2020年7月16日木曜日

ちぐはぐは変化の兆し?


 コロナウィルス禍の勢いが止まらない。東京都も再び警戒信号を出した。大阪府も警戒の色を隠さない。ただ政府だけが、馬鹿の一つ覚えのように「緊急事態宣言を発出する状況にはない」と、何を見てんだかと思うような見解を表明して、goto-キャンペーンの前倒し展開にこだわっている。TVメディアのコメンテータも、このこだわりように驚きを通り越してあきれ顔の反応だ。

 
 でもなぜ、政府はこんなにgoto-キャンペーンにこだわるのか。なぜ、東京都や大阪府のコロナウィルス感染拡大事態の進展を認めることができないのか。
(1)一度決定したことを変更するのは威信にかかわると、考えているのだろうか。
 私は猪瀬直樹の記した「昭和16年夏の敗戦」を思い出す。太平洋戦争が避けられないのではないかと切迫していたときに、政府は軍部をふくめた優秀な人物を集めて、「もし日米戦わば」どうなるかを、シミュレーションをした。その結論はまごう方なき「敗北」であった。それを陸軍大臣であった東条英機が「勝負には時の運というものがある」と封じ込め、10月に首相になってからの戦争突入となったことである。事前に「敗北」が決定的であったにもかかわらず、「時の運」を信じて勝負に出たというのは、機能主義的な思考を排して「賭け」に出たということだろう。あとから考えればバカだなあと思わざるを得ないが、韓国人の当為主義的な考え方があると知った現在では、なるほどそういう「賭け方」もあると思わないでもない。
 だが、goto-キャンペーンに関して、政府はそこまでシミュレーションしているだろうか。TVコメンテータの声尾に耳を傾けてみると、全国一律にすることはないじゃないか、goto-キャンペーンの受け方(各地方)に予算を配って、(受け側がそれぞれの条件を設けて)受け入れ側からキャンペーンを張った方がいいんじゃないかと提案がある。にもかかわらず、耳を貸そうとしないのは、どうしてか?
(2)観光産業の振興と言っても、地方にお金を配ってはその費用対効果が、現政権に返ってこないと考えているのではないか。国民に、ジカにお金を配るやり方の方が、国民は政府からお金をもらったという実感が残る。公明党が強力に主張して配ることになった「定額給付金」てのがそうだ。ここでいう国民というのは、選挙民のことだ。つまり政府は次の選挙の得票になるかどうかとしか考えていないから、効果の薄いことには手を出したくない。それにしても視野が狭いね。
 
 コロナウィルス禍が示唆しているのは、中央集権的な向き合い方では対応できないということなのではないか。各地方でこれほど状況の違いが出ているのに、全国一律の施策でしかことがすすめられないのは、中央集権的な統治に慣れ親しんできた弊害が噴き出しているのだ。東京や大阪という、まだそれでも啖呵を切れる大都市だから首長も言いたいことを言っているが、大半の地方自治体は政府に物申すことができない(と思っていたら、全国知事会が政府に県書を出したと聞いた。全国でまとまらないということも言えないってのが、また、体質を表しているよね)。そういう統治体制に乗っかっているから、何がモンダイなのかわからないのだ。自らのこれまでの統治の何がモンダイなのと考える、自省的回路をもたないと、提出した政策は吟味も検証もできない。まして「時の運」などという神がかり的な資質を優先させては、何のためにシミュレーションしたのかさえ、わからなくなる。
 
 でも、これだけ「それって見当違いだよ」って意見が飛び出してくると、政府も少しは気づくだろう。面体を慮って右往左往するかもしれないが、こういうちぐはぐさは、ひょっとすると大きな体質転換の兆しなのかもしれない。こういうことが、あちらこちらで繰り返されて、ようやく気が付いたころには「後の祭り」ってことになっているかもしれないが、民主主義の世の中って、そうやって変わってくるもんかもしれない。

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