2020年7月12日日曜日

欲望と抑制

                                                                     
「トランプ氏、元顧問の刑免除」と見出しを付けた記事が今朝の朝刊にあった。2016年の大統領選で「ロシア疑惑」にかかわったとして有罪となったロジャー・ストーン被告が、収監される直前に大統領の判断によって免除されたというもの。
 ええっ、それって露骨じゃん。
「ロシアに関する作り話の犠牲者だ」とホワイトハウスは声明を出したそうだが、司法権限もへったくれもない、大統領がダメと考えるものはダメだと権力を揮うってことだ。
 でも考えてみると、正直ではある。

 安倍首相のモリ・カケも、サクラの会も、公文書偽装の再調査も、まずいことをしていると「認識」はあるから、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで、全部主要なる官僚とその下僚に背負わせている。それに較べると、トランプは、恥ずかしげもなく振る舞っている。
 なぜか。
 彼はその登場の初めから、資本家社会的な論理が正義であり、自己利益を最大化することがすべてを占めているからだ。4年前の大統領選でヒラリー・クリントンが敗れたのは、近代市民社会の統治論理や民主主義制度における権力分立の論理が、資本家社会的な利益最大化と自由に振る舞う論理に、大衆の支持を得ようと争って敗れたことを意味する。
 
(1)市民社会の統治の論理と資本家社会の市場の論理とは、もともと出自が別物であった。前者は王権の暴走を止める民衆の側の抵抗から生まれた。後者は、市場経済の交換関係が身分制の軛から解き放たれて自由な競争関係に置かれることによって機能し始めた。その両者が相互的に作用しながら、ヨーロッパ社会に誕生したことによって、ともどもにキリスト教的な共同観念をベースにした文化に育まれた。それが、市場の論理の暴走を引き止めることによって、市民社会のそこそこの安定を保つ仕組みを、政治制度としてつくりあげてきた。

(2)ヨーロッパに生まれた上記両者の展開はしかし、キリスト教社会という単一の共同社会性に育まれたわけではない。ヨーロッパ各国がそれぞれに歴史的に堆積してきた共同社会の径庭が、異なる文化として築き上げられてきていた。人々の心情においてはパトリオティズム(愛郷心)として胚胎していたものが、国民国家のネイションシップとして結晶し、ナショナリズムと呼ばれる集団的心情へと集約されるようになった。そのことによって「愛郷」が「愛国」として一般化し、人々の身に刻まれていくにしたがって、「国家」も身体性を備え、あたかもわが身の安定をもたらし、わが心もちの誇りとなるような感触を湛えて、「国民」に受け止められるようになった。

(3)19世紀における上記の段階が、すでに、両者の亀裂をみせていた。市民社会の(国民国家的ローカリズムを含む)統治の論理は、資本家社会の市場の論理が志向する世界への帝国主義的な野望と符節を合わせることによって国内への恩恵をより多くもたらし、いっそうナショナルな結束を強め、求心性を高めると確信されていった。それは、資本家社会的な市場経済から遠く離れた経済過程に浸っていた「未開地域・国」を植民地化し、囲い込む、侵略と拡大路線に向かい、必然的に先進各国間の衝突を引き起こすことになった。

(4)上記の亀裂を鮮明にしたのが、19世紀半ばの共産主義の登場であり、20世紀のソビエト・ロシアの誕生であった。思想的には、(1)における異なる出自のもたらす矛盾を、階級によって二分させ、その両者の階級闘争によって国家を昇華・廃棄させる「新しい未来目標」を起ち上げることにつながった。しかし、ソビエト・ロシアのその後の展開は、「人民」という人びとの集団を「前衛」という理知的な独裁的指導集団が専制的に統治する政治過程をたどり、(1)の市民社会の統治の論理をぶち壊したばかりか、明らかに後退させてしまった。と同時に、資本家社会の市場の論理を「計画経済」によって人為的に差配することが、いっそう利権独占集団を生み出し、近代市民社会に向かう共同性の根底を壊してしまったのであった。

(5)しかし、(4)の実態が明らかになるのは、第二次世界大戦を経て後のことであった。ナチス・ドイツと日本の軍国主義とが、(3)と(4)との(国際関係と国内共同社会において抱える)亀裂を克服する第三の道として登場して、(3)の主力と(4)との(根底的な)齟齬を覆い隠し、とどのつまり当面の「共同の敵」として連合国軍が勝利したことによって、戦後の国際関係はスタートした。その理念が、西側諸国においては「民主主義」であり、東側諸国においては「共産主義」であった。両者に共通している動因的要素は、その強弱はあれ、人民大衆のエートスであった。その理念が活きている間は(日本的にいうと)タテマエが力を持っていたが、その国際関係における政治的枠組みはすでにぬけがらになり、大国の利権として残っていながら、じじつは、経済的力をベースにした世界の覇権を争う段階へと突入している。

(6)1989年のベルリンの壁の崩壊とソビエトの解体が、(5)に残っていた「市民社会的理念」の力を取り払った。アメリカン・スタンダードを世界大に広げる一極支配によって、あたかも資本家社会的市場の論理が世界を覆うことが冷戦後世界の「理念」となったかのように、一時期世界を席巻した。それは途上国を中進国とし、新興国として、世界の工場にしていくグローバルネットワークを作り出し、と同時に、市場経済的利益を最大化することこそが、各国民国家の優先目標となった。トランプ的な発想の土台は、十分つくられていたのであった。

 仮面を意味するペルソナが「人格」を表す欧米社会のセンスでは、ペルソナの上にマスクをかけることは、己の身を隠す卑劣な行為である。「仮面ペルソナ」こそが人間(人格)という誇らしさを備えている。それに対して自然存在の己を肯定的にとらえている(自然観を持つ)私たちは、世間に向けの仮面はタテマエであり、ホンネを覆う大切な(社会的な)別物(マスク)と考えられてきたのではなかったか。
 つまりその出発点において、欲望と抑制とのとらえ方が、すれ違う様相を呈していた。ホンネの(動物的な顔)を剥き出しにすることを覆う「にんげん」の体裁が社会的な顔として受けとめられ、ホンネを本心として持っていることを承知するがゆえに、タテマエの保持を抑制ととらえる視点が、備わったとは言えまいか。
 それに対して欧米の人たちは、動物を超克したところに「人間」が誕生するとてみている。自らの裡にホンネという怪しげな本心が隠されていると考えるだけでも、許せない不快な真実ということに感じられる。汝姦淫するなかれ。心の中でそう思うだけでも、姦淫を犯したことなのだと己に命じてきた苦しさを、私たち(日本人)の自然観は味わわなくて素通りしてきているのかもしれない。

 トランプ大統領の元顧問に対する罪刑免除を、「それって、露骨じゃん」と受け止めるのは、西欧流にいうと、それって「人間」のすることじゃないよと謗ることである。日本流にいえば、社会的な体裁としての建前をまだ持っているということだ。つまり、身内をかばいたくなるのはホンネ、でもそれをするのは恥知らずだと思うのは、共同社会的なタテマエがまだ(内心に)あるということだ。トランプはそれをかなぐり棄てたのではない。そのような衣装を身につけることが、高度消費社会の競争を生き抜いていく必然の作法と考えている。だから体裁を繕わず、正直に振る舞う。民主党の人たちは、ことばを弄して体裁を繕うことを要求し、正直率直な振る舞いを妨害しようとする、と。それを、トランプの支持者は正直だと評価し、批判派は権力の横暴と非難しているというわけだ。

 第二次大戦時の連合軍が掲げた「理念」は(ただ単に看板に過ぎなかったと私たち敗者の側が言い立てたとしても)、冷戦のはじまりと共に揮発してしまい、皮肉なことに敗者の側の「日本国憲法」に際立って標榜されることになった。そういう意味では、日本は敗戦によって戦後世界の理想とする理念を背負わされたことになったのであった。だから余計に、トランプの振る舞いが抑制のとれた欲望丸出しの品性のない所業と思えるのである。
 しかし、安倍首相が、政治過程としては似たような振舞いをし続けて、しかもトランプ政権の倍以上の長期にわたる政権を担当してきている。つまり日本の人民大衆もまた、すっかり、市場の論理が育む欲望解放の時代エートスをたっぷり吸って生きてきているのである。だから、いまさらという目で、現今のトランプや安倍の振る舞いをみている。と同時に、共同社会性の感性も結界も見失って、ことごとく市場の論理に解消してしまっている。
 もし感じるところを言葉にするとしたら、自らの身の裡へ視線を向けて、どこでわが身に刻まれた「戦後世界の理念」は、風前の灯火となったのであろうかと、振り返ってみることでしかない。
 そんなことを、今朝の記事を見てため息をついている。

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