2020年7月10日金曜日

夢の欠片――天皇制への視角


 夢の名残というか、残りっ滓が起きてから胸中に漂う。夢の欠片。ドリップコーヒーにゆっくりお湯を注いでいるときに、粉がふっくらと湧き起り合間からぷつぷつと泡が起ちあがる。夢の欠片が天皇であったことにはたと気づいて、戸惑う。戸惑いながら、でも、何か天の啓示のように感じて、欠片の向かっていた先へ思いを馳せる。
 欠片がもっていたニュアンスは、何とか感じ止めた。だが、意味を持つ言葉にはならない。

 
 思い出すのは、もう18年も前、インドヒマラヤへ一緒に行った山友だちと話したこと。
「天皇制のことどう思ってる?」と訊ねてきた。同席していたイギリス人の友人も興味津々であった。
 山ともだちが期待していたのは(たぶん)共和主義的な回答だと(そのとき瞬時に)わかっていたが、私はう~んと唸って、「文化的な存在だからなあ」と(どちらかというと肯定的な響きを残して)応えて、話の腰を折ったことだった。それが夢の欠片に関わっているという印象。
 
「日本人」という言葉を(私たちは)こだわりもなくつかう。
 日本国籍を持った人のこと? と念を押されると、その時はじめて気づいたかのように、う~んちょっと違うな、この列島に生まれ育って身が自然に染まっていると感じている人、と考えている。日本語を話すというのも、もちろんその自然の一つに入る。と同時に、年と共に「日本人」も(私の胸中で)移ろって、この地に馴染んで暮らしている人たち全部を含むような響きに変わっている。言うまでもないが、「馴染んで」というところに強調点が打たれている。
 いわばこの列島に暮らす人々の感性の集合名詞という感触で「日本人」という言葉を使っている。今日の夢の欠片は、それが「天皇」だったと教えているんじゃないかと、振り返って揮発しそうな欠片の断片を寄せ集めて、感触を確かめている。
「天皇」は、ことに明治以降、神に祀り上げられ、なおかつ政治的な主権者に仕立て上げられて、波乱万丈の「支配者」になっていった。でもそれはずうっと、統治的観点からみた「天皇制の機能」であった。
 だが漠然と「てんのうさん」ととらえていた時代の(下々にとっての)「天皇」は、そこを彼岸の(誰であろうと)行きつく先とみて、その意味で「神」であったのではないか。私好みの言葉にすると、遠近法的消失点。いずれ人がたどり着く彼岸に視点を置いて、此岸の現在をみてとる仮構点の具象形態。それが「てんのうさん」。つまり列島の大自然を具現化しているわが身の(一般的)抽象形を、目に見えるように取り出したのが、「天皇」である。
 それは、権力関係からは別次元に位置し、ほとんど空気のようにふだんは気づかず、それに気づくときは(なにがしかの大自然の欠落――運不運――に遭遇して)いるときと、きまっている。

 雨にも負けず/風にも負けず/丈夫な体をもち・・・そういう人に私はなりたい

 という感触を共有していると信じている共生感覚だけは、身の裡に根付いている。
 
 明治の統治権力者は(自身の内部に胚胎していた)その感触を逆手にとって、「国体」に押し上げ、単一民族的な色合いに塗り込め、愛郷心(パトリオティズム)を愛国心(ナショナリズム)に動員することに執着したとは言えまいか。
 私たち戦中生まれ戦後育ちの世代にとっては、戦前世代への拒否反応が強かったから、当然のように「天皇制」を忌避する時代を過ごしたわけだが、身の裡になぜか、周囲・世間との対立を避け、争いを丸く収めることに気を遣い、表向きであれ平穏無事であることを優先してきた。それは反面で、タテマエとホンネを使い分け、根回しや裏工作によって関係を構築して切りまわす術を発達させてもきた。その、タテマエとホンネの切り分けが、高度消費社会に入ったことによって(欲望を抑制してきたの蓋がとれ)蒸発して、裏が表に同化するようになってしまった。
 ヘイトスピーチが声高に叫ばれ、人を罵倒・非難する言葉が当たり前のように行き交い、自身の欲望を抑えることが表現力の未熟のように扱われる事態まで引き起こしている。
 
 死者に祈りを捧げることを務めとするかのような平成時代の天皇の振る舞いは、いわば昭和天皇の政治的な主権者として振る舞ったことが引き起こした「てんのうさん」の無残な姿を、修復し、ふたたび遠近法的消失点の具象形態として再生させるためのものであったように感じるのは、我田引水が過ぎるであろうか。その30年が、政治システムと「てんのうさん」を切り離してとらえさせる視点を、私の裡側に胚胎させたともいえる。
 その「共生感覚」の危うさも、また感じている。グローバリズムが剥き出しにした「#ミー・ファースト」感覚は、人間が「反自然的動物」であったことを想起させ、とどのつまり自分の浸っている環境そのものもまるごと破壊しつくして、自らの首を絞める所業に及ぶ。まだ十代の若い女の子に、「わたしたちのことも考えて」と叫ばせて、TV画像で観ている大人たちの振舞いは、ほとんどマンガである。その画像を放映していることが何かの贖罪であるかのようにさえ、感じているのであろうか。
 
 夢の欠片。大自然との交感がなくなった私たちに、おかしなことに被害感覚だけは蓄積されていっている。まるで誰かが、護ってくれるとでも謂うように。

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