2020年7月3日金曜日
法と倫理の相互関係(3)――鬱屈の出口と身の土台
「国際社会での上昇へのあこがれと、その挫折による悲しみである「民族ハン」(を共有している)韓国の人々」がG20に入ったことを誇りにしているときに、日本が、先進国への輸出品の優遇扱いを止めるというのは、ひどいではないかと憤る気持ちはわかる。だが日本政府は単なる手続きの問題と躱し、ほかの問題を絡めているわけではないとしている。実はそうだと言葉にしていないが、1965年の日韓基本条約で解決済みの(徴用工)問題を蒸し返し、しかも韓国政府が(自国の最高裁が政府の「不作為」をとがめているにもかかわらず)、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるのは、国際関係の道義に反すると怒っているからだ。韓国の民衆運動も、自国政府の「不作為」に怒りを向けず、日本政府の(韓国政府への)「報復」だと矛先を日本だけに向ける。いかに「民族ハン」とは言え、自国政府に対する信義を踏み外しているんじゃないか。
ロー・ダニエルは、どうみているか。「自己同一性の揺らぎ」として、韓国人には郷土への「愛着がない執着」だという。「アジアからアメリカへの移民の数」を調べ、人口百万人当たりに数値化すると韓国が飛びぬけて多いという。ことに「G20の国で(移民数の多さで)10位以内に入るのは韓国だけ」と特徴を抜き出す。
韓国の(アメリカへの)移民は、本国で生活を営むことが難しくて移民するのではなく、本国での生活が「気に入らないから」移民するとみる。そうして、ロー自身がアメリカの大学四年間で「一番親しかった仲間10人の中でアメリカ市民になった人が5名になる」と、実感を込めて記している。彼の抜き出した移民数は、以下の通りだ。
◆ アジアからアメリカへの移民の数
順位 出生国 移民者数 本国百万人当たり移民者数(%)
2 中国 238万人 0.18
3 インド 203万人 0.16
4 フィリピン 183万人 1.86
5 ベトナム 184万人 2.05
8 韓国 107万人 2.13
25 パキスタン 34.3万人 0.18
26 日本 33.9万人 0.26
「気に入らないから」移民するというのは、どういうことなのだろうか。
ローは、その裏付けをとるように、以下の三つのWHO統計を引用する。
(1) 人口10万人当たりの自殺者数(2011)
1位 リトアニア 34.1人
2位 韓国 31.0
9位 日本 24.4
27位 中国 13.9
44位 インド 10.5
45位 シンガポール 10.3
42位 アメリカ 11.0
(2) 人口10万人当たりの殺人率の経年変化
国名 2005 2007 2009
中国 1.6 1.2 1.1
日本 0.5 0.5 0.4
韓国 2.3 2.3 2.9
米国 5.0 4.9 4.4
(3) 人口10万人当たりの強姦発生率
国名 2000 2002 2005
日本 2.1 1.7 1.1
米国 6.4 6.7 6.0
韓国 7.3 14.5 11.5
三つの統計数値は、身に溜まる「鬱屈」が噴出する場面の違いを示している。
(1)と(2)(3)との数値の落差は、「鬱屈」が内向するか外向するかを表す。
日本は内向するが外には噴き出さない。だから社会的には秩序がよく保たれている。
米国は(宗教的な禁忌もあるのだろうが)内向せず外向するから、「殺人」や「強姦」という面では危ない社会になる。
ところが韓国の場合、「鬱屈」の出口を封じられているような社会的気風が漂っている。内向が封じられているとは、「民族ハン」ともいうべき「気質」によるのかもしれない。苛烈な競争、徹底した学歴社会、挫折による「恨(ハン)」のはけ口を外へ求めるわけにはいかない「自由であるがゆえの(だれの責任にもできない)宿命観」に、追いつめられる。
他方、階層的秩序で下層に置かれた「鬱屈」の解消願望としての「「恨(ハン)」を、「日本」や「アメリカ」に向けるにはあまりにも遠い「敵」。神が微細に宿ると同様に、悪魔も微細に機を伺う。身近な殺人や強姦に噴き出す「鬱屈」も、哀しみに満ちているように思える。
日本人は、ではどうしているのか。
若い人たちに溜まる「鬱屈」に、さほどの違いがあるとは思えない。ただ「自由であるがゆえの宿命観」において、「ふるさと」の自然として生きているという身体感が、自然ばかりか社会の一部として自らを位置づけて感じとる「外からの(内省的)視線」を「空気を読む」かたちで培ってきている。そこが違うのかもしれない。自然(じねん)存在としてのわが身がどう生きてきたかをみてとる幅がある分だけ、内省の先が行き止まりにならない。そうだ、もともとヒトというのは、徒手空拳で自然の中に生きてきたという身に沁みこんだ感覚が、最後には起ちあがる。
韓国の人々の持つ、人の優位性を絶対前提とする自然観が、人を追い詰める。自然を作り替えていくのがヒトの才覚というのでは、自らを外からみる契機は人事ばかり。人の世界のことごとが、自らを対象として内省に向かうと、逃げ場のない挫折とそうでしかなかった「宿命観」が色濃く残るばかりになる。身に刻まれた「ふるさと」に、自然とともに存在してきたわが身が含まれていないのだ。
私などが海外を旅して帰ってきたときの「ふるさと」を肌身に感じる感懐とは、全く別物なのだろう。帰国の都度、つくづく「ふるさと」が身に刻まれていると思う。懐かしさというと、平板で、うまく言い当てていない。やっと帰ってきたというくつろぎが、身体の隅々に沁みわたるように広がっていくのを感じて、まったく俺って、日本人だなあと、いつも思う。空港に降り立った時の、梅雨時のしめっぽい、じとっと肌にまとわりつく生暖かい感触すら、わが身のものと思え、それを感じている自分に気づいてうれしくなるのだった。
その身体感が、「わたし」の土台であり、「わたし」の実存の根拠であり、私の「せかい」の起点なのだ。もちろん肉体が滅びるとき、「わたし」はなくなる。しかしそれは、行雲流水、行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。受け継ぎ、受け渡していくものごと。血のつながりよりも、文化とか社会の気風として継承されていく「せかい」が感じられて、うれしい。
そういう世界に身を置いて来たことに気づく。幸運であるとともに、いい世界に身を置いたなあと思うのである。
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