2020年7月7日火曜日

法と倫理の相互関係(4)――皆もろともに奈落の底へ


 オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)の始末をしておかねばならない。このシリーズのタイトルを「法と倫理の相互関係」としたのは、オーが次のように書いていることに、引っかかったからであった。

《(韓国人の)当為主義が、法と倫理を一体のものと感じているのに対して、日本人の機能主義は法と倫理を切り離して考えている。》


 そう指摘されて、「法と倫理は一体のもの」か? と私の内心に疑念が差した。オーの「(日本人は)切り離している」という指摘は、その通りだ。それが日本人のものなのか、「せかい」の社会学的な考察がそう思わせてきたのかは判然としないが、私は法と倫理の間には画然とした段差があると考えている。
 法はまさしく人為が策定した共同的規範の結界線である。だが倫理は、人と人とが社会関係を取り結ぶ中で「間主体的」に醸成している気風、エートスである。その両者が(当為主義であろうとそうでなかろうと)「一体のものである」ことが望ましいとしても、倫理は動き、法は固定される。つまり倫理は動態的であり、法はそれを(法という文言によってフィックスすることによって)「目に見える規範(の結界)」として、共同社会に屹立する。つまり静的なものだ。だから法を「運用する精神」が論題として一つの領域をなすことになる。ところがその「法を運用する精神」にしてからが、「手続き論」に堕すことによって「機能主義的」という批判を受けるわけだ。
 
 積み重ねられた倫理から経験則的に「法を制定する」としても、法は日々刻々と古びていく。倫理と一体のものとするためには、イギリス経験主義的な法裁定の仕組みが精一杯のところだ。
 それと逆に(大陸合理主義的に)、法の精神を倫理と一体のものと想定して祀り上げてしまうと、法と倫理の間のギャップを埋めるのに「法の精神」が極めて大きな幅を占めることになる。その「法の精神」もまた時々刻々移ろうことになって、「法の番人」という名のエリートの手に委ねられる。それが社会システムとなって整備されると、法=エリートvs倫理=庶民という対立構図がシステム化し、社会を覆う。そうなると、エリートの専横や衰退とともに社会的亀裂・断裂は大きくなって、両者が疎遠(無関心)になるか、転覆が始終繰り返されるようになる。
 近年の日本の「法の番人」である法務省や法務大臣の体たらく、行政追随的な裁判所司法や検察司法の、やはり行政忖度的な振る舞いは、専横と衰退を如実に示している。あるいは韓国の、繰り返される為政者・大統領経験者の訴追と有罪判決と亡命や自殺は、法と倫理の間が一体のものではないという「事実」を明らかに示している。
 にもかかわらず、「法と倫理は一体」という主張を堅持するのは、願望であって事態を直視していない。つまり願望実現のためには、法と倫理のギャップをどうつくろいながら民主主義社会という共同体を展開していくか、それこそ近代社会がはじまって以来現在まで、右往左往、四苦八苦して、営んできている。
 その右往左往の一つに、中央集権的独裁的権力による強圧政治があった。だがそれは民主主義を殺してしまう点で、すでに歴史的な審判は終わっていると(私は)思ってきた。しかし近年、習近平の中国やロシアの「裏操作民主主義」、その他「#ミー・ファースト」の国民国家の横行跋扈によって、いまだ健在であり、民主主義社会そのものよりもそちらの方が、(国民国家)民衆の期待に適うかもしれないと思う世論を醸成したりもしている。それが、民主主義は終わりなのかという論題を提起している。つまり、ヨーロッパ近代が形成してきた、権力分立や権力を規制するものとしての法の位置づけなどの「民主主義的理念」が大きく後退して、秩序と生活安定と自国利益最優先の機能主義が民衆の支持を得つつある。国家権力はそれを背景に、それを操作しつつ、権力維持を図っているといえる。
 
 上記のような意味で、法と倫理の間は現代社会の大きな論題なのだが、オーのいう韓国であれ日本であれ、いずれにせよ統治の崩壊とかエリートの消滅といった事態を招いている。しかも当事者は、まったくそれに気づいていない。だから国際関係の問題であっても、誰も調整に入ろうとしない。そもそも問題をモンダイとして認知しているのかどうかも、わからないという状況をともなっている。つまり民衆ともども、近代国民国家も奈落の底へ向かって落ちていっていると私には思える。
 
 そこへコロナウィルスだ。それは、人類が皆同じ大自然の驚異に曝されていると感じる「共感性」を意識する契機になっていると同時に、結局それぞれの才覚で生き延びなさいと宣告されているようで、国家とか地方の行政共同体というのが、さして力を持っていなかったと再認識するようである。さあ、これが、共同体再生のバネになるか。そこの自力再生というところで、民度というか、国民性というか、「地政心理」というか、私たちの浸ってきた文化的堆積の「ちから」が問われるのだと思う。

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