2020年7月23日木曜日
原点からみる、「公共」ってなんだ?
映画『パブリック――図書館の奇跡』(エミリオ・エステベス監督、アメリカ2018年)を観た。面白かった。去年の今頃、フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス』(原題はEx-Libris The New York Public Libraly。2017年)を観た。その時の、文化(継承)に向き合う強烈な図書館員の熱意に、心揺さぶられた。それを許容しているアメリカという国の「公共性」にかける社会のエートスも、印象深く響いた。文化の多様性と日本では言うが、アメリカの多民族文化の比ではないと痛感させられたものだった。
今日の映画『パブリック――図書館の奇跡』は、「公共性」の原点は「生きる」ということの保障に発すると、メッセージを送っている。つまり、『ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス』が展開した「文化」という領域での熱意の大本は、いのちの保障からはじまっていると示している。しかもその「命の保障」とは、既存秩序の維持というより、もっと原点的にとらえてみると、現在秩序を裏づけている政治・社会制度や道徳や規範感覚をも疑い・崩してとらえ返してみなければならないのじゃないか。逆にいうと、私たちは身をおく状況にどっぷりとつかって、ホモ・サピエンスとして出立した原点をすっかり忘れて、ノー天気に暮らしているなあと思い当たる。
ラストが面白い。これを話すとネタバレになるから言わないが、要するに私たちが、社会制度とか政治制度とか倫理とか道徳とか理念とか文化だといってつくりあげてきたものを全部脱ぎ捨てて、初手から考え直してみなさいよと厳しく問いかけている。
そう考えてみると、『ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス』の提起している「公共文化」を、もう一歩深いところで問うている。つまり『パブリック――図書館の奇跡』は、人類が紡いできた諸々の文化文明を、もう一枚脱ぎ棄てて「公共」を考えていると言える。
日本に置き換えてみると、『パブリック――図書館の奇跡』の出発点にたどり着くことさえ、大変な径庭を要すると思わないではいられない。人の暮らしの多様性を承認するなどという容易いものではない。多文化主義の社会に生きるということも含めて、私たちが日常的に感じている好悪、善悪、道徳的な良否、個々の人の持つ選択と公序良俗か犯罪かという垣根さえ取り壊して、人と人とが手を結んで社会空間を共にするとはどういうことか。with-コロナどころか、with-ホモ・サピエンスという「公共性」を、考え直してみようではないか、と。
そういう意味では「パブリック」というのは、哲学的な問いかけであった。
主人公の外の、図書館員である二人の登場人物の振舞いの移り変わりが、示唆的であった。一人は、図書館長。もう一人は、主人公と同じフロアの女性図書館員。彼や彼女がどう振る舞ったかは、映画をご覧いただきたいが、この二人の振る舞いが、哲学的な問いかけに真摯に応えようとする私たちの行く手を暗示している。
たぶんこれを読んでも、はて、どんな映画なんだろうとワケがわからないと思う。そうなんだ。簡略にストーリーを紹介して、やり取りに踏み込めば、もっといろんなことが口をついて出てくると思うが、それはやめておく。ぜひともこの映画を先入見抜きにしてみて、結末とその先のゆくところへ思いを馳せてみていただきたい。それほどに、面白い映画であった。
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