2020年7月19日日曜日

コトが過剰に装飾される


 篠田節子『讃歌』(朝日新聞社、2006年)。図書館の書架で手に取った。一人のTV番組制作会社のディレクターを語り手に、子ども時代の「天才ヴァイオリニスト」の挫折とヴィオラ奏者として再生して音楽を慈しむ姿が、マスメディアの目に止まって評価が入り乱れてゆく過程を織り込んで、音楽というのが私たちに今、どのように受けとめられているのかを描き出している。世相の切りとり方、ヴァイオリンやヴィオラ奏者の技量の奥行き、聴く側の評価と演奏する側の「音楽」のズレを、油絵を描くように描きこんでいる。

 町の聴き手からすると、聴き手の身をおく事情がまつわって「癒し」だったり「活力」になったりするが、TVばかりか音盤業界やオーケストラをふくめた芸術業界の序列秩序も絡まって位置づけるとなると、いろいろな装飾がついて廻る。売らんかなという魂胆も絡まれば、演奏者自身が世評によって押し上げられ、「夢よ再び」と飛翔しようとする意欲を掻き立てられもする。それに身がついて行かない、「ときのはこび」もついて来る。
 こうしてみると、「天才ヴァイオリニスト」という評価も、プロのコンサートマスターという立ち位置も、町の音楽家という佇まいも、その人の生き方と切り離せない地平で世間が下しているみてとり方に過ぎない。だが演奏者の欲望は、自分が演奏を慈しむというところから、大きなホールで拍手喝さいを浴びることまで大きな振れ幅をもって揺さぶられる。町の音楽家というのは、そういう意味では、教会での演奏や老人ホームの慰問や保育園などでの音楽会というかたちで、聴き手とじかに接触して、しかも聴き手が気取って装飾を施していないだけに、音楽を楽しみながら、慈しむ響きが伝わって、演奏者にもたらす鏡像も、異なったものがある(と思う)。その(と思う)町の聴き手を汲み取りながら、展開する物語りは、しかし、今の世相の明らかに過剰な装飾を見せつけている。
 
 コロナウィルス禍が「警告」を発しているのは、この過剰である。エンタメ業界とひと口に括ってしまうのも申し訳ないが、コロナウィルス禍によってじつは、私たちの音楽や演劇や踊りや演者とファンのかかわり方が、つねにつねに強く刺激された欲望によって過剰にかたちづくられてきてしまっている事態を、人の姿にしてみせているように思う。原点に還れと言ってしまうと、歌や踊りや語りで食っていこうとすること自体、放浪芸としての「余興」である。それを、安定した人の暮らしとかるのは、あきらめなければならない。だが、市場経済の生産性と生産力は、そうした原点の「余興」を、暮らしの定型の一つに組み込むようになったし、またそれ自体が市場形成するようになって、業界を形成してもきた。当然それを受容する「欲望」もつねにつねに刺激されて掘り出される。そのとき、歌や踊りや語り自体が、明らかに原点の慈しみからはずれてくる。娯しみであった歌が、より刺激的な楽しみでなくてはならず、それは供給側につねに要求されてくる。それらが全部、演者の外側で立ち回るだけなら、成り行きを見ているだけで済むが、供給側の一環である演者の内面をくぐることを不可欠とするから、観ているだけではすまない。緊張に包まれて、自らを意図的に変えていかねばならない圧力となる。これも過剰に。こうして、演者は追い詰められる。需要者も原点の慈しみから離陸してしまっていることに気づかない。原点自体が、素人臭く、古臭いと感じられて、自らが人びとの群れに埋没していくような気分にとらわれる。これが時代の空気である。
 
 ヴァイオリンやヴィオラの世界だけではない。ありとあらゆるコトゴトが過剰に装飾されて提供されている現代を、どう私たちは振り返って原点に立ち戻り、じつは私たちの暮らし自体を慈しむ視点を取り戻すか。そういうことを問いかけてくる作品であった。
 
 魏晋時代の著名人を記した『世相新語』(五世紀)にこんな話が載っていると井波律子が紹介している。

 当時立派な名声持つ李元礼を訪問するのはみな、寸歳で評判の高い人。十歳の孔文挙が父と一緒にやって来た。
 ――私は李府君(とのさま)の親類だ。
 中へ通されると前に出て座った。元礼(李府君)がたずねた。
――君は私と、どんな親類関係があるのかね。
 答えていった。
――むかし、私の先祖の仲尼(孔子)は、あなたの先祖の李柏陽(老子)を、先生と仰ぎ教えを受ける間柄でした。だから、あなたと私とは代々好みを通じていたことになります。
 元礼とお客たちは、みな大した子供だと感心した。このことを後からやって来た陳韙(い)に告げると、韙はいった。
――小さいとき頭が良くても、大人になって立派になるとは限らないさ。
 文挙はいった。
――あなたは小さいころ、きっと頭が良かったのでしょうね。

 小さい頃も今も、平々凡々と過ごしてきたわたしは、過剰にも気づかず、世の装飾についていけなくなって取り残された地点から、世相をみている。「機知」は暮らしを慈しむことにふくらみをもたらすだろうか。

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