掛けになっているように思う。長寿社会というのは、文明的にいうと、それに見合う言葉を紡がねばならない新しい世界なのだ。その言葉に見合って、私たちの振る舞いも変容する。異質な存在を受け容れて、多様な人々とともに空間を共有する暮らしである。
 そう考えるとき、異質な人々のなかに、文化や規範や振る舞いが異質な存在を含むというとき、認知症ばかりでなく、不良も非行も、無礼も、悪質も、空気読めないも含めて考えることができるだろうか。そのあたりが、安全と安定だけでは語り切れない「にんげんのせかい」となるように思う。
 認知症老人を、明日は我が身と考えるより、今日のわが身を見つめ直せといっているようである。

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