2020年7月9日木曜日

雨が降る、コロナがかかる


 先週の月曜日、6/29に山に行って以来、雨が降り続く。梅雨と言えばいかにも梅雨なのだが、伝えられる各地の洪水災害は、しかし尋常ではない。
「線状降水帯」というらしい。TVの気象予報士は(この用語が以前から)「ありましたよ」と平然としている。私は初耳。いつもなら梅雨前線と言っていたではないか。それとの違いが何なのかは、しかし、画面のメインキャスターの関心にないのか、尋ねようとしない。
 九州では例年の梅雨の一か月分の雨が一晩で降ったらしい。その降水量の「異常さ」を表すのに、「線状降水帯」という聞きなれない言葉の響きがぴったりはまっていたのだろう。自然現象だから、何か意図をもって降っているわけではないのだろうが、TVの解説では「もう少し南北に動いてくれれば(この地形の山稜で降った雨が分散されて)これほどの被害をもたらさなかった」と、後付けの期待を割りつけたりしている。モンダイは、この降雨がいかなる人為的振舞いの結果かなのだ、と理科学的な頭は考えている。

 
 しかし、地球温暖化というと、デカすぎて「原因」が地球規模に分散され他人事のように響くから、あまり適切な説明とは思えないが、天からの戒めと受け止めると、ノアの箱舟を想いうかべて人間活動の過剰さへの「鉄槌」かと思ってしまう。つまり「原因」を考えるというのは機能主義的だが、「鉄槌」と思うのは自己を対象として批評的で、案外的を射ているのかもしれない。
 そう思っていたら、ヨーロッパ中世のペストのあと、地球を寒冷化が襲ったと新聞を読みながらカミサンが話しをする。ペストで人口の1/3が死滅し、当然エネルギーの消費も提言し、産業が衰退して、植物の繁茂がはなはだしく、炭酸同化作用が盛んとなって行われ、その結果、気温が劇的に下がったというのだ。とすると、まさしく人間活動に対する天の鉄槌。過剰を戒めるというのは、鉄槌によって過剰を整理し、減少すべきは減少させ、衰退すべきは滅びに向かい、何十年かしてバランスが取れたところで、ふたたび安定期を迎えることになる。
 となると、たまたま災害列島と言われる日本だから「線状降水帯」という「鉄槌」が激しく降られているが、旧大陸のヨーロッパや南北アメリカでは凝ろなウィルスという「鉄槌」が容赦ない。感染者の数もさることながら、死亡率が5%ほどをキープしているというのが、人口の過剰に対する鉄槌であると同時に、もっと選別的に「長生きしていること」への鉄槌のように思える。
「医療崩壊」と呼ぶのは、医療が何としても命を長く保たせるため(にある)という錯誤が前提になっている。ほどほどで人生を閉じるというのは、自然の摂理。なぜか人間だけは、文字通り身の丈や脈拍といった「ゾウの時間ネズミの時間」に見合わない長寿を誇る。誇ることじゃないよ、医療科学が間違えているよと、コロナウィルスも「鉄槌」を下している。
 
 そういうとらえ方は非科学的だと言われるかもしれない。たしかにそうだが、逆にそう非難することは「科学的だよ」というのも(それは機能主義的だよという)非難の臭いをつけていることを漂わす。良いとか悪いとかいうのではなく、まさしく自然現象と中動態的にみることが、モノゴトを包括的に、全体としてとらえることに通じるのではないか。
 科学だ原因だ分析だと言わなかった時代には、「まるごととらえる」ことが人が大自然を受けとめる作法であった。天の意図を推し量るようにして、自らの振る舞いを戒める。それが自然存在としての人の生きる作法だったのに、調子に乗ってすっかりそれを忘れ、浮かれ過ごしているんじゃないか。緩やかに、雨だコロナウィルスだというかたちで自画像をちゃんととらえよとさとしているように感じる。

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