2020年7月15日水曜日
神と云ふ大自然
一昨日(7/13)に山歩きをした。5時間の軽い奥武蔵稜線歩き。標高差はそれほどなかった。ところが、山行記録を書き落とした後の昨日(7/14)、お昼を済ませ、録画した映画「丹下左膳」を観ていて、どっと疲れが出ていると感じた。珍しいことだ。いつもなら3日か4日目に出てくる疲れを、こんなに早く感じるとはと、わが身が驚いている。映画が終わっても起き上がる元気がない。そのままうとうととソファで寝入ってしまった。夕食後も少し本を読んだだけで早々と床に就き、8時半には寝てしまったようだ。
昨日の新聞に目を通していないことに、今日(7/15)になって気づいた。コーヒーを飲みながら、気になったことふたつ。
ひとつ。鷲田清一の「折々のことば」。
《それがどれほど小さなささやきであったとしても、「私の名を呼ぶ者の声」を聞き逃さないでいたいものだ。 大嶋義美》
これに鷲田は、こうコメントする。
《フルート奏者が奉職する京都市立芸術大学では、コロナ禍の中で迎えた卒業式で、祝辞の時間は削っても、卒業生全員の名を呼び、それに起立して「はい」と応える儀式だけは守った。呼び声に「ここにいます」と応じることが、その人の個としての存在の第一歩だとの信念から。……》
同じようなことを、高校の卒業式のときに生徒から尋ねられたことがあった。400人くらいの卒業生だった。儀式の簡素化が謂われていたころ。体育館に、保護者も含めると1600人以上の座席を用意し、長い儀式と参列する生徒の我慢との比較計量が論題になった。
そのとき私のクラスの生徒が(卒業生名簿も印刷して配っているんだから)「呼名を省略すればいいのに(どうして一人一人名を呼ぶの?)」と(さも名案を思い付いたように)尋ねことがあった。
そのとき私は、「カミに声を届けてるんだね」と応え、こんな意味の補足していた。
欧米の神と違って日本のカミは大自然そのもの。私たち人もその自然の一部。無事このように育ってますよと「ご報告」するわけだね。入学式のときに「呼名」する。卒業式のときに「呼名」する。その都度、大自然の一員として「ここにいますよ」と存在証明しているってわけだね。
大嶋義美の「ことば」の主語は何だろう。大学(高校)の担任が呼ぶ「私の名」と考えれば、卒業生自身。鷲田が追記するように「その人の個としての存在の第一歩」だ。だがそれを「小さなささやき」と受け取るのは「私」をみているなにがしかのもの。二重性が込められている。ではそれは何に対応しているのかと考えると、「せかい」に(個が)どのように位置づいているかをみているカミにつながる。超越的な大自然である。
小学校の時の入学式、卒業式の「呼名」がある。中学のそれや高校のそれが、位置づき方を変えて、個々の「名を呼ばれる私」に響いているだろうか。あるいは、藝術大学を卒業するときの「呼名」を聴きとるときの「私」は、自らをどう位置付ける響きを感じとっているだろうか。
そう考えてくると、「どれほど小さなささやきであったとしても」と大嶋義美がいうときすでに、「私」を離れ大自然の側に身をおく者として、これから船出していくものの無事と安寧と繁栄とを祈るように「私」と云ふ「小さなささなやきであったとしても」「聞き逃さないでいたいものだ」と、自戒と己自身への願望を込めた(祈る)言葉だと思った。教師が大自然の超越的な位置に身を置いて「私」をみている。
学校の教師というものは、大自然そのもの、つまりカミとして生徒や学生に向き合っている。そう考えることによって、「教師」としての立ち位置を定着させる。不思議なことに、「教師」という仕事は、教える側と学ぶ側の二重性を身に備えないと、役割を果たせない。生徒・学生自身がどう育っているかを見計らいながら、なおかつ、然るべきことを然るべく伝えていく。それが伝わるかどうかは、教える側から伸びるニューロンとそれを受け止める側の受容器とのスウィングであったり、マッチングであったり、齟齬反撥というリアクションであったりして、まさしく「かんけい」のしからしむるところによる。自然のもたらす自然内存在のカミまかせの運命と言える。
もう一つ、気になったこと。
新型コロナウィルスの広がりを、政府が「東京問題」と呼び、それに対して都知事が「goto-キャンペーン」の「仕切りをつけるのは政府の役割」と応じて、責任のなすり合いをしているというニュース。「東京問題と呼ぶ官房長官に対してぶつけるべき言葉は、都知事ならもっと別様の言いようがあったろうに。
「まさしく東京問題、政府は権限と財源を譲って、東京問題を東京が解決できるように計らってください」
と言えばよかったのに、と思った。そういう応答をしていれば、安倍の次は小池かという国家の主導権を争う下世話な世評の次元に入域出来たろうにと、面白がっている。
どうして小池は、権限と財源の移譲を口にできなかったんだろう。
小池のカミは、お上でもあるからだ。いや小池ばかりではない。私たち下々もまた、カミはお上と考える常を持ってきた。
身分制が健在であった頃は、したがってセイジはおカミのものであって、シモジモはそれをわが身に引き据えて吟味し、使い勝手を確かめて面従腹背してきた。江戸の時代には使い勝手はムラ=村落共同体が判断する自治制があった。簡略にいうと、おカミのすることは直接カンケイないのが基本であった。
その長い歩みを引継いで明治政府は、村の自治制を排除して中央集権化を図り、戦争に突入して中央主権が無残な結果を招いたことを明かした。にもかかわらず、アメリカの押し付けに責任をかぶせて、いきなりシモジモが主権者であるという民主主義になった。地方自治はかたちばかり。つまりタテマエ。実態は中央官僚と中央政府が明治以来の慣習を受け継いで、中央集権のまんまであった。
主権者に祀り上げられたシモジモは、あいかわらず、公共福祉のことはおカミのなさることとそっぽを向いて来たところへ、高度消費社会の実現で一億総中流の、「生-政治」時代になった。ことごとくおカミに依存するのが当然という時代を過ごして、社会の気風をつくりあげてきた。おカミのなさることが、自然のこと。お上=カミという図式が、心裡にしっかりと根付いている。わが胸に手を当てて考えても、半ばその通りだと感じている身の程がわかる。
だから小池都知事の口から、「権限と財源をよこせ」という言葉が口をついて出てこなかったのだ。それを繰り出すように期待しても、江戸期のムラ=村落自治体を構築するのは、よほどの外的力が働かないとムリだわなと、私の自然が応えている。でもまあ、新型コロナウィルスのお蔭で、昔、社稷と呼ばれた地方自治ネットワークの再構築と決断とそれを実行する財源とを必要としていることが、明らかになってきた。まあ、明治のはじまりから153年かけてここまで来ているのだから、このさき、150年ほどかけて、再構築への道を歩むほかないのかなと感じる。
《それがどれほど小さなささやきであったとしても、「私の名を呼ぶ者の声」を聞き逃さないでいたいものだ》と、「私」という「じねん」の神と云ふ大自然を生きているのだと、肝に銘じて。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿