2020年7月6日月曜日
動態的に読む町おこし
スウィングするかどうか。町おこしも、動的にみなきゃあわからない。そんなことを感じさせる小説であった。篠田節子『ロズウェルなんか知らない』(講談社、2005年)を読んだ。
冒頭の章が「2030年人口ゼロ」とあるものだから、15年も昔にかかれたものだとは思いもしないで手に取った。そういえば小渕内閣の時代に、これからの人口減少に対応するためには毎年60万人の外国人労働者の移民を認める必要があると、審議会の答申が出されて話題になったことがあった。あるはそれ以前に「ふるさと創生」を看板に地方自治体にお金を配った内閣時代もあった。篠田はそういう時代の空気をきちんと読み込んで、首都圏からそう遠くは離れていない過疎の町おこしを舞台にしている。
人々は東京へ首都圏へと雪崩をうって流れていく。ことに首都圏に近い関東地方の隣県では、人の流ればかりか文化そのものも、中央集権化してしまう。人が一カ所に集住するように向かうと、過疎化する山間地は都会の食糧補給庫や燃料源補給廠になるか、リゾート地になるか、道は二つに一つ。燃料源補給廠のダム建設は、過疎地そのものを文字通りつぶしてしまうわけだから、モンダイのQED(最終証明終わり)となる。
食糧補給庫は、平野部の農業地帯か山間の酪農地帯だが、全国ネットの大規模農業や酪農には到底かなわない。その行き止まりの山間の町がどうやったら生き延びられるか。「名所もねえ、温泉もねえ、若い人も帰ってこねえ」町で、しかし出ていく機会と行場を失って居残ってしまったアラフォーの「青年たち」が、旧弊で頑迷固陋の親世代や行政と向き合って、懸命に町おこしをするお話しだ。
リゾート地というと聞こえはいいが、遊びと休養の場所として足を運んでもらえるかどうかを思案するしかない。とどのつまり、都会暮らしをしている人々の気晴らしをする非日常を「演出」できるかどうかにかかる。いや、賭けるようになる。そのとき、「演出」がじつは、もてなす側ともてなしを受ける側の動的な「かんけい」によって生まれることを、この小説の主題にしているとみることができる。
スキー場とか遊園地といったハコモノをつくって人を呼ぼうというセンスはとうに滅びた。これといって名物もない。宣伝といっても、都会モンはわがままで気移りだ。一度来ても、二度と足を運ばない。二度も三度も来てもらうには滞在中の心地よさを「演出」しなくてはならないが、「そんなこたあ、やったことがない」と旧習に一蹴される。民宿の料理にしてからが、「マグロの刺身を出さなくては御馳走じゃねえ」という(田舎モンの)頑迷固陋に適わない。何しろ頑迷固陋は、暮らしの振る舞いの基本だけは、がっちりとつくってきている。動的とは、その両者の文化の相剋と交歓とをそのままにとらえることだ。
アラフォーの「青年たち」は、外に向けては都会地の文化とその欲求を探知して応えねばならない。内に向かっては、旧弊と頑迷固陋を切り崩さなければならない。しかもその間に、いろいろな情報メディアや旅行メディアの思惑が挟まる。外に向けて売り出すには、それらメディアを介在させるか直にメッセージを届ける手立てを講じるか、問われる。じかに届けるには、ウワサやサブカルチャーといったミニ・ネットワークの波に乗らなければならない。旧弊の大きい文化と齟齬する局面が現れる。
ロズウェルがなんであるか、作品中には一言の言及も説明もない。読み終わって調べてみると、アメリカの小さな町。1947年にちょっとしたことから脚光を浴びたらしいが、「そんなことは知らないよ」というふうに、アラフォーが振る舞って、町おこしが果たして成るか。
人口ゼロまで、あと十年。
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