2020年7月5日日曜日
暮らしが社会や政治と繋がるところ
面白い本を読んだ。ブレイディみかこ『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』(新潮文庫、2020年。2016年太田出版初出)。ン畔この本を手に取ったのかは、わからない。なにかの書評か広告をめにして図書館に予約したものが、届いたのだろう。その広告か書評に記してあったかもしれないが、異色の経歴をもっているらしいことが、読みすすむにつれて浮かび上がる。いや、読む前に著者名をみると、ハーフなのかな、それとも向こうで結婚してこういう名前なのかな、あるいは香港の人のように、中国名の外に英語名を持つのを当たり前とするような生き方をしたのかなと、先入疑念を抱きつつページをめくる。読み終わった後で、表紙裏の略歴をみて、上記の「それとも」なのかもしれないとわかった。
副題が示す通り「英国保育士」の資格を取り、英国で暮らすブレイディみかこさんが(出版社の企画に応じて)日本滞在中に見て回った日本の保育園や山谷や寿町の人たちや町のホームレスのサポート活動をする人たちの様子やキャバクラなどで働く人たちの模様を綴って、英国と対照させて日本の庶民のアクティヴな側面を描き出す。
と言っても、彼女が英国で体験している人々と日本で出逢った人々との違いに触発されて、彼女自身の裡側から浮かび上がってくる「日本」が、新鮮な響きで私を触発する。その一番前面に出てきたのは、「人権」教育というか、政治教育と呼ぶか、私たちの日頃の暮らしと社会の仕組みの緊密なかかわり、それを司っている政治と「わたし」との具体的なかかわりが、幼いころから職業教育の場面に至るまで、一貫してイギリスでは身に刻まれて継承されるように教育されていることであった。市民としての主体性は、選挙の投票に足を運ぶときだけではない。常日頃の私たちの暮らし方そのもの、その時の声の挙げ方、振る舞い方、人とのかかわり方に実に見事に現れている。
と聞くと、元祖民主主義イギリスのお手本話かと思うかもしれないが、そうではない。「人権」という言葉を西欧発のガイネンとして受け止めている日本の私たちに対して、身に刻まれたレキシとして継承しているイギリスの(苦悶の)歩みがふつふつと伝わってくる。
いつも私はそう書き記すが、戦中生まれ戦後育ちに私たちにとって日本国憲法はアメリカによる押しつけというよりも、戦争を起こした親世代の大人たちの反省であったとうけとめている。だがブレイディみかこのイギリスの「人権」教育に思い至ると、「押しつけ憲法」というのは、まさしくこの点で、身に刻まれたレキシとしての継承の無さに現れていると感じる。「押しつけ憲法」を喧伝する日本のウヨクも、この点を踏まえて憲法批判をするようにならなければ、とうてい、身に刻まれた戦後の憲法感覚を克服することはできないぞと、思った。
本書のタイトルはいかにも「クールジャパン」とか「ディスカバージャパン」もののように響くかもしれないが、まったく趣が違う。フレイディみかこのイギリスにおける日常体験と日本の日常とがこの著者の感性においてぶつかり合う様子が描き出され、彼女の身に刻まれ受け継がれている「日本体験」と(たぶん30年以上に及ぶ)イギリスの生活体験で(意識的に引き継いできた)人としての社会感覚が、彼女の内側で天秤にかけられ、どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、どちらも「わたし」と感じている揺蕩い。そのあわいに浮かび上がる日英の育んできた振る舞いの「自然(じねん)感」が、ガイネンに向かわず言葉を失って涙になって流れる。その佇まいが、なんとも好ましい。
私たちの暮らしと社会システムと政治の役割と「わたし」の身の置き方について、別様にいえば、日本の小中高校における政治教育について、根本から考え直さなければならないと感じさせるドキュメンタリーレポート。まるで今日投票のある都知事選でいえば、山本太郎の振る舞いが、本書の取材対象の一つであったような印象を与えている。
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