2021年1月31日日曜日

山のない暮らし

 今日で1月もおしまい。とうとう埼玉県から一歩も出なかった。去年の昨日(1/30)のこの欄には、奥日光へ行って泊るでスノーシューを愉しんできたことが、記されている。正月と合わせると、奥日光で6日を過ごした。じつは今年も宿を予約していたのだが、12月の「首都圏の緊急事態宣言」で足止めを食らった。今年になって、栃木県もその列に加えられ、ますます行きにくくなった。

 結局今月は2度、県内の日帰りの山に行っただけである。それはそれなりに面白かったのだが、あとはお目当ての日が雨とあって、出足が鈍ってしまった。その代わりと言ってはヘンだが、毎日ご近所を歩くようになった。ただただ歩いているとどんどん忘れてしまう。記録をとると、そのために歩こうとする要素も加勢するのだろうか、おお、今日も行かなくちゃあと、手がけていることをさておいて、抵抗なく家を出ている。

 今日の分を除くことになるが、30日間で456,600歩、327km歩いている。一日平均、15200歩、11km。ほぼ平地では2時間余だが、山の時は5~6時間の行動時間である。一番多い日は、26100歩、19km。一番少ないのは、「0」。なぜだったか忘れたが、1月3日。でも、このペースでは、全行程12000kmの四国八十八カ所巡りを40日ほどで済ませることはできない。傘を差して歩いたのは3日、あとは曇りか晴。温かい陽ざしに包まれていた印象が強い。

 歩数を計算するアプリが、距離をどう図っているのか、わからない。まさか歩数に歩幅を掛けて割り出しているのではないであろう。ひと月の総距離を総歩数で割ると71センチほど。だが山を歩いたときのそれを割ると、74センチになる。平地より山の方が歩幅が広いというのが、なんとなくヘンな感じだが、傾斜があるし、滑り降りたりしているから、その分広くなっているのか。GPSがつかんでいると考えている。山の歩数は、平地の二倍以上の負荷があるというのが実感だ。

 こうして、山へ行かず、ご近所を散歩するのが日課になった。コロナウィルス禍のお土産だが、齢相応に身体が衰えていっていることを考えると、身の程に適った過ごし方かもしれない。山を歩いているときのような(道を間違えてるんじゃないか)という緊張感はない。家を出て1時間余は、どこを歩いているか、どこへ向かっているかにかまわず、遠くへ遠くへとすすむ。1時間を過ぎて初めて、戻ることを考える。街中の、どこにいるかわからなくなると、そこからなにがしかの目安になるものを探して、幹線道路に出る。あるいは、慣れ親しんだ見沼田んぼの用水路に出る。

 ひとつ、日々実感することがある。浦和の町は、古い所と新しいところが入り組んでいる。古い住宅街は、道が細く、かつ屈曲している。路地と呼んでいい、道幅2メートルもない道が、家々の壁の間の暗渠の上を通っている。あるいは人の家の庭と区別のつかないところに出て、そこを抜けると4メートル幅の道路に出たりする。古い家屋の広い前庭には大木も灌木も密生していて、その向こうに畑らしき広さがとってあったりして、昔の田舎家のたたずまいだ。

 かと思うと、つい先ほどまで植栽の養生畑であったと思われる広い土地に8メートル幅の車道と4メートルもある歩道が両側にしつらえられた新興住宅地がぽんと出現して、何百メートルか続く。車道も、まっすぐに貫く様な無粋さを退けて、大きく屈曲する。車が速度を落とさざるを得ないように設計しているのであろう。変貌する浦和のペースが、土地所有者の寿命と遺産相続と土地開発業者の意欲とその土地への転入者の数によって定まってきているように感じる。幹線道路とバス便の多寡が影響しているかもしれない。

 山のない暮らしの予行演習のような日々だが、ま、こうして、コロナウィルスにいい機会を与えられたと思って、しばらくは県内禁足生活を送ることにしている。

2021年1月30日土曜日

あさきゆえみしゑひもせず

 今朝、と言っても朝なのか深夜なのかわからないが、夢うつつに二つのことが思い浮かんだ。

 一つは、一昨日のぼたん雪のこと。はじめ白いものがぽつぽつと落ちてきた。それが三つになり、四つになり、やがて無数に白くなって落ちる。「5センチくらいあるね」と後を歩いているカミサンが言う。うん、そんなに大きいかなと思う。そのうち、ぼたっ、ぼたっと地面に落ちて音が立つように思った。だがさほど進まないうちに、大粒のぼたん雪が視界の一面を覆い、みるみる見沼田んぼが白い色どりに覆われていく。その進行形が、面白く感じられた。夢うつつは、そのイメージだ。

 もう一つは、昨日この欄で記した「妙な小説」について。

 はたと気づいた。この小説は、作家が「愛」という幻想をはぎ取ってみた「性」。いや、幻想をはぎ取ってみた「性」は単なる生理作用だが、人というのはそのような機能的な「かんけい」だけで生きていない。その日常のたたずまいの中の「性」を個体に紐づけしているのが「愛という幻想」。それも、機能的に純化して行けば、「記憶」にたどりつく。

 では記憶が「愛」に代われるかとなると、そうはいかない。「記憶」すら、機能的に純化すると、例えばランダムな数字の配列を短時間で覚える技能に変化する。そのココロは、意味がない、ということ。意味が欠落した「愛」(という記憶)は、なんだろう、かたちのないイメージ。

 そこまで到達して、この小説、佐藤正午『5(ご)』(角川書店、2007年)は、人の日頃の暮らしの原点へ辿りつく。暮らしの原点は、「かんけい」。かたちが見えない。せいぜい、永井荷風のいう「芋づる式」か、夏目漱石が『虞美人草』で行ったという「運命は丸い池を作る」イメージを想いうかべて、幻想をはぎとった作家は、自分の記憶の原点へと旅立つ。原点があるわけではないが・・・。

 ひとつ目の雪が覆っている「幻想」が、溶けて流れて、地面が露わになると、たちまちつまらない日常が浮かび上がる。では、なにを動機にして人は生きているのか。イメージにせよ、言葉にせよ、「かんけい」を機能的にみてとるようなことをしていては、実存の意味すらつかめない。でも現代という時代は、機能的な「10」を求めて蠢いている。「5」じゃないかと、ぼんやりとイメージしている感触が、夢うつつに浮かんできた。

 あさきゆえみしゑいもせず。ん。

2021年1月29日金曜日

大隠は朝市に隠る。

 妙な小説だ。佐藤正午『5(ご)』(角川書店、2007年)、図書館の書棚にあるのを手に取った。作家の奔放な性的渉猟と創作と女性たちとの、つかみどころのない悶着。と思って読みすすめていたら、理知的な思念と身体的な反応という、二項対立的にいうと、その二つに引き裂かれた人の特性が対照され、そのいずれに「10」の才能がもたらされても、人との関係はうまくいかず、ほどほどのバランスをとって「5」を与えたまえというメッセージを込めているのかと思いつつ読むが、そう単純に二項対立にしているわけでもない。

 理知的な領野が未来予知的な才覚に顕れるような気配で、終わる。ただひとつ、才覚の「10」をもったものは、市井に身を隠すようにしてクラスのが賢明よという世間知でお話しはおしまいになるが、何だかそんなことを言いたいがために、こんなに延々と綴る必要はない。

 つかみどころがないのは、文通に登場する作家のジョークだったり、皮肉だったり、女に対するからかいの言葉だ。そのかけひきを愉しむために、これだけの文章が必要だったとすると、書き始めたときにどこへ向かうかわからないが、内側から湧き起る想念をどうあしらったらいいか、書いているっ本人もわからないままに書き落とし、書き落とすとすぐに何を書いたかはどうでもよくなり、次へと目が移る。そういう女との関係も、そのままに、捨てるでもなく留めるでもなく、シゼンショウメツするがごとくに移ろっていく。

 最後にぽんと、「大隠」という言葉が出てくる。ある特殊な才覚をもったものは、市井に身を隠せ。「大隠は朝市に隠る」と言いたいのであろう。となると、なんだ、世間的な同調性を忘れずに暮らせよという俗言に身を寄せているのか。「和光同塵」という言葉も、ただそれだけがポンと投げ出されて、捨て置かれる。ある特殊な才覚が、世の中の市営の民として暮らしている人々に、何か恩恵をもたらすということを言いたいのかもしれないが、そういう描写は(これと言って)あるわけでもない。

 妙な小説だ。この作家がどんな方か知らない、ただ、「5」というタイトルに魅かれて手にとったのだが、ヘンなの、と感じて終わった。

2021年1月28日木曜日

見沼田んぼに雪が降る

 今日の埼玉地方の天気予報は、一日曇り。所沢だけが夕方6時ころから雪の予報であった。お弁当をもって家を出た。出るときに師匠が「一応傘も用意して」と言ったので、折り畳み傘をリュックに入れた。見沼自然公園までトモエガモを見に行こうという。芝川の通船堀に出て調整池へ入る。天気は曇り。見沼用水西縁を流れる水の水量が多い。つい先日の雨がこんなにあったのか。それとも、そろそろ農業用水が必要な時期になるのだろうか。

 コガモに混じってオカヨシガモが浮かんでいる。オオバンが群れている。アオジが枝に止まっている。ウグイスが目の前を飛び去る。ヒヨドリ哭きながら飛び交い、ムクドリが電線にとまってお喋りしている。スズメの群れているのが茂みから飛び立つ。

 調整池にミコアイサが6,7羽浮かんだりもぐったりしている。鳥観の人たちの数が少ない。走る人と散歩をする人がちらりほらり。民家園まで行くのに1時間ほども掛ける。師匠の探鳥は、いつも歩度が遅い。見沼用水の東縁に上がって北へ向かう。国昌寺を過ぎ、見沼のトラスト一号地に入る。カワセミが飛ぶ。萱場に小鳥もいるが、何かはわからない。師匠がシメを見つける。マルコの萱で作った竜が、すっかり草臥れている。傍らの萱場の萱は刈り取って使ってくれと言わんばかりに生い茂っている。火をつけて焼き払うと肥料にもなっていいだろうにと思う。

 浦和草加線道路が渋滞している。ちょうど東縁を渡るところで街路灯の設置だか取替工事をしている。ご苦労さんだ。交通整理員が私たちを見て車を停め、通れと手にした信号灯を振る。ありがたい。

 自然公園の東屋に3人ほどのカメラマンがたむろしている。なにかをみているのか、お喋りしているだけなのか、わからない。池の方へ行く。前回来たときには池が凍っていて、そこへ石を投げて遊んでいる子どもたちがいたが、今日は凍っていない。オオバンが陸に上がって何かを啄ばんでいる。カルガモがぽかりぽかりと浮いている。鳥たちは、いずれも池の端の方に寄っている。

 トモエガモを探す。葦の草叢に一羽、それらしきのがいる。大きさは以前見たトモエガモのそれだが、顔をみないと私にはわからない。と、傍らから何かが飛び込んできて、トモエらしきカモは驚いて飛び立ち、大きく旋回して東の方へ行ってしまった。オナガガモとヒドリガモが私たちの方へ寄ってくる。ふだんならここで餌付けをするヒトがいる。傍らに「エサをやらないでください」と書いた看板が掛けられている。

 ベンチに腰掛けてお昼にする。12時半を過ぎている。陸に上がったオナガガモやヒドリガモは私たちのベンチの脇を通り過ぎて、池から離れた芝地の方へ向かい、そこで何かを啄ばんでいる。いつもなら人が多くて、そこまで上がってはこない。だがお弁当を広げていると、ぎゃおぎゃおと声をたてたかと思おうと、一斉に池に向かって飛び込んでいく。上空を見上げる。ワシかタカ来たのか。それともネコかイヌが来たのか。振り向いてみるが、それらしき姿も見えない。

 食べ終わるころ、雨が落ちてくる。「傘が当たったね」と師匠。降りはだんだん本降りになる。風がないから折り畳み傘でいいが、気温がどんどん下がってくる感触がする。手袋に入れた指の先が冷たい。シジュウカラとコガラの混群がいる。

 おっ、椅子に座り、手をさしのべて掌から餌をやっている人がいる。飛んできているのは、ヤマガラ。3羽も、入れ替わり立ち代わり、その人の手に乗って餌をもらっている。この方も、ずいぶん時間をかけてここまでにしたのだろうね。雨が落ちて来たので、彼も引き上げていった。

 帰る足取りが、ついつい早くなる。東縁沿いの道をにやってくる車が少ないのが、たすかる。ときどき立ち止まって飛び交う鳥を観るが、師匠は「最短距離で帰ろう」という。でも草臥れてきているのか、足取りは重い。

 調整池の脇を抜けるころ、落ちる雨に白いものが混じる。雪だ。そのうち落ちてくる白いものが多くなる。ぼたん雪になったねと、後を歩く師匠が言う。調整池を過ぎて、大間木のサッカー場や野球場やゲートボール場を過ぎるころには、雪で前が見えなくなるほど、一面が雪になった。地面に落ちたのが、初めの家はすぐに溶けていたが、そのうち白くとどまる時間が長くなる。草付きの上に落ちた雪はそのまま積もる気配さえ湛えている。

 服に落ちた雪が解けずに、しばらく残る。家に着くころには、本降りになっていた。濡れたズボンをとりかえ、着ていた羽毛服も吊るし、靴下もとりかえる。身体が暖かくなる。庭も、白くなっている。これは積もると思っていたが、今見ると、庭は黒っぽくなり、空から落ちる雪片も、もうぼたん雪ではなく、細かい雪片になってきた。ひょっとすると、これは積もるぞ。ちょっと楽しみ。

2021年1月27日水曜日

意外な街中の大きな森

  昨日(1/26)、鳥観の師匠の案内で「秋葉の森公園」へ行った。何処にあるんだろう。ネットで調べるとさいたま市の西区とある。川越線の指扇駅の北1㌔ほど。車のnaviにいれると「秋葉の森サッカー場」があった。住所が西区とあるから間違いない。「35分」と所用時間が出ている。何だ近いじゃないか。naviの案内にしたがって走る。清河寺で斜め左へ曲がりあと何百メートルかになって、細い田舎道になる。左へ曲がれと指示が出るが、その角に「行き止まり」と書いてある。でも行ってみようと車を入れると「目的地に着きました。」と案内が終了してしまった。周りは萱の原。おいおい、これじゃ困るよ。角まで引き返し、直進するが「サッカー場」らしきところはない。師匠は、駐車場があった、トイレもあった、公園の管理事務所もあったと、何年か前に駅から歩いてやってきて、探鳥したときの記憶をたどるが、それらしき場所に出会わない。

 もう一度、navi履歴の「秋葉の森サッカー場」を目的地に指定すると、なんと3・5キロ先へ案内を開始しはじめる。えっ、えっ、いいのかよとnaviを疑いはじめる。だが車は、先ほどの終了地点を反時計回りに回り込むように走り、ポンと秋葉神社の鳥居近くに出た。その前で左折して進むと、広い駐車場があり、サッカー場が二面ある「秋葉の森公園」に着いた。何だか狐につままれたような気分だ。

 さいたま市営公園。サッカー場の一面はカバーをかけて芝生の養生をしている。案内板に「予約法」を記している。結構人気の練習場なのかもしれない。そう言えばネットで調べたとき、近くに大宮アルディージャの本拠地があったようだった。その向こうに、南北に細長く葦原と森が広がっているのが、「秋葉の森公園」のようだ。

 まず、南端の方へ向かう。ツグミに出会う。ヒヨドリがたくさん飛び交う。母子連れが遊具で遊んでいる。家族連れがお弁当を下げて歩いている。葦原の鳥を観ていると、向こうからやって来た人が師匠の鳥友らしい。しばらく何か話を交わしている。野鳥の会がこのところ開催できないから、こうやって私的に鳥観をして、互いにメールなどで情報交換をする。シロハラがいた。クイナやヒクイナがいるとかワシタカがいたが、なにかわかったかとか、ルリビタキがどこそこにいたということらしい。

 裏側から公園の敷地を出て細い農道をすすむと、竹林の向こうに葦原が広がっている。そうだ、秋葉神社ってのは火除けの神様ではなかったか。住宅地に広い葦原があり、森が残されているのは、かつての農村地帯にあった広い萱場の火除けのためであったのかもしれない。大宮台地の森や萱場が住宅地に変わっていく、その進行形が、今のここの姿なのだろう。シロハラやホオジロがいた。クイナのらしき声も聴いた。シジュウカラやメジロ、コガラが木々の枝や地面の枯れ草に群れている。シメもみた。イカルの鳴き声がする。高い木の先端近くに3羽いたが、飛び去ってしまった。

 サッカー場の方へ戻り、北へ向かう前に芝地のテーブル付きベンチでお昼にする。100mほど離れたテーブルで探鳥の人たちがお昼にしている。20mほどのところに7人の若い家族と友だち連れが賑やかにおしゃべりしながらお昼を愉しんでいる。コロナなど知ったことかという勢いだ。

 北の方へ向かう。高台の森の西側に湿地が広がり、そこも広い萱場になっている。コサギが飛び立つ。鳥影は少ない。湿地の中央によどむ水場近くの萱ににカワセミが止まっている。空は曇り空だが、背中の羽根が緑色にきれいだ。ヤマガラが2羽いた。アオサギが飛ぶ。シメが高い木にいる。犬を抱いた人がやってきて通り過ぎる。あとで分かったが湿原の入口に「自然保護区ですので、ペットを連れて入らないでください」と書いてあった。「だから抱いてはいる人がいるんだね」と師匠。ははあ、橋を渡る一休さんみたいな人がいるんだ。

 戻るときに、ここにルリビタキがいたんだよねという水路を覗いた。師匠がタシギを見つけた。くらい水路の影から流れの方へ踏み出してきて、何かを啄ばんでいる。双眼鏡でよく見える。と、引っ込む。また出るのを待つ。待っていると師匠が、ルリビがいるよとすぐ近くの下を指している。いた、いた。裸眼でみる方が容易いほどの近くの下の水路にルリビタキの雌が、水浴びをしたいのだろうか、落ち着きどころを探すようにぴょんぴょんと飛び回っている。カメラにも収めた。これほど近くで、こんなに長い時間ルリビタキをみたのははじめてのように思った。

 これで今日の鳥観の目的は達した。滞在時間は約3時間。いそいそと買い物もして帰った。わずか8000歩ほどしか歩いていない。

2021年1月25日月曜日

もう一つのアンの物語

 人の利他的な振る舞いは、自らの内心への「かんけい」を省察することから生まれて来る。そう描いた小説が、真保裕一『赤毛のアンナ』(徳間書店、2019年)。モンゴメリの『赤毛のアン』の変奏曲といってもいいが、カスバート家に引き取られたアンと異なり、引き取られなかった子どもはどうなったろうという、「もう一つのアンの物語」である。

 アンと同様アンナも世間の偏見にもまれて奈落の底のような環境に身をおくことになる。そこで、天真爛漫に自己を貫こうとしたアンは、イギリスという階級文化の違いが生み出す厳しい視線にさらされるが、引き取られたカスバート家の大人が「保護膜」となってアンを護る。2020/12/1に「人手を経た物語と虚飾の重さ」として、子どものころに読んだつもりになっていた「赤毛のアン」はリライトされた物語であったのに対して、原作をドラマ化した物語は、イギリスの階級文化が骨の髄にまでしみとおっていることを感じさせた、と書いた。

 だが真保裕一のアンナは、階級分化の違いという分別を弁えない/平等社会・日本において、「保護膜」を取り払われてどう生きていくか。「家族」という保護膜さえ崩れて、子どもも独りで、社会の「同情」という偏見にも立ち向かわねばならない。文字通り自己の個人責任で、世の中に向き合っていくのは至難の業であることを素材としている。

 真保裕一は、じつは、そこまで酷薄な人ばかりの世の中を描きはしない。アンナの利他的な振る舞いに薫陶を受けた友人や同僚やその知り合いたちがいろいろと手を尽くして、アンナの緊急事態に手を貸してくれる。いかにも真保裕一らしい展開を読むことになる。

 だが私は、ちょっと違った感触を持った。というのも、イギリスの階級文化は、「家族」という保護膜の外に、「階級文化」を「社会的保護膜」としてもっているのではないか。「保護膜としての階級文化」というのは、分別の境目が目に見えていることを指している。となると、「階級」とは言えないが、アメリカの人種も、言語も、出自も、社会の中においては、「目に見える分別」として、心裡においては作用している。良いか悪いかは別として、「目に見える分別」を、どう位置付けてどう扱うかが、例えば今般のアメリカ大統領選の行間で争われていたのではないか。言葉にならない、あるいはしてはならないという規範を、ぶち壊して、あらためて再構成する機会として、1億5千万ほどの人たちが自らに問う機会をもったとは言えまいか。

 日本には、それがない。「単一民族」という幻想が社会的に生きていれば、それはそれで「保護膜」として、逆にそれによって「保護」されない人たちにとっては「差別要因」として作用する。だがそれはすでに「幻想」であるばかりか、誤っていて有害であるとみなされている。あるいはまた、日本国憲法のいう「国民」さえもが、「日本国籍を持った人」という意味で用いられてさえ、不十分だと外国からやってきた人たちと共住しなくてはならない社会が出現している。にもかかわらず、観念の中の「幻想」は否定されたにしても身体に沁みこんだ「感覚」は依然として「単一の共同性」を求めている。つまり、目に見えないことを「分別」せよということの困難さが、「赤毛のアンナ」には漂う。

 もちろん「階級的偏見がない/平等社会だ」という「社会感覚」が活きてくる場合もないわけではないであろう。アメリカのように、一度は意識的に乗り越える機会をもたないと、「保護膜抜きにして」個人責任で生きていく酷薄さを、日本の社会は乗り越えられないのではないか。真保裕一も、そこまで描き切ることができなかったように、私は読み取った。

 ハッピーエンドに終わるよりも、むしろ苦渋に満ちて「孤独」に生きるアンナの結末こそが、現実を描くのにふさわしかったのではないか。そんなことを思った。

2021年1月24日日曜日

お湿りに地面が喜んでいる

 昨日から今日にかけて、関東地方は雨。気温もさほど下がらず、雪にもならなかった。垣根のイヌツゲも青さを取り戻したようにつやつやとしている。何より乾いた地面が黒っぽく湿り、落ち着きをもったように感じる。

 昨日(1/23)は2時間余、住宅地を逍遥した。逍遥というとカラマツの林を散歩するような気分にみえるでしょうが、アテもなく1時間ほどの遠方まで行き、1時間ほどをかけて戻ってくるだけのこと。ただ、ぼんやり方向を胸中に思い描くだけにして、目に見える森や林を辿りながらすすむ。ときにはその森の周りをぐるりと経めぐり、神社があると境内に上がって拝殿に向かう。傘をさして境内への石段を上がっていると傍らの森からキーッキーッという鳥の声が聞こえる。ヒヨドリにしては音程が低い。へっ、こんなところにカケスがいるのかと思うが、わからない。

 いつも自分がどのあたりにいるかの見当をつけているつもりであるが、古い住宅街の道をたどっていると全く逆の方向へ向かっていたことに、のちに気づくこともある。晴れていればお日様の位置によって方角がわかるが、雨とあってはとんと見当がつかない。加えて、大字や字を知らないから、電信柱や住戸の住居表示をみても、わからない。聴いたことがある字だなと思っても、じゃあ南の方へ向かえば自宅に近づけるとは思うが、どっちが南だかわからない。たぶんこちらへ曲がればいいんじゃないかと右へ左へとすすむと、全く逆に向かって歩いていたということになる。

 そういう迷子になっている気分を、逍遥と呼んだ。それが面白い。スマホを開いて「今どこにいるか教えて」とgoogle-mapに問えば現在地点はわかる。「家へ帰る道を教えて」と言えば、ルートを表示してもらえる。しかしそれをしないのが、いかにも年寄りの「迷子」らしく「(安全を担保して)自立」している。

 中学校や小学校に出くわすと、大体の地点がわかる。1時間でずいぶん歩くものだ。近頃はスマホの歩数計が歩数と距離と時間を測定してくれる。昨日は、12km、2時間半、18500歩ほどを歩いた。時速5km弱か。たいした速さではない。こうして数値化されて記録されると、なんとなくそれに合わせて日々歩こうという気になるのは、気性だろうか。

 自分の体がそのようにうごいているのは、いやだなあと思う。都会のタイルを張った歩道を歩いているときに、ふと気づくとタイルとタイルの境目の線を踏まないように歩幅を調整している。なんだか歩道の設計者の注文に操作されている気分になって、いやなのだ。古い住宅地にはそのような歩道はない。気性に導かれた衝動と人為的な他人の設計に操作されているような気分に対する抵抗とが交錯して、私の逍遥をかたちづくっている。

 地面もそうだが、樹木も久々の雨に落ち着いた気配を湛え、醸し出す。神社がこんなに多いのだ。屋敷の敷地の中の森に囲まれた鳥居や祠もある。あるいは、昔の集会場の傍らの区画にちょっと大きめの祠があり、「**山」と文字が暗くて読めとれない扁額を掛けた鳥居が立つ。この地区の守り神なのだろうか。

 雨のせいでか、幹線道路の車が渋滞している。そこを避けて裏道へ、裏側へと入り込む。樹木や植栽をしている広い畑があるかと思えば、広大な地区一帯が整地され、屈曲をもった立派な街路が設えられ新築の戸建て住宅が立ち並ぶ地に出たりする。耕作地から住宅地へ、農村部から新興住宅街へ変貌を遂げる世代の移り変わりが未だにつづいている。その姿が見事に反映されているのだと思いながら、何処へ向かうのかもわからず、ふらふらと歩き続ける。だんだん歩いていたくなる土地が減ってきていると思いながら。

2021年1月23日土曜日

無症状の異常

 ときどき自分の身体状況を記録する意味で書きつけている。いずれ振り返って、わが身の劣化や衰退をとらえ返すこともあろうと思うからだ。

 もう何年も血圧の薬を飲んでいる。じつは自分ではそれほど高いと思わなかった。血圧計で検査することもそれを記録することも熱心ではなかったが、薬の効果があるのかどうかチェックするには記録しておかねばならないと言われて、「高血圧管理手帳」に毎日のそれを書きつけるようにしてきた。医師に見せるのは年に1回あるかないか。今年になって一つの気になる変化があった。ときどき脈拍が異常に少ない。「異常に」と素人が言っていいのかどうかわからないが、ふだんは47~53くらい。ところが1/9から1/12のあいだに、40,36,36,35と4回も40以下であった。でも、2回計るうちの1回は47とか49だったし、異常を感じる気配はなかったから、放っておいた。

 薬を処方してもらうとき、医師に「手帳」をみせ、何かモンダイがあるか相談した。尿検査、血液検査のほかに、レントゲンを撮り、心電図をとって診てくれた。この医師は循環器系の専門医だそうだ。だそうだというのは、何年か前、別の病院で健康診断をしてもらって心臓の精密検査をする必要が見つかったとき「かかりつけ医」を訊ねられ、このクリニックを名を出すと「ああ、T先生は循環器の専門医だから」と診てくれていた医師が反応したから、名を知られた方なんだと改めて見直したことがあった。

 心電図をみると、不整脈。ピコ、ピコと規則的に跳ねる線グラフが、何回かに1回、跳ねないで省かれている。「ふらっとすることはないか」と医師は訊き、「ここがね、2・5秒あるとフラッとなるんですよ」と、跳ねない部分を指して静かにいう。

「山を歩いているようなときに、そうなることってありますか」

「ああ、ありますね。じゃあ、ホルターをやってみましょう」

 ということになって、24時間計測のホルターをつけている。運動をしてもいい、お酒を飲んでもいい。いつものように過ごして、「行動記録カード」をつける。

 たまたま昨日は金曜日。週1の1時間半の運動タイムもある。マットにうつぶせになるとみぞおち当たりの「計測器」がつぶれそうで、いつものように運動できない所もあったが、ふだんを同じように過ごした。

 きょうこのあと、クリニックに行き、ホルターを外してもらい、医師の診断を受ける。と言っても、感じる異常があるわけではないから、痛むようなら来てくださいと告げられる程度になるのだろうとみている。

 新型コロナウィルスもそうだが、無症状の感染者ということもある。見えないところにステルス病が発生し、それが露わになるのは、彼岸に渡る直前ってこともないわけではあるまい。まもなく平均寿命になる齢ともなれば、それで痛みがなければ、案外一番いい彼岸への渡り方になるかもしれない。ちょっとワクワクしながらクリニックへ足を運ぶことになる。

2021年1月22日金曜日

まずは、無事でよかった。

 去年の秋、「どうしているか、乞う連絡」という記事を掲載したことを、憶えている方もあるかもしれません。タイに住む私の古くからの友人・Yさんの消息が途絶え、加えて私のスマホが壊れて、それまでのデータが失われてしまったために、Yさんに呼び掛けるかたちで記事にしたものでした。その後もわからずじまいでしたので、彼の地で彼岸に逝ってしまったかと思っていました。

 そのYさんからair-meilが来たのです。国際郵便です。いや、良かった。生きていたんだと嬉しくなりました。8カ月ぶりの消息です。

 ノートを切りとった便箋に、わずか150文字ほど。5行ほどに分けて、たどたどしくではありますが、まごうかたなくYさんの筆跡。

 ガンになったこと、完治しないこと、完治しない病気になることが辛いこと、もう会えないことが記され、お訣れの言葉が添えられていました。

 共通の友人であるY105さんにYさんの消息を訪ねたことで、私が心配していることが伝わったのでしょう。ということは、ブログを読むどころか、スマホのメールをみることも叶わぬほど苦しい状態が続いていたのだろうと推察しています。

 逆にいうと、やっとY105さんとのやりとりを交わす状態、気分にもなり、150文字ほどであっても国際郵便を出すくらいの元気を取り戻しているということではないでしょうか。そう考えて、喜んでいるわけです。

 文面には、「健康に留意して山行を続けてください」と私に対する気遣いもありますから、自分のことだけで精一杯という状態から抜け出し始めている気配が感じられます。ただ、もう会えないということが胸に迫って永訣の言葉になったのだろうと思いました。

 末尾の「令和3年1月  ***拝」という署名が元号であることにも、祖国に対する彼の思いが溢れているように感じ、思わず涙するようでした。

 さっそく手紙を書いて投函しました。郵便局の方には「コロナのせいで先方への到着が遅れるかもしれませんが、ご了承ください」といわれました。「平生ならいつごろに?」と訊きましたが、分かりませんという返事でした。彼の目に届くよう着くことを願って投函した次第です。

                                            *

 手紙を書いていてふと思ったのですが、プリントアウトされた紙の上の文字をみていると、PCのモニター画面を見ているのとは、感触が違います。手紙は、読み返せます。もちろんスマホの画面も読み返せるのですが、文字が流れて急いで次へ移っていくように感じられて、意味を読み取ることだけに限定されてしまうような感触です。ですが手紙の感触には、空間があります。便箋の広さが、いわば絵画の額縁です。区切りとられていることによって、その中が一つの世界として独立して意識されるのですね。

 こうも言えましょうか。額縁のように限定することによって、そこに書き落とされたことが「それ自体」として浮かび上がる。モニター画面では「せかい」と地続きになって、輪郭がおぼろになり、「それ自体」のたしかさがぼやけてきてしまう、と。とすると、額縁によって限定された手紙というのは、文章の記す世界を分節化して限定して「せかい」を際立たせるのではないか。

 パソコンで打った文面をプリントアウトして封入したのですが、考えてみると筆跡というのは「それ自体」の端的な要素ですね。私は文字が下手だからPCで打っているのですが、手紙は手書きにするのがいいかもしれません。

2021年1月21日木曜日

文字通りの藪山歩き・横隈山

 いま山から帰ってきました。天気は快晴。朝のうち少し風が強かったが、歩き始めるころには収まっていた。そうだ、行った先は、横隈山(よこがいさん)594m。長瀞の近く、野上の北側に鎮座する秩父山系への入口の山。山の北側は本庄市の児玉、南側は寄居町か。低山であるが、ルートがはっきりしない。野上駅から出牛峠を越えて出牛に出る道も、大量の落ち葉に隠されて踏み迷うほどであった。それでも、横隈山までのルートは迷うほどではない。ところが後半の、横隈山からの下山にとったルートは、半分が藪漕ぎ。横隈山から東へ下り沢戸に出て殿谷戸に至る。そこから再び山に入り糠掃峠を越えて長瀞総合射撃場近くに降り立つルートは、ルートは皆無。それも2カ所は崖のような急斜面を木につかまり枯葉とともにずるずると滑り降りながら、降ってゆく。他の藪漕ぎは朽ちた竹が倒れてルートを塞ぎ、いや、ルートそのものがない。無事に還れたから面白かったというが、GPSの扶けなしでは、帰る気力が失なわれていたであろう。

 8時半ころ下山地に自転車を置き、落合橋の西にある登山口へ向かった。8時45分、歩き始める。

 石の切り出し工事でもしているのであろうか。舗装路の先はにはゲートがあって「私有地、立ち入らないでください」とある。その脇の山道が登山道。すぐに行き止まり、沢を渡って道は枯葉に覆われて、わからなくなる。踏み跡がある方を辿ると、竹藪に行きついて迷う。GPSを見て修正する。

 出牛峠で車道に出る。GPSでは地図の登山道からズレているが、車道の向こうに広い踏み跡がある。そこで農作業をしている方に道を確認する。「そう、このままいくと出牛に出るよ。広い道路に出たら右へ行っていろは橋を渡ったところで左へ行くんだよ。へえ、横隈山っていうんかい」と教えてくれた。

 出牛の集落は住宅がいくつもある。何処へ抜けるのか、車の通りも少なくない。ダンプカーや大型トラックが多い。いろは橋で山への舗装林道に入る。道路を箒で履いている古稀世代が「よこかいさんへ行くんかい」と声をかけてくる。「はい、そうです。地理院地図には山の名前が載ってないんですよ」と応じると、「あの山はここら辺では神山って呼んでた。稜線に乗って曲がるところに大きな岩があってね」と、それがご神体として大事にされていたと話す。

 さらに登っていると、リュックを背負った60歳代の男が来る。まだ十時だ。「速いですね」と挨拶すると「5時半に家を出て、センターに車をおいて来た」という。(センターってどこだ?)と思うが声に出さない。傍らのロウバイに目を移して「今年は早いですね」というから「でも私の棲んでいる浦和では正月の花ですよ」と応じると、与野から来たと、同じさいたま市の区の名を挙げた。元気そのものだ。

 舗装林道のどん詰まりで山道に入る。ここにはじめて「横隈山→」の表示が出る。カウンターが置いてあって「一人一回押してください」と書いてある。押して通る。ゆっくりな上り。稜線に乗る。10時20分。「権現岩150mと手書きの小さな立て看板がある。これが神山のご神体だなと思う。見にはいかないで、山頂へ向かう。樹木を皆伐したところに出る。50mほど上にガードレールが見えるのが、木材の運び出し林道だろうか。ぐるりと回る作業道もあるが、私は直登の道を選ぶ。と、ガードレールから登山服の姿が一人見える。彼は作業道を降りるようだ。私が道路に着いたとき、彼は下の作業道からどう登山道に入るか、道を探していた。

 山頂への道は道路から離れて北へ向かう。山頂に連なる稜線の上は見事な展望台になっていた。北西に雪をかぶった姿のいい浅間山がくっきりと見える。北には鬼石の町が広がり、その先に藤岡から高崎へつづく街並みが一望でき、その行き止まりの所に榛名山、子持山、赤城山が並び、ずうっと向こうにたなびく雲の身を隠すように雪の山頂部をのぞかせているのは谷川連峰であろうか。

 赤城山の左肩に顔をのぞかせている雪山は武尊山か。そのずうっと右に、男体山を取り囲むように日光連山が雪稜をみせている。こうやって一望すると、赤城山と男体山が争った戦場ヶ原が、まさに「戦場」としてイメージできる。

 大きな木の根方に「御嶽大神國立尊」と大書した石柱が立てられている。背面を観ると「明治五年」の建立らしい。なんだろうこの石碑は。誰が立てたのか。なぜ建てられたのだろうと疑問がわくが、答えを探すほどの熱意は沸いてこない。ほんの3分で横隈山の山頂に着いた。樹木に囲まれて、見晴らしはまったくない。10時44分。出発から2時間で到着だ。

 でもここからが、ルートのない下山路になる。お腹にものを入れるのは、しばらく後にする。南東に横隈山のひとつの稜線が伸びている。ちょうど太陽がある方向だと考えてすすむ。下は枯葉ばかり。だんだん急斜面になる。木立につかまりながら地図にある「作業道」に向かって標高差で180mほどを下る。あと標高差30mくらいになったところで斜面の角度が急激になっている。もう少し傾斜のなだらかな地点を探してトラバースする。枯葉ばかりであったところに常緑の灌木シダが繁茂している地点を降る。木につかまり、脚の置き場を確保し、右へ左へ探りを入れて身を降ろす。あっと気づいたのは「作業道」というからきっちりと土の道があると思っていた。だが、単なる細い山道があっただけだったから、降り立つ直前に、おっ、ここが作業道だと発見したのであった。下山を始めて26分、ガイドブックでは25分とあったから、まずまずの降り方であった。

 作業道はしっかりとして沢戸の車道まで案内してくれた。その先は二車線の車道を児玉町太駄まで下り、小山川を渡って長瀞町との間を南北に走る山を越える。11時45分。出発してから3時間。お昼にしてもいいが、適当なところがない。

 この先もルートが不鮮明とかないとガイドブック(『中後年向きの山』山と渓谷社、1882年)は書いてある。食品工場で、裏山の糠掃峠を越える道を尋ねる。爺さんは峠の名前は知らなかったが「ああ、それは、この裏の道をいくんだけど、荒れてるよ」という。一人のおばさんが「ぬかはきとうげ」っていうと付け加える。歩く人がいるんだと、むしろこちらが驚かれているようであった。

 たしかに道はないに等しい。沢筋を突き詰めてのぼると、左の方から踏み跡がやってきていたから、そちらの方を探せば、登山路はあるのかもしれない。それを稜線まで上ったところで、12時を回っていたので、お昼にする。

 そこから先は、厚く降り積もった落ち葉を踏んで、等高線を観ながら身を持ち上げる。ともすると方角を見誤りそうなのだが、太陽の位置があるからどちらへ向かっているかがわかる。これで緑の葉が生い茂っていたら、どちらへ向かっているのかさえ分からなくなるかも。車道へ出る。小さな木の手書き標識があり、文字はほとんど読めないが、マジックで誰かがいたずら書きのように「ヌカハキ峠」と書いてある。さてここから、山の向こうへ下る。標識の向こうに山道がつづいている。へえ、こちらかなと少し踏み込んでみる。等高線に沿うように、北へ向かっている。こりゃあ逆だと引き返す。山道の反対側は、密生した植物に覆われ、崖になっているように、大きく下へおちている。元の標識に戻り、車道に沿って歩く踏み跡があるかどうか探す。一つそれらしきのを見つけ踏み込む。地理院地図に、一部だけ点線がついているのがこれかと、小さな木の枝をかき分けて先へ進む。こんもりとした針葉樹に覆われたあたりで、地図に「△431・2」と高度補油辞された三角点を見つける。の少し先を下る点線がある。そこからおりようとするが、GPSをみると行き過ぎている。引き返して、じゃあ、この崖のようになっている標高差50m以上の所を下るのか。そう思ってみていると、暗い崖のような落ち葉に踏み跡のようなところがある。木につかまり、脚を降ろす。ゆっくりトラバースしながら木を伝うようにして降る。これは緊張した。下がはっきり見えるから余計身体が縮む。でも斜面に体を寄せると余計脚は滑りそうになるから、身体を立てて、歩一歩、下へ下へ、右へ左へと辿る。その下にルートがあるように見えない。針葉樹の大木がない所は、朽ちた倒木が斜めに横たわっているのにつかまり、枝をまたいで身を下へと下ろしていく。標高差で80mほど下ったところで、下に明るい広い区域がある。そこへ向かう。すっかり古びた簡易舗装が、下へジグザグに続いている。ああここで、ルートファインディングは終わったと思ったのがまちがいであった。簡易舗装を辿って下ると、どんどん南の方へ行ってしまう。あとで分かるのだが、昔の「埼玉長瀞GC」のコースであったようだ。下山地の長瀞射撃場とはずいぶん離れた方向へ行ってしまう。そこで、いったん、降り立った簡易舗装地へもどり、GPSと地理院地図に記載されている離れた地点の点線下山路へ近づいていく。獣除けの電気ケーブルが引いてあるのを踏み越える。踏み跡は、まったくない。そのうち竹藪にぶつかる。朽ちて倒れた太い竹が進路を防ぎ、枝が身体を通せんぼする。明るい方向へ下りてゆくと、下の方に砂防堤防が見える。地図をチェックするとそれらしき箇所があった。点線はその左側を通っている。もう一度身体を竹藪の上へ持ち上げて回り込み、藪を抜けて下へと抜けると、向こうに太い山道がみえた。

 こうして、なんどかのスリリングなルートファイディングを行いながら、下山地に出た。14時10分。行動時間は5時間25分。お昼タイムを覗くと5時間5分。ここでやっと、ホッとした。

 朝置いた自転車に乗って舗装路を下り、予め調べて置いたわき道を辿って車の駐車場所に着いた。順調に帰宅し、4時。面白かった今日の山行記録を書き始めはしたが、すぐになんだか疲れたなあと感じて、やめてしまった。根気がつづかないんだね。

 それにしても、地理院地図に山名もない山が、こんなに新鮮な刺激を私に与えるとは思ってもみなかった。案外、こうしたルートファインディングのスリリングさに生きている実感を求めていたのかもしれないと思った。

2021年1月19日火曜日

ちぐはぐ

 緊急事態宣言をした政府の「特措法の改正」点がはっきりしてきた。「入院を拒む人には罰金や懲役」と報道されている。他方、TVのニュースでは「(入院)待機中が7000人」と、感染したり基礎疾患があるのに入院できず不安を抱えて自宅待機している切実な実情を報じている。このちぐはぐは、何を意味しているのだろうか。

 視聴者からすると、後者の方が切実である。だいたい感染していると分かっても病院に受け入れられない状況で、どうして「入院を拒む人に罰則」なんて話が出ているのか、理解できない。政治を行う人の、このズレが、簡単にいうと「政治への不信」に通じている。

 もうひとつ、ある。

 前者は、統治者目線である。いかに人民に従わせるかと思案している。そのベースには、感染して入院を「勧告」しているのに従わない人々をどう支配するか。「命令」とはいわないで、「勧告」と呼ぶところに、すでに腰が引けている為政者の立ち位置が見えるが、それをさておいても、統治者目線でしかない。

 後者は、庶民目線である。そもそも現状において庶民は、「入院を拒む」ことがそれほど喫緊の課題とは受け取っていない。無論そういう人が感染を拡大する恐れがあることは承知している。だが、それが目下の主要課題かというと、どうもそうは思えない。

 現在、感染がどのように広がっているかを、政府は掌握しているのだろうか。感染不明の割合が半数を超え、あるいは「家庭内感染」がこれほど多くなると、もはや感染源は「人の往来」そのものにあると都知事が指摘する通りに、社会的な広がりを持っている。となると、一人の「入院を必要とする感染者」をどう従わせるかなどは、ほんの片隅のモンダイになる。

 コロナウィルスが入り込んだ初期、感染を告げられた男がカラオケに行き、他人にうつしていたと画像付きで報道されたことがあった。その当人が、後に死亡したと知ったとき、ひょっとすると病院の医師や看護師は手当てを拒否したのではないかと思い、そうであったら当然というか、自業自得というか、痛快だとさえ思ったものである。その程度の報復心情は抱いてるから、「処罰規定」を無用とは思はないが、今(ごろそれ)じゃないだろうと、さらに不信感を募らせている。

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 デジタル時代になり通信と広報が社会的なメディアとして大衆化しているご時世に、政治家や政府や官僚は、世の中で何が起こっているか掌握しているのか。そうおもわせるズレなのである。

 国会議員の多数が「陣笠」と呼ばれていた時代があった。当選さえすれば国会活動では単なる頭数として動員されるだけと蔑む言葉である。その用語の発端が誰なのかは知らないが、それはマスメディアの政治記者が名付けたものに違いない。マスメディアの経済記者は、その「陣笠たち」への取材を欠かさなかったという。彼らは地元選挙区の、あるいは特定業界の経済事情に通じていたからであった。そうしないと、中選挙区制の下では同じ党の他の候補者に議席を奪われてしまう。逆に議席を奪い取るには、野党以上に与党の他の議員の方が競争相手であることが切実であったから、より強く経済現場を掌握するように地元を歩き、業界を束ねていたという。ところが、小選挙区制になって以来、彼ら「陣笠」の方から経済記者に取材があるほどになったと、経済新聞の記者が述懐していた。つまり国会議員の大半は名実ともに、「陣笠」になり果てたのである。

 情報ということに関して庶民は、政治家たちと同じ次元の情報を手にする可能性を示唆している。いやむしろ、特定の業界や特定の領域、特定階層、特定の支持者としか付き合わない政治家の方が、情報が偏ったり欠如していることさえ考えられるのだ。それがTVでの政治家の発言で明らかにされると、謝罪したり取り消したりするかどうかよりも、ははあ、この程度の人間なんだと「不信感」だけが胸に刻まれる。場や面体を取り繕うことが、即、不信感に結びつく。そうしたことの累積が、政治不信の確固たる信条にさえなる。ちぐはぐは、それを象徴している。

 政治家や政府に対して文句をいわない庶民は、面従腹背ですらない。勝手にしいやと、知らぬふりをしている。自分の身は自分で護るほかない。それが「民度の高い」国民の証左なのか、それとも、とうていアメリカの国民に及ばない「12歳児の民主主義」の現実なのか。どうあがいてもすぐには変わらないこと。ゆっくりと考えてみようか。

2021年1月18日月曜日

放浪的散策

 緊急事態宣言から2度目の終末。ご近所を歩くしかない。歩くのが一番身の置き場所として適当だと感じる。

 土曜日(1/16)の午前中は「ささらほうさら・無冠」の今月号の制作で時間をつかう。図書館で受け取る予約本があって、午後、足を運ぶ。そのついでにどこを歩こうかと思案しながら、お茶だけをリュックに詰める。気温が4月下旬と同じ16℃になるという予報があったから、セーター1枚。でも歩いているうちに汗ばむほど。吉祥寺から住宅街の裏手を回っているうちに、いつしか、脚は見沼田んぼの方へ向く。そうか、このままいくと見沼大橋を渡って、東北道の方へ向かう。車の通りは有料道路とあって、わずか150円だが、通りは少ない。自転車は20円、歩行者は無料。高さ50mほどにかかる見沼大橋を渡る。約1㌔半くらいか。

 見沼田んぼを高みから眺める感触が、心地よい。芝川の流れにカモが浮かんでいる。双眼鏡をもってきていなかったから細かい種はわからない。陽気のせいか、見沼田んぼの植栽の養生畑で働く人の姿が、軽やかに見える。大橋の下のコンクリートのバスケット練習場でゲームに興じる若者の飛び跳ねる足音と声とが、閉塞感を超えている。

 橋の向こうで、見沼田んぼ東側の高台地に踏み込む。この辺りは、広い植物の植栽養生畑。舗装路を離れて、植栽畑の中を通る広い車の轍道に入る。養生している灌木の間を抜けてくねくねとおくへつづく。どこかへ抜けるとみえていたのに行き止まりでぐるりと回っていたりする。と思うと、下の方に見沼田んぼの東縁とそれに沿った舗装道がみえるが、そこへ下りるには草木の繁茂する斜面を20メートルくらい下らなければならない。とみると、車は通れないが人が歩いた踏み跡が養生灌木のさらに奥へと連なっている。もしここで誰かに出逢えば、「あんた、何しとるの」と誰何されるに違いない。「いやはや、間違えましてね」と頭を掻くかなどと、考えるともなく思いながら、突き抜けてみる。この辺りはほとんど山歩きのルートファインディングの心もちだ。うまくいった。住宅に突き当たり、その隅のほんの1メートルほどの箇所に踏み跡があり、その向こうに細い舗装路があった。

 こうしてはじめての知らない道を歩き、約2時間の散策をした。知らないところを歩いているときは、ほぼ放浪しているような気分だ。そのときに、ワクワクしている心裡を感じていたのだと、こうして今、振りかえってみると思う。それが堪らない。

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 日曜日(1/17)、お弁当を以ってカミサンと一緒に秋ヶ瀬公園に出向く。3月、4月に何度も足を運んだところ。今日は、鳥を観る。カミサンが私の師匠だ。

 日曜日とあって、9時前というのに、何十面もあるテニスコートはゲームに興じる人でいっぱい。駐車場もすでに半分以上が埋まっている。球を追う姿とパコーンパコーンというラリーの音を聞きながら、77歳の長兄は毎週2回ほどテニスに興じていたんだったなあと、7年前のことを思う。

 賑やかなところに鳥はいない。すぐに森に入る。鳥影は少ない。犬の競技会でもあるのであろうか、公園の敷地の一角を広く布ネットで囲み、周りをずらりと何張ものテントが取り巻いて設えられ、放送するような司会者の声が響いている。土手の上からみると、フリスビーが飛び、それに飛びつく犬の姿がちらほらと見える。

 森に入る。春に筍をとったところだが、すっかり草は枯れ、陽ざしが明るい。ツグミやヒヨドリ、ムクドリが飛び交う。ムクドリのなかにコムクドリのような、頭の白っぽいのが混じっているが、それをいうと、いまこの時期にコムクドリはいないと師匠がいう。シロハラが何度も目に付く。カラスがたくさん屯している。

 通路のネットの向こうに広がる浦和レッズの練習場も、ジュニア選手の子どもたちをふくむ声が響いている。その反対側の芝地の公園には、少年野球のチームが、練習を始めている。動き回る少年たちは皆マスクをしているが、コーチをしていたり、手助けをする大人たちは、2/3がマスクなしだ。反対だねと思う。

 そこを抜けて、ピクニックの森に入る。やはり鳥影は薄い。向こうに何人か三脚を据えたウォッチャーがいる。おおっ、何かが飛び交う。双眼鏡を向ける。密生する背の高い木々の枯れ枝を移る鳥影がある。アカゲラだ。赤い腹が際立つ。おや、2羽もいる。ペアリングしてるんだと師匠が言う。コゲラも2羽が争うような飛び方をしている。池の水が、ない。わずかに残る箇所に、コガモやカルガモが浮かんでいる。師匠がタシギがいる、と指さす。向こう岸のほとりを左へゆっくりと歩いている姿が双眼鏡に入る。でも肉眼に戻すと、岸の小石や泥に溶け込んで見分けられない。と、カメラを持った人がやってくる。師匠が「タシギがいますよ」というと、「あっ、今日はまだ見ていません。昨日はいましたね」と応えている。水のある場所が狭くなって、こうしてウォッチできるんだと師匠は教えてくれる。なるほど。アカゲラとタシギで、今日は十分と師匠が言う。フクロウのいる場所を探っているみたいであった。

 秋ヶ瀬公園は全体に森が広がり、その中の各所に広場のような公園があり、サッカー場や野球場やラグビー場があり、各所にトイレを設置してあり、バーベキュウ場もあり、荒川沿いに南北3㌔ほどつづく。ピクニックの森は一番北側。今度は南の方へ向かう。中央に位置するのが子どもの森。森の中を辿ると、人の屯する広場の公園を避けて歩くことができる。餌付けをしている処があると、師匠が案内する。と、3人ほどのカメラマンが屯している。その脇に横たわる倒木の中ほどを深く彫って水をためたところに、小鳥がいる。腹が黄色く、羽根が緑っぽい。ルリビタキの雌だろうか、メジロだろうかとみているうちに後ろにあるブッシュに入り込んだ。師匠が何かいる? と訊ねるのでそう応えるが、そのときには姿を消してしまった。3人のカメラマンは、住所や名前をお喋りをしていてウォッチしていない。私と師匠を見かけると、「30分に一回くらいルリビの雌がきますよ」と言って、また、お喋りに戻ってしまう。私たちは先へ抜ける。と、その先で、2羽の鳥が目に入る。アトリだ。5mほど先の枝に止まっている。私はカメラを出し、ズームしてみる。シャッターを押す。ふだんはそういうことをしても、手前の小枝に焦点が合って、鳥自体はぼやけてしまう。うまい具合に割とピントが合った。わりとというのは、目に合ってはいないからだ。自動焦点のばかちょんカメラではしょうがない。

 田島ヶ原の手前のサッカー場や野球場、ラグビー場では、大人チームと少年チームが別々に練習している。そろそろお昼に近く、大人チームな切り上げている様子だ。田島ヶ原のサクラソウ自生地は、先週の草焼きがおわって、すっかり黒っぽく焼けたところと焼き遺して刈り払われた部分が何もない。なにかいると言われていたので、目を凝らす。焼き払われた黒い所に小鳥がうろちょろしている。「あれ、何かわかる?」と師匠。タヒバリ、と私が正解する。何羽もいる。ムクドリもいる。ツグミもいる。まるまるとした猫が入り込んで、何かを探している。師匠に言わせると、ここのネズミは希少種なのだそうだ。上空をタカが飛ぶ。ハイタカだと師匠が言う。鉄塔に止まった。でも、ぼろくずが鉄塔にぶら下がっているようにしか見えないのが、おかしい。

 田島ヶ原でお昼をとる。こちらは人が少ないが、家族連れがサッカーボールやバレーバールで遊んでいる。犬を連れてフリスビーで遊んでいる女性もいる。

 帰りに子どもの森の「餌付け」地には、女の人が座っていた。40分の間にルリビタキとアカハラとメジロが水を飲みに来たと話をする。でも、待つ気になれない。シジュカラ、エナガ、メジロの混群が目の前の木々を飛び交う。ふたたび人の少ない森の中を抜けて駐車場に戻り、今日の散策を終わりにした。行動時間は4時間半。歩いた時間は3時間15分。16600歩の散策放浪であった。

2021年1月17日日曜日

暴力の発動と抑制と非暴力主義

 アメリカの大統領選の最終局面で、トランプ支持勢力が議会に乱入したのは、予想外であった。2020-11-28のこのブログで「撤退戦を戦うトランプ」を記したとき、どうこう言っていても最終的には投票結果に従うほかあるまいとみていたのだが、トランプはもう一つ先の「抵抗」を考えていたとわかった。つまり議会で当方結果を承認するときの議長をペンス副大統領が務めるのを最後の切り札にしていたのだ。議会に侵入したトランプ支持者たちが「ペンスを吊るせ」と叫んでいるのを聞いて、こりゃあ撤退戦ではないわ、と思った。

 と同時に、ひとつ氷解したことがあった。作家・埴谷雄高のいう「奴は敵だ、敵を殺せ。それが政治の要諦である」(『幻視の中の政治』)というのをトランプは忠実に追っていたんだ、と。今回に限らず、トランプはつねに「敵」をつくり、それに対する仮借ない攻撃を通じて支持者を獲得し、支持勢力を広げてきた。それに加えて、交渉はすべて「取り引き」であった。相手の手を読み、脅したり宥めたり賺したりして、落としどころを探る。最初、高めに吹っ掛けて、適当なところで負けてやることも算段の一つに入っている。そういうやり方が、国際関係の交渉術であるとともに、譲れないことについては周辺の異見を排除して強行する。まさに埴谷雄高の指摘した政治の要諦を踏まえていたのだ。

 撤退戦でなかったら、なんだったのか。最後の最後で「暴力は非難する」とチャッターに書きこんだらしい。それがどのような思惑で書かれたものかわからないが、辛うじてそこに、アメリカ民主主義の歯止めが利いたと言えようか。もしこのあとバイデンが無事就任したとしても、彼が引退するまでトランプ支持勢力の反撃が持続するとなると、「奴は敵だ、敵を殺せ」とする振る舞いが、今後の政治局面のすべてで続くと考えられる。その恐れを排除しようとしたら、共和党が自らトランプ排除を選択するしか、道は残されていない。

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「奴は敵だ、敵を殺せ」という政治の要諦は、暴力の発動を組みこんだ言説である。そういう意味で埴谷雄高は人間社会の本質に属する暴力性を視界に入れて、世界を見ていたのだ。

 ところが私たち戦後民主主義は、民衆は武装解除し暴力を国家に独占させることによって実現すると信じてやってきた。新憲法の「平和主義」もまた、その暴力排除を国際関係に持ち込んで推進することと考えてきた。そういう意味では、非暴力主義なのである。第二次世界大戦を経た人類史的教訓が「新憲法」に体現されていたのである。ただ一つの瑕疵を除いて。それは、わがコトとして自ら決断したことではなかったことである。「押し付けられた」かたちで、しかし、最善の道を歩むことになったのであった。

 アメリカは違う。理屈ではジョン・ロックの「抵抗権」などというが、国家が人民の意思に反する道をすすむとき、人民は暴力を以って抵抗する権利を持つとする思想が、根づいている。それがトランプ・サイドから発動されているのが、先週から今週にかけてのアメリカで起こっている出来事だ。私たちは、アメリカの動きをみるとき、じつは、私たち自身の非暴力主義的な(現在の)体質を見つめている。何処に歯止めがあるのか。それが、トランプを支持しない人民の力によるのか、アメリカ民主主義のシステムにあるのか、その双方の絡まり合った社会的な力がどう作用するのかを、注目してみていたいと、私は思う。トランプ支持者に反対する人々が、どのようにアメリカの民主主義を打ち建てていこうとするのか。それがどのように、トランプ支持者をも含みこんで進展していくのか。そこに、アメリカ民主主義の真価が問われている。トランプのツイートを永久に停止するというツイッター社の判断を、ヨーロッパの独仏は批判しているという。だが、そこにこそアメリカ民主主義の選び取る道筋が浮かび上がっているように見える。

 当然、ファシズムは民主主義の生み出す一つの帰結であることも、承知しておかねばならない。あるいはまた、トランプ支持者ほども、私たち(日本人)は「現実政治」に対して、わがコトとして向き合っていないことも、胆に銘じなければならない。ただ単に、日本の非暴力主義を非難すれば済む話ではない。

 むしろ私の感懐では、非暴力主義に徹してわが国が滅びようともそれを貫く方が、身にあった道ではないかとさえ思う。非暴力主義とは、力のないものが究極の形で「選び取る」方策なのだ。「滅ぶ」というとき、何が滅ぶのか。「守る」というとき、何を護っているのか。

 アメリカがどのような道を進むかが、言うまでもなく今の日本の先行きに大きく影響する。とは言え、状況にただ流されるだけでは、「選び取る」ことにならない。力のないものが、自らの生きる道筋を「決める」には、何をすることがわがコトとしていま重要なのか、それを考えるきっかけを得ているように思う。

2021年1月16日土曜日

1月の「36会Seminar」開催中止に関するお知らせ

皆々さま

 寒中お見舞い申し上げます。併せて、新型コロナウィルス禍中、お見舞い申し上げます。

 Seminarを予定していた1月23日(土)が間近に迫っていますが、開催のお知らせをする言葉が出て来ません。

 開催のお知らせもしないで「中止」というのも、何だかなあと思いますね。それもこれも皆、コロナ禍のせいにしてお赦し下さい。

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 コロナウィルスが勢いを増していることは、日々の報道で、ひしひしと感じられます。たしかに「緊急事態」だと思います。

 では政府の「緊急事態宣言」がコロナウィルスのどこをどう抑えようと意図しているのかとなると、ピンときません。

 5人以上「会食」の人数が問題なのではなく、ウィルス感染の防備を整えているかどうかがモンダイなのだとか、人と会うのが役目なのだからとか、会食をした政治家たちは居直っています。

 8時以降の外出は「誤解」だそうです。昼夜を問わず外出するなという意図だそうですが、政府はそうは口にしません。なぜかメディアが言葉を補足しているのです。いかにも日本語の特性文化なのでしょうか、直に言わせるな、推察せよということのようです。

 若者中心に感染が広がっていることを政府は力説していません。コロナウィルスに感染した若者の「無症状」も面倒な「後遺症」をもたらすとメディアが広報をはじめていますが、政府はそうは言いません。対応策が後手であると思われないかと気を遣っているようにみえます。つまらないこだわりです。

 都知事が(感染拡大を抑えるには)「人の往来を止めることです」というのが唯一、そうだよなあと響きます。でも、日々の暮らしそのものの「密」度が高い首都圏では、ほんとうに街を封鎖するロックダウンでもして、外出を抑えてしまうのでなければ、「止める」ことなどできません。法改正をして施策に強制力を持たせようと政府与党は立案作業をしていますが、知事の強制権限に実効性をもたせるための「罰則」には言及するものの、強制を効果あらしめるための「財政保障」には触れていません。国家の強制力とは無理やり従わせることにほかなりません。それによって進路を誤った75年前の国家のトラウマを未だ引きずっているのだと傷ましく思います。知事の強制権限にしてから、「勧告」と名づけて「強制」とは表現できないのです。

 いずれにせよ私たち年寄りは、現状況に適応して自己防衛するしかありません。世の中の移ろいに、過ぎ越し日に積み重ねたわが身の無意識を見いだしつつ、せいぜいご近所の散歩程度を欠かさず、御身大切に、元気にお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。

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 次回のSeminar予定は、3月27日(土)です。会場や時刻は、開催見通しが立ちましたら、お知らせします。

 はてさて、そのころまでに新型コロナウィルスの拡大は収まっているでしょうか。お楽しみに。

    2021年1月16日 36会Seminar事務局

2021年1月15日金曜日

春の気配がはじまる

 心配されていた雨がそれほどでもなかったおかげで、恒例の「田島ヶ原サクラソウ自生地の草焼き」が行われた。

 開始9時の少し前に自生地に着く。入口では、一般車が入らないように係員が駐車場へ誘導している。草焼の現場ではすでに、作業服の人たちや腕に腕章を巻いた人たちが集まっている。私は、人の動きが一望できる旧秋ヶ瀬橋の高台に陣取る。見学者もちらほらと集まってきている。

 何年か前にみたときと違うのは、草焼きを行う何カ所かに分けた場所ごとに柵の周辺の枯草を刈り込み、また、背の高い萱などの高い部分をきれいに刈り払っている。以前は風下から火をつけた。今回も一つのブロックの風下から火をつけるが、点け火の松明をもった人が2メートルおきくらいに枯草に火をつけて風上の方へと移動している。風上の火は煙とともに火柱を噴き上げ、たちまち風下へと燃え広がる。カメラを持った人も、見学の人たちも、火をつける人の近くにたむろし、その群れがゆっくりと移動してゆく。なかには、火から遠い自生地の通路を見晴らす所にいて、何か動物や虫が飛び出してくるのではないかと見張っている。あとで聞いたが、以前はタヌキやキジなどが飛び出してきたのだそうだ。

 こうしてひとブロックを焼いたのちに次のブロックへと移り、全部で8カ所ほどのブロックを午前中いっぱいかけて焼き尽くす。田島ヶ原の一番奥には定住しているホームレスがいるのだが、市の係員が声をかける。だが聞こえぬふりをしてか動こうとしない。そこへ消防署員がやってきて、「危ないですよ。移動してください」と声を大きくすると、そそくさと身を移す。人を見ているのだ。

 ひとブロックを焼いたのを見て私は、秋ヶ瀬公園の北の方へ歩いてみた。人の気配は少ない。小鳥がたむろしている。シジュウカラやヤマガラ、メジロもいる。カメラマンが何かを見ている。その方向へ双眼鏡を向ける。うまい具合に、ルリビタキの雌が入る。背を向けて、きょろきょろとしている。

 ゴルフ場の整備をしている人やプレーをする人が、ネットの向こう側で動いている。水曜日なのにお客がいるのだ。ヒヨドリがけたたましい声を出す。ツグミが行き交う。コムクドリではないかと思われるのが、木立に羽を休め、すぐに向こうへ飛んでいった。別の鳥が飛んできて、5メートルほど向こうの枝にとまる。マミチャジナイではないか。秋に奥日光で、群れをみた。今日は一羽だけだ。ほほう、来ているんだと思う。

 ピクニックの森の池の水が涸れそうだ。そういえばここしばらく、雨が降っていない。関東平野の冬は乾季だ。連日のように晴れの日が続く。火曜日には雨または雪になると言っていたのに、ちょっと小雨があっただけ。降水量はゼロ。恵みにさえならない。

 車を停めて置いたところへ戻る。一番西にある自生地の辺りから煙が出ている。そろそろ終わるころか。12時になる。桜区の職員や県教育委員会の職員などが張り付き、ボランティアの助力を得て、恒例の草焼きが行われ、今年の草花が目を出す季節を迎える。文字通り、田島ヶ原のサクラソウ自生地に、これから春がやってくる。

2021年1月14日木曜日

文化と文明の逆立

 緊急事態宣言が出され、夜8時以降ばかりでなく、昼夜を問わず「外出自粛を」とメディアはかしましい。ただでさえ引きこもりがちの年寄りは、ますます家に籠って運動不足になる。

 東洋経済onlineの2021-1-12号が《コロナ禍「歩行数が減った人」を襲う老化リスク》という記事を伝えている。ライターは福光恵。足の病気に特化した病院、下北沢病院の理事長で、足病先端医療センター長を務める、久道勝也医師に取材して、歩かなくなっている現状を指摘している。

 コロナ禍のせいばかりではない。移動交通手段が便利になった。ことに人口の社会増がつづいているさいたま市ではバスの運行網が細かく張り巡らされ、すぐ近くにバス停が整備されたりする。鉄道の駅までわずか1000メートルほどなのに、バス停が3つも4つもある。朝の通勤時にはそのバス停に行列ができる。そうなるとますます歩くのが億劫になる。歩かなくなるというのは、コロナ禍を考えなくてもわかる気がする。歩くかどうかは、気持ち一つの違いなのだ。

 東洋経済onlineの記事は「老化リスク」とあったから年寄りに対する警告と思って読んでみたら、そうではなかった。「中年」に対する警告であった。1432歩も歩行数が減ったと記している。元の歩数がいくらだったか記載していないから1400余歩がどの程度の減少なのかわからないが、約1キロ歩くくらいの減少ということだ。コロナ禍でバスに乗るようになった? 違うだろう。テレワークとかリモートワークとか言って、通勤さえしなくなったことを指しているのであろう。だが逆に、子どもを連れて散歩に出たり、買い物に足を運んだりすることを考えると、一概にコロナのせいにするわけにもいくまいと思う。

 現役で仕事をしているときは、できるだけ歩く。十数キロの通勤には自転車を使う。エスカレータやエレベータをつかわず、階段を歩くように心がける。健康のためというのではなく、山歩きをしていたから、脚力を持続し、鍛えるためであった。仕事をリタイアしてからは、自転車もできるだけ使わない。4㌔程度の往復なら基本的に歩く。12㌔ほどになるとやっと自転車を使う。それでも、散歩をする習慣がなかったから、週1回の山歩きで良しとしてきたのだが、傘寿を前にしてからは、なぜかそれだけでは身体がなまって「運動不足感」に身がうずうずする。それで年初から始めたのが毎日歩くこと。

 上記東洋経済onlineの記事は、「ジムで汗を流すのはサプリと同じ」として、歩くのとは違うと書いている。それで思い出すのは、あるお年寄りが参加した山歩きのこと。カルチャーセンターの催しで大菩薩峠へ案内したとき、一人のお年寄りが「毎日4時間歩いている」と意気揚々と参加した。ところが歩き始めて1時間ほど、大菩薩峠の山頂にまだ一息以上というところで、へばってしまった。結局サブリーダーがついて彼だけ別ルートで下山してもらった。毎日4時間歩いていても、平地と凸凹の多い山とでは身体のつかう部分が全く違う。持続力も疲れ方も思いのほかになってしまうのであった。「サプリと同じ」というのは、そういうことであろう。とすると、毎日散歩していても、関東地方の平坦な土地では、山歩きの筋力を持続することにはつながらない。せいぜい、四国八十八カ所巡りをするときの、歩行能力というところか。それでも、四国のお遍路さんは全行程1200㌔あるから、毎日2時間程度の散歩では、とうてい全部歩き通す力には及ばない。

 文明の力を享受することがヒトとしての身体能力を衰退させるのだとすると、果たして「文明」の進展と手放しで喜んでいいのかどうか考えものだ。でも、都会の人は車に乗らないで歩くのねという(田舎で歩いているときにいわれた)ことを「文化」と考えると、文明と文化が逆立する局面に差し掛かっているのかもしれない。

 それを敷衍していうと、以下のように言うことができる。

 資本家社会というのが差異性において利益を生み出すシステムだと考えると、その交換システムの最終局面の貨幣によって、皮肉なことにその差異性を帳消しにするような共通価値観による平準化が行われている。つまり、差異性が多様性として保持されている商品存在の固有性が、交換価値によって価値基準が平準化され、差異性を消してしまっている。それはちょうど、労働力を「商品化」することによって労働力の差異性を平準化してみてしまうように、商品生産も、その交換舞台に置ける需要の多様性をも、一つの価値に変えて陳列してしまうという「幻覚」に覆われてしまう。あたかもその交換が市場という目の前で展開することによって「現実」のことのように屹立して、人々の胸中に確固たるリアリティをもたらすように。まさしく貨幣の物神崇拝性である。それが社会全体を覆うとき、「資本家社会」は完成する。それに従って己の在り様をかたちづくってきたヒトは、いま、実存の瀬戸際に立たされている。そこに発生しているのが、「文明」と「文化」の逆立という事象だといえないだろうか。

 AIの発展によっていずれ引き返し不能のポイント、シンギュラリティがやってくるというが、それ以前にはや、ヒトの変貌という引き返し不能ポイントがやってきているように思う。

2021年1月13日水曜日

雨がすがすがしい一日

 昨日(1/13)は、天気が崩れ雪になるかもという予報。久々のお湿りと楽しみにしていた。

 山は雪という。14日水曜日の山は、天気予報は晴だが中止にした。積雪量が多くても困るほどのことはあるまい。歩くのに心配はないが、次に狙っている山も地理院地図にはルートがない。標高が記載されてはいるが、山名もない。でもどうせGPS頼りであるくにしても、わざわざ踏み跡がわからなくなる雪の日にすることもあるまいと、日和ったわけ。にもかかわらず、こちらの棲む平地も、午前中雨にならない。三谷幸喜の映画『記憶にございません』を観る。三谷らしいシャレの利いた作品。午前中がそれでつぶれた。

 お昼を済ませ、散歩に出ようとしたところ、図書館に返してなかった本があることに気づいた。昨日は、連休明けだから図書館は休み。ならば立ち寄って「返却ボックス」に返してからどこかへ向かおうと、散歩に出る。外へ出てみたら、ぽつりぽつりと雨が落ちている。傘をさすとぽとぽとと音が大きい。アラレだ。なるほど気温は、3~4℃の感じ。ひさびさのお湿り。いいじゃないか。住宅街の人影が極端に少ない。車の通りもほとんどない。歩くのが心地よい。

 一昨日は川口のグリーンセンターまで歩いてみた。むかし、浦和の白幡に住んでいたころの日曜日には、よく車で子どもを連れて行った。そこが、今のわが家から4㌔ほどの所にあることは知っていたが、行ったことはない。いつも手前の見沼田んぼや芝川で用が足りてしまったから、行きつけなかった。地図を見て、4㌔の最短で目的地に行く。帰りに遠回りでも、森や畑のある散歩らしいところを辿ろうと考えていた。往きは、片側二車線の道路に沿い、外郭環状道路という高速道を横切る賑やかな通り。そういう散歩は、距離が短くても草臥れる。帰りは芝川沿いの道を歩いた。それに比して今日の、人気のない雨の住宅街は落ち着く。

 図書館は、しかし開館していた。祝祭日の後の代替休日は水曜日となっていた。そうか、中央図書館は月曜日、プラザイーストの図書館は水曜日か。こちらも、人が少なく静か。返却図書の棚にあった石田衣良の短編小説が目に留まり、椅子に座って読む。彼のセックスに対する向き合い方は、少年のように無垢で、それ自体にまっすぐに向かっている。読んでいて思うのだが、少年のころ、どうしてセックスを汚らわしいものと思っていたのだろう。そして今、この齢になってもまだ、女の裸などをみるとぎ~んと脳幹に響くのは、どうしてなのだろう。エロスが生きるエネルギーというのは実感としてよくわかる。今ごろそんなことを考えているのは、エロス性にきちんと向き合ってこなかったからだろうか。そんなことを考えていて、散歩中という時間を思い出して図書館を出た。

 吉祥寺を抜け、お墓の脇を通り、北へ向かう。大宮台地の花木の栽培農家や畑があったせいで、点々と屋敷林が残されている。車の賑やかな大通りを横切り、目に入る森を渡るように歩く。いずれ見沼用水路西縁に出くわすという見当でふらりふらりと森を眺めながら歩く。小学校の校庭にも公園にも、子どもの姿はない。成人の日だったと思い出す。振袖の若者も姿をみせない。彼らは、人気のない所へは用がないのだ。忘れられたサッカーボールがベンチに乗せられて、持ち主を待っている。

 見沼用水の西縁にぶつかる。脇の車道をたどり、氷川女体神社へ向かう。元旦にそこまで行ったが、初詣の人の列に並ぶのがイヤで、お参りもしないで帰ってきた。いや、今日だって、お参りをしようという殊勝な気持ちになったわけではない。どこまで行ったという記憶にとどめるための「参拝」ってわけだ。人の気配がない。社務所の方で「お札を・・・」と人の声がする。拝殿とその後ろの本殿とをつなぐ「三社づくり」という女体神社。拝殿の正面には「武蔵一之宮」と扁額が掛けられている。なんでも徳川家綱の命で建替えられたのがいまに残り、埼玉県の文化財に指定されているそうだ。築三百年ちかい。裏へまわって本殿を覗く。屋根の上の鰹木が4本、千木の尖端は水平に切られていて、伊勢神宮の内宮と同じ様式だとわかる。

 かかし公園に降りる。やはり人影はない。雨は気配をみせず降り続く。傘をさすほどでないというのか、用水路沿いを歩いてくる人がいる。西縁の水面には雨の落ちる跡がぽつぽつとかたちをみせて消える。帰り道の4㌔ほどの用水路沿いで、出会った人は4人。いつしか雨は上がっていた。

 駅そばの交差点の角にできた小さなパン屋さん。店員が呼び込みをしている。看板は食パン。立ち寄って一斤を手に入れる。6枚にカットしてくれというと、申し訳なさそうに「すみません、できないんです」という。変な感じがした。

 図書館を入れて3時間の散歩。雨がすがすがしいと感じた一日であった。

2021年1月12日火曜日

細密画のような文体

 子どものころからファーブル昆虫記やシートン動物記や植物図鑑の細密な図柄には、覚えずずいぶんお世話になった。見たこともない虫や動物や植物を目の当たりにしたような気分を味わっていた。同じように、少年雑誌に載っていた戦艦大和や武蔵の、小松崎茂の挿絵なども、同じような体感を以って世界を感じとっていたと、今になって思う。そこまで細密にモノゴトを観察して描き出す、人の持つ眼力の鋭い際立ちに畏敬の念を憶えたことも覚えている。

 植物の細密画がボタニカルアートと呼ばれることは後に知ったが、動物や昆虫や微生物のそれらはどう呼ぶのだろうと、博物学の細密画をみながら思ったこともあった。アートというより手書きの写真とでもいおうか。写真よりも、描く人の情感が込められて、何かを訴えてくる。近頃はワイルドライフファインアートと呼ばれていることを、ネット検索で知った。極めつけのそれは、伊藤若冲になろうか。アートにあふれる。

 その細密画をみているような感覚の文体に驚いた作品がある。柳美里『飼う人』(文藝春秋、2017年)。4年に亘って創作した連作短編。イボタガ、ウーパールーパー、イエアメガエル、ツマグロヒョウモンを飼う、妻や夫、若者、母と子の話。妻が夫を飼うような面持ちと重なり、胸を打つ。

 柳美里の作品は、登場したころの小説を読んだ覚えがある。どんなものだったかすっかり忘れてしまったが、自傷行為をくり返す若い女性の内面を描こうとした作品だったか。ギクシャクとしてとげが刺さるような読後感をもたらし、お世辞にも読みやすい感触はなかった印象がある。

 だが四半世紀を経て目にしたこの作品は、ものの見事に洗練された作家・柳美里の文体を示していた。まったく素人読者の私がこのようにいうことは、口幅ったいが、文章がうまくなった。何処がそうなのだろう。冒頭に記した細密画のような文体である。登場人物の心象は描き出されていない。言葉になるのは、関わっているヒトやモノや動植物との、まさに精細な線や点を子細に描きとる「かんけい」の情景である。それがどのような情感を込めているかは、読む者にまかされている。まさしく細密画をどう受け止めるかが観ているものの受け取り方に任されているように、読者に投げ出される。

 読後感は、読む者の自己像を描くように行間にふつふつと浮かび上がる。「飼う」というのは、妻が夫に料理を提供することが、まさしく給仕するごとく、冷めてはまずいだろうからとレストランのサービスを受けるがごとくつぎつぎと食卓に並べられてくる。全力投球の献立は「飼われている」夫の思いを忖度してはいない。逆に夫は、自らが稼いできたお金で妻を飼っていると思っているかもしれないが、そのことは、行間に漂うだけで明示されているわけではない。

 妻と夫の関係の「飼う/飼わない」であれば、出口のない齟齬と疎通の関係で息詰まるところだが、独り者の若者や大震災や原発事故の汚染地区に住むことになった母と子が登場することで出口が開かれている。それは、より巨大な、何者かによって「飼う/飼われる」関係に置かれていくことが暗示される。それもしかし、読む者の行間にみてとる自画像だと気付くことによって、「飼う人」というタイトルが普遍性を獲得し、自らを写してあまりある感触を残す。

 柳美里の、昔読んだ小説の読後感のひりひりと重なって迫っては来るが、自らの自己像という感触があるから、棘が刺さるというよりは自らの内側の思わぬささくれに驚いている。

2021年1月11日月曜日

新しい土地

 午前中歩きに出て、その帰りにカミサンに頼まれたいた買い物をして帰るといいと思って家を出た。だが、歩いている途中で洗濯物を干すのを忘れていることに気づいて引き返す。再び歩きに出る意欲が挫かれてしまった。お昼を済ませてから出かけることにした。

 午後、行ったことのないルートへ踏み出す。今日は、見沼田んぼを渡った先にある、武蔵野線の隣の駅まで行ってみよう。見沼の通船堀を抜けて川口市の東北部へ踏み込む。高台の住宅地は花木の養生をしていたあとが残る。一軒一軒が大きく、門構えが残っていたりする。だが台地を下っていくと密集した戸建て住宅地になる。こちらの古さをみると、東浦和地区よりも東川口の方が、駅から離れていても、古い時期から住宅地として開発されたのだと思う。

 武蔵野線の線路からそう外れないように進路をとる。すると、いつも歩いている見沼田んぼの西縁沿いのルートが、ほんの何十メートルか向こうにあることがわかる。とうとう線路に沿う。と、一度見沼田んぼに出るようになった。すぐに線路に沿って、ふたたび住宅地に入る。道が上ったり下ったり凸凹になっているのは、南へ来るほどササラ状になる大宮台地の特徴を、まだ、残しているからだ。

 武蔵野線の南浦和から東浦和までの距離がありすぎるというので、中間点に駅を作ろうという動きが、何十年か前にあったと聞いた。両駅間の距離は3㌔ちょっと。だが、東浦和と東川口のあいだは、、もっと距離がある。見沼田んぼ部分の1㌔が余計にくっついて4㌔になっている感じだ。

 ここは、はじめて歩く。ずうっと線路沿いに歩けるわけではない。なにしろ、東北高速道が武蔵野線と直角に交わり、その側道のように川口から岩槻へ抜ける交通量の多い一般道が走る。歩くときそれを横切るところがあるか、探すようになる。線路からそう離れずに、それらの道の地下をくぐる車道があった。入口の所に「水没危険地区」と表示され、雨が多い時には侵入する前に気を付けてとかいてある。結構車の通りは多い。歩いていて後からはねられないように気をつけなければならなかった。

 地下道から上に上がると、一挙に開発中の地区の気配が濃くなる。駅が近くなったのだ。この東川口駅を南北に通る埼玉高速線は、ほんの20年前に開業したもの。この駅の北側には、浦和レッズの本拠地・埼玉スタジアムがあり、埼玉高速鉄道の終点・浦和美園駅がある。周辺は田圃や.畑ばかりであった。地価が高騰し、広い道路がつくられ、田や畑の持ち主が亡くなって相続に伴って売り払われ、大型の店舗が進出し、街づくりが目下進行中である。東川口駅は2線の交差することもあって、やはり開発が行われてきた。駅周りは、おっと驚くほどモダンな設えになり、新興住宅街が緩やかに広がってきた。古い川口の住宅街と新興地との端境が、今日歩いているルート上に出現しているのだ。

 1時間半のつもりで家を出たが、東川口駅までにそれだけの時間がかかっている。ちょうど3時とあって、人影は混雑とは程遠い。さて、帰りは最短距離をとってみよう。距離と歩数を確認して、やはり線路沿いに戻る。見沼田んぼに出たところで、最短のルートをとる。調節地の脇を抜ける。どういうわけか、水面に鳥影が見えない。遠くに一羽ダイサギがいるだけ。先日いたコハクチョウ2羽もみえない。それどころか、オオバンやコガモ、カイツブリも全く姿を消している。何かあったのだろうか。

 おおよそ50分で家に着いた。距離は4㌔、歩数は8000歩余。全部で12㌔、18000歩ほどであった。今日の散歩も、新しい土地を見た思いであった。

2021年1月10日日曜日

今日の私の散歩道

  毎日歩くように心がけている。週に一回山へ行くだけでは、体調維持がムツカシイ。筋肉や骨の衰えっていうよりも、細かい刺激がないと身体が眠ってしまうような、そのせいで微妙に衰微していく気配を感じる。そう感じはじめると、ほんとうにそうなっているような気になるから不思議だ。正月から毎日、1万歩以上歩くようにしている。

 いつも見沼田んぼでは、面白くない。昨日(1/9)は、ふだん足を向けたことのない住宅地へ向かった。

 わが家のある周辺地域は、30年ほど前まではまだ、生産緑地というのか、畑がたくさん残っていた。そもそもわが家もその一つだったせいで、引っ越してきて何年かは、向こうの高台にみえる森の中からカッコーの声が聞こえていた。わが庭にも、アカハラやシロハラやジョウビタキが姿を見せ、それだけでもいいところにきたなあと嬉しくなったものだった。

 ところが、虫食いのように住宅が立ち並ぶ。わが家の西側にも五階建ての大きなマンションが立ちふさがって、森が見えなくなった。それとともに、夏の訪れを知らせるカッコーの声も消えてしまった。ジョウビタキやアカハラが、次いでシロハラが来なくなった。

 来たばかりのころからご近所を歩いたり、通勤の自転車で東から西へ浦和の中心街を抜けるように通っていたが、生産緑地が徐々になくなる。それにつれて、浦和駅から東へ延びる道路の拡幅工事が進む。高台から見えていた富士山の方角に何十階建てのビルが建って「富士見台」という地名が、名ばかりになった。

 ある時気づいたのだが、土地の所有者が亡くなって遺産相続をするごとに建物がセットバックされて道路が広くなり、あるいは土地を売り払って建売の住宅地に姿を換えているのだ。土地の所有と相続の、都市計画と法の無計画ぶりを表すように細切れにして建てつける。浦和駅から東へ向かうにつれて細切れはひどくなり、4メートルという最小限のくねくねと曲がる道路を取り囲んで同じような戸建ての建売が並ぶ住宅地。

 ところどころに現れる県営団地。幼稚園、保育所、小学校や中学校、公民館とかスーパーやコンビニエンスストアと公園と水のない遊水地。そして、未だ残る畑、あるいは何にするのか決められないまんまの耕作放棄地や土盛りして雨ざらしにならないようにビニールで覆って杭を打った土地。更地のまま駐車場にしているのか、空地。その後に拓かれた「第二産業道路」という名の幹線道路沿いには、今まさに開発途上という風情の、広い森がすべて切り払われ、土を盛り上げて商業地として売り出そうという意欲を露わにする広大な土地が雑草を生やしたまま広がっている。

 変貌するそれらが、築後何十年か経った古びてゆく佇まいとともに、駅から4㌔ほどのわが家の方へ連なる。その住宅街を、うろつくように歩く。寒いから陽ざしを受けるように道を選び、でも狭い道では日陰になるから陽ざしのある方角へ曲がりくねる。行き止まりもあり、くるりとひと回りして元の場所に戻る道も、随所にある。妙なことに、天気の良い土曜日だというのに、人の気配が極めて少ない。もう子どもたちも巣立ってしまって、年寄りしか暮らしていないのだろうか。わが団地と同じで、古びていく住宅と同じペースで住民も古びていっているのかもしれない。

 そういえば、通りすがりの公園には、小さな子どもを連れた父母の姿があったなあ。でもこの人たちは、また新しい相続問題を抱えることになった元生産緑地の新しい集合住宅や戸建ての地区に住んでいるのではないか。そんな気がする。

 その端境の地区を経めぐって歩く。当然見知らぬところに身を置くことになるが、何㌔も歩かないうちに、ランドマークと呼ぶにはちょっと小さいがスーパーや衣服のチェーン店の看板が見えるから、山を歩くよりは地図無しでも困惑しない。そのうち、いつも自転車で通っていた覚えのある道路に出る。さいたま市はいまも、人口の社会増がすすんでいる。京浜東北線沿線の繁華街から西の荒川左岸の秋ヶ瀬公園、東の芝川沿い見沼田んぼへと向かって住宅街が広がっている。その乱雑な「開発」の境目が、今日の私の散歩道であった。

2021年1月9日土曜日

体幹を鍛える

 週に一回、近くの公民館で「男のストレッチ」をやっている。もう十何年もつづいている「自主講座」。ご近所の男たちが集まってはじめた。現在の最高齢者は84歳、一番若い人は68歳。平均すると75歳位ではなかろうか。かつては90歳になる方もいた。病でなくなる方もいたし、公民館に足を運ぶことが出来なくなって顔を出さなくなった方もいる。そうして年々、世代交代しているのだが、いつまでたっても、おおよその平均年齢は変わらず高いままだ。

 最初の講師が急逝し、新しい講師が見つかるまでは、文字通り自分たちで1時間半の「体操の時間」を過ごした。その後、現在の講師陣が担当してくれるようになった。

 講師陣というのは、リンパ体操を主として広めているグループ。どこかの体育大学のOGたちであろうか。ヒトの身体生理に関しては実に詳しい。よく知っている。リズム体操からヨーガ、ダンスまで、おおよそ体を動かして身をほぐしていくヒトの動きを取り入れて、なかなか面白い。いや講師にもいろいろいて、いまの講師陣で定着するまでは、ちょっとこの方は交代してほしいという声まで出て代わってもらうようなギクシャクもあった。

 現在は、60代と50代の二人の方が月に二回ずつ、つまり週1回の教室をみてくれている。たいていは静かなクラシック曲や小学唱歌、演歌・歌謡曲やジャズ、ときにはロックのような激しい音楽をかけ、そのリズムに合わせて体を動かす。きつい動きが半分、あとの半分はリンパの流れやストレッチによる身体調整。体育館に十数名だから「密」ではない。

 昨日(1/8)は、今年の第一回。50代の担当講師が体調不良とかで、代わりの30代の講師が来た。これまでも何回か、代わったことのある顔見知りの講師。この方は、音楽をつかわない。全員椅子を出して座る。

「体の内側の筋肉を鍛えることをやってみましょう」といって、指や掌、手首から二の腕、リンパの要所である関節のほぐし、足首からふくらはぎ、膝、太ももの筋肉とやはりリンパの溜まる関節のほぐしからはじめる。その都度、何処の何をどう動かしているのか、それがその箇所の筋にどう作用しているかを話しながら、ひとつひとつすすめていく。足指への力の掛け方とそれが身体全体の重心をどこにおいて安定させているかを意識させるように、言葉を添える。

「体の激しい動きは表層の筋肉を鍛えるのに作用するけれども、奥深くの筋肉を動かすには、こうしたゆっくりと静かだけれども丁寧な動きが有効です」と言い、「けっこうこれが、あとで体には響くんですよ」と、並みいる年寄りたちを前に笑う。

 ふだんは講師の動きに併せて身を動かすので慌ただしく過ぎていく時間が、意識をともなっているがゆえに刺激的になる感触。視線が身の裡深くに届くような心持。つまり視線が体幹に届く、面白い感触を残した。片足立ちの浮いた方の脚をどの角度で前後に、左右に揺さぶることでバランス感覚が試され、かつ、鍛えられ、そのときからだがふらふらと動くことが、じつはバランスをとっている姿だと意識させる。つまり、わが身の変容していく途上を受け容れて認知し、その先の地点へ向けて移行していこうとするエネルギーに変える。そういう、無意識と意識の端境を取り出してわが身で試しているような体験であった。

 山を歩いているときのわが身の状態をつかむのと同じように、ふだんのくらしの中でのわが身との対話が、体幹という中心軸においてやりとりすることができる。そう感じて、身体が喜んでいるように思った。

2021年1月8日金曜日

空言疎語の「緊急事態宣言」

 二度目の「緊急事態宣言」が出された。言うまでもないが、私ら年寄りには「関係」がない。「午後八時以降の外出」「営業時間の短縮」「7割のリモートワーク」「イベントの人数制限」。どれをとっても、直にかかわらない。ということは、年寄りはすでに、不要不急ってことか。

 だが緊急事態だなと思う。だって、コロナに感染しても治療を受けられない。引き受け先がない。「とっくに医療崩壊している」とどこかの医師会の代表が話していたし、「治療待機中」の死者にコロナによるものとみられる「不審死」がいたことが報道された。それが、直に身に響いてくる。にもかかわらず、その医療現場の逼迫さが政府当局者の口から広報されない。必要以上に不安をあおらないようにと、弁明は用意されているが、実はこれ、政府が医療整備に関して無策であったことの「エビデンス」だからではないか。

 病床数とか人口当たりの医療従事者数は世界においても十指に入ると言われる日本の医療態勢といわれながら、コロナウィルスに対応する態勢になっていないことは、春ころから喧伝されてきた。にもかかわらず、どうして状況対応的に動けないのか。

 厚生労働省を中軸にした中央集権的な医療体制が、機能していない。ウィルス感染者の全国集計すらも手作業でやっていると指摘された「文書主義」、保健所を通してしかPCR検査を保険適用で実施できない法的不備、かかりつけ医制度を堅持するがために地域医療のコロナ対応ができる医療機関を制限する結果になってしまったことなどなど、どれをとっても医療体制と法的不備がもたらした人災に近い。コロナウィルス騒ぎが起こってからすでに一年になろうとしているのだ。いったい政府は何をしていたのか。

 じつは、政府はコロナ禍対応医療よりも、五輪と経済の停滞に重心を置いた施策に目を奪われてきた。欧米各国に比べてウィルス感染数の広がりが抑えられているという「慢心」があった。財務大臣の「民度発言」もそうだが、人々の自制心に呼びかければ、コロナウィルス対応の社会的整備は整うと考えて、「医療崩壊」に目配りしていない。医師会が「専門家」として訴えてきたにもかかわらず、体制や法の改編整備に腰が重い。中央権力が右往左往してはならないという確固不動の権力観を誇示するがためにか、専門家に耳を傾けて建言を取り入れていく柔軟性を失っている。政府やそのシンクタンクである官僚システムがすでに事態への対応能力を持っていない。

 そうしたことの積み重ねが「政治不信」「政府不信」を招いている。庶民は(いつものことながら)自律して自己責任で重大事態の回避をするしかないと思っている。それを「民度が高い」と特異顔する政治家たちは、いうならば「高い民度」に乗っかって胡坐をかいているのだ。

 昨年末からの「勝負の三週間」や「真剣勝負の年末年初」を呼び掛けた折の、政治家の「会食」に関する振る舞いを指弾して、「国民のお手本にならない」とマスメディアでは非難しているが、私らは「政治家にお手本になってほしい」などとは、欠片も思わない。お手本なんていうよりも、まず身を挺してこの事態に切りかかってもらいたいのだ。庶民のお手本は、私ら年寄りのように「埒外に身を置く」ことしかない。政治家たちまでがそのように引きこもって身を護っているだけでは、リーダーとしてのお役目が果たせない。

 ではリーダーとして、いま、何をしたらいいか。支援者との会合を開いて「意見を聞く」なんて場合じゃないだろう。芸能人やスポーツ界の有名人と会食をして、各界の重要人物から意見を聞くなんてことを言うのも、恥ずかしいだろう。ましてや「会食は感染防止を十分配慮して行われた」なんて言い訳は、ふつうの庶民に戻ってから言えよと、毒づきたいくらいだ。

 じつは私ら庶民には、これこれこうするのはおかしいだろうとか、恥ずかしくないのかとか、みっともないぜというような、否定的なものの言い方しかできない。なぜなら、口幅ったい。そもそも口出しするほどの専門領域を持っているわけじゃない。こちらから「提案」するほどの立場も発言のエビデンスももちあわせない。だから、誰彼の振る舞いや言説を媒介させてヤジを飛ばすくらいしかできないのだ。

 それは、しかし、ヤジではあっても空言疎語ではない。庶民の切実なる切迫感を根底的に表している。それに見合う、社会のリーダーである方々のアクションは、内実をともなった施策の提起であり、実行である。「政治不信」「政府不信」が蔓延しているなかでの「緊急事態宣言」が内実をともなうには、そうだ、たしかに今、それが必要だと共感を得ることのできる具体的な提起でなくてはならない。

 今回のそれは、その内実をともなっているか。甘く見て、唯一それを感じたのは小池都知事の「人の往来を止めることです」という発言だけであった。そういう、感染爆発を抑えることに関する根底的な共感性を呼び起こすメッセージを発することが、「施策」を受け止める根底にある「政治不信」「政府不信」から脱却する第一歩だと思う。

2021年1月7日木曜日

不可思議な山

 シューズケとかノボットというカタカナ書きの山名に魅かれた。埼玉県飯能市の低山である。

 地理院地図に登山道は、ない。この山が上れると知ったのは山と渓谷社の『埼玉県の山』。1993年の刊行だから、その記述が今もその通りであるかどうか、わからない。

 それによると、登山口の踏み跡は、ない。また、下山口辺りの踏路も不明となっている。併せて地理院地図にもルートがないということは、人が歩かないのだろうか。こういう山は、等高線がよく見晴らせる冬場に歩くのが一番よい。そして、カタカナ書きの山名。たぶん、地元の呼名がそのまま残っているのではないか。行ってみようと昨日(1/6)、足を運んだ。

 下山口のバス停付近に自転車を置き、登山口に向かう。「橋のたもと」とガイドブックに記されていた橋の向こう側にちょっとした広場があり、ベンチが二つおかれている。その脇の空き地に車を置きザックを背負う。ストックをもつ。たもとに少し開けた草地へ向かう踏み跡がある。その上は、民家。さて、すでにここで戸惑う。もし「登山口に踏み跡はない」と書いてなければ、探し歩いたかもしれない。だが端から「ない」とみていたから、どこか登れるところはないか、山裾を見て回る。設えられた階段がある。それを上まで詰めると、いくつものお墓が並んでいて、そこで終わっている。そうか、墓参りの参道か。

 墓の脇から急斜面に挑む。挑むという感じがするのは、暗い杉林に朽ち果てそうな倒木と降り積もる落ち葉に足をとられながら、傾斜の急な斜面をよじ登るようになるからだ。ストックを短くして四つん這いで上る。木をつかみ、木の根方に足をかけて身をもちあげる。木登りだね。

 地形図で方向を見定め登っていくと、スカイラインが見えるようになる。だがまっすぐ上ると大岩がある。右手の方が取付きやすい稜線と思って迂回する。標高差で60メートルくらい、15分程の挑戦に過ぎない。稜線に上がると踏み跡が見える。背の方にも見えるから、登り口が別にあるのかもしれない。

 周助山383mの標識がある。これがシュウズケか。でも、なんだろうシュウズケって。標識をたてたのは「原市場区まちづくり推進委員会」。標識のたたずまいはしっかりしているが、もうずいぶん古びている。ここが飯能市に平成の大合併される前だろうから、2005年以前になるか。いま手元にある「関東道路地図」の十万分の一図をみると、名栗渓谷と「名所」を記した名栗川と名郷方面への道路の北側に「周助山436m」と、山名の記載がある。この標高は、今私がみている地理院地図では「ノボット435.7m」とあるところに違いない。

 妙なことに、今日歩こうとしているルートの標高では、シュウズケやノボットより高いピークがいくつかある。548m、553.4m、505mと標高を記した通過点があるのに、そのピークの山名は、記されていない。地理院地図がどのような命名記載の方針に貫かれているかわからないが、古くからの地元の命名を尊重しているとしたら、シュウズケとかノボットというのが伝統的な地元呼名であり、周助山という掲載名は文字を当てたものなのであろう。あとで分かるが「ノボット」には「登戸」の漢字を当てた標識が立てられていた。

 ノボットを過ぎて標高400mから500mの稜線には、杉林の間伐をした後がいくつも残っていた。中には稜線部分を広く皆伐してしまって、これから植樹でもしようというのか、乱雑に掘り返されたまんまの広場もあった。ずいぶん手入れされている。そうか、ここはあの「西川材」の生産地か。となると、山は地元人の、いわば聖なる仕事場でもある。林立する針葉樹のあいだには、照葉樹の2メートルを超える木々が育っている。周辺の景観は見晴らせない。

 ノボットにスタート後50分ほど。今日の最北端になる548mピークには1時間40分、地点表示はない。ガイドブックには「蕨山、蕎麦粒山の展望がよい」とあったが、木々に邪魔されてよく見えない。雲が厚く張り出してきている。60年配の単独行者がやってくる。ちょうど中間点にちかいのか。ほぼ中間点の歩道林道に出る「仁田山峠」401mには2時間5分。「仁田山峠」の表示は杉の木にビニールで包んだ地点名が巻きつけてあるだけであった。

 林道から再び、地形をみて斜面を上る。冷たい風が吹いてくる。登りはじめの時の気温は、2℃であった。ウィンドブレーカーを着ているのに、暑くはない程度であった。お昼近くなっているのに、風が出て来て、冷たいと感じる。高度計をみていると、気圧が下がってきている。楢抜山553m、11時15分。出発から2時間35分、コースタイムより20分ほど早い。この山の山名表示は、まったくない。ただ三角点があるから山頂だとわかるばかり。この山の登りと降りが急傾斜になっているが、今日の登山口の木登りに較べたらなんということはない。お昼には少し早い。もう少し先まで行こうと踏み出す。急傾斜はすぐに終わり、岩の上りになる。ムツカシクはないが、なるほどここが「天狗積」とガイドブックに記されていたところか。大岩がごろごろとルート上に積みあがっている。その間をくぐるように登り、降る。枯葉が積もっているから滑りやすい。

 505mのピークまで20分位とあったので、調子よく進んでいて、おや? こんなに下るのはヘンじゃないかと高度計をみていて思い、立ち止まってスマホのGPSで現在地を確認する。おやおや、505mピークはとっくに過ぎて、そこで左へ曲がらねばならないのに、直進する尾根を降ってしまっていた。引き返す。戻ってみると、広いピークの左の方の木に「←久林・赤沢*楢抜山・仁田山峠→」と、やはりビニール袋に包んだ表示が掛けられていた。見落としてしまったのだね。引き返したのが11時50分。ここでお昼にする。

 なにしろルートが地図にない。ガイドブックも「読図のトレーニングに良い」と書いてあったのを思い出した。たぶんこの稜線を辿ると思った地点を地図に記しておいて、ときどきGPSで位置確認をして、すすむ。ここからしばらくは踏み跡もしっかりしているが、その先は踏路不明。それに加えて、前日スマホに読みこんだ地図にポイントを打っている途中で、「消息不明であったタイに暮らす友人の音信」が知人に入ったと電話を受けた。それに気をとられて、ポイント作業を最後まで行わずに中断したのだが、スマホの地図は、ポイントを打った辺りで表示が終わり、その先はぼんやりとした画面になってしまっている。GPSの赤い矢印だけがぼやけた画面の上を進んでいる。これでは役に立たない。プリントアウトした地図をみて稜線を辿る。最後の部分が雑木林になっていて、道がない。方角の見当をつけ、降りやすい地点を見つけて木につかまって降りてゆく。小さな沢を渡り、正面の小高い丘を回り込むと赤沢会館があった。その向こうに素戔嗚神社の鳥居がみえた。

 13時18分。歩き始めて4時間38分。コースタイムは4時間20分、お昼を加えると、ほぼコースタイムで歩いたことになる。行き過ぎた分も、ちゃんと取り戻して下山したというわけだ。

 自転車に乗って登山口へ向かう。約3㌔ちょっと。飯能市と名栗村を結ぶ幹線道路だから、車の往来は少なくない。車に折り畳み自転車を積み込み、順調に帰宅した。ちょうど3時。

 オモシロイ山歩きであった。なにより、登山口と下山口の不明瞭さは、ちょうど年末に上った羽賀場山と似ている。あちらも林業の山ではあった。 そして、地元の人は上らないよという声さえ聞いた。ひょっとすると、遊びで上られちゃあいやだから、上り道はつくらないとしてきたのかもしれない。だが林業作業に携わる人たちには必要であるから、稜線に上ると踏み跡はしっかりとついている。そういうものなのかもしれない。登山者は、よそ者であり、余計者なのだね。

2021年1月6日水曜日

生きていた!

 去年の10月23日、「どうしているか、乞う連絡」と、このブログに書いた。

***

 タイに住む私の友人からの連絡が途絶えて、半年になる。

 十二指腸の辺りに腫瘍がある。良性か悪性か検査をしたら、このまま様子をみようという医師と手術して除去した方が良いという医師の意見が違った。タイの医療の水準は高いから心配はしていないが、言葉が通じないところがあるから、タイ人の女房に立ち会ってもらって、今やりとりをしている。そういうメールが3月から続き、4月11日に「手術を受けるために入院する」とメールがあってから、連絡が途絶えた。コロナウィルスの影響もあって、往来はできなかった。

 それ以降何度かメールを送信したが、返答がない。9月には私のスマホが故障して、古いデータが消えてしまった。彼のメールアドレスは残っているが、相変わらず応答がない。奥さんが読めるように英文のメールにしてみたが、やはり何の反応もない。

 去年の今頃であったか、彼のPCが故障してやりとりが途絶えたときに、このブログで(彼にはわかる方法で)メッセージを送ったら応答があった。半年を経て、同じようにYさんに呼び掛けてみる。Yさん、あるいはYさんの消息をご存知の方は、お知らせください。

***

 しかし、なしのつぶて。年が明けて、ふと思い立った、やはりYさんと親しくしていたY105さんに「何か知っていたら教えてください」とメールを送った。2月だったかにタイにいるYさんのメールを教えてというので、Y105さんとやり取りしたことを思い出したのだ。

 Y105さんから電話があり、隊のYさんの4月の様子について少しやりとりを交わした。Y105さんがタイへメールを送って返信が来るかどうか、様子を待っているようであった。

 そして昨日、タイから応答があったと、Y105さんから電話が入った。応答は3通1通は空メール。跡に2通に、病状のことを書き、訂正するという文面だが、今も症状に苦しんでいるのか、一点鎖線のような書き方だったそうだ。

 でも、よかった。半年以上途絶えたうえに、私のスマホが壊れて、やり取りができなくなっている。スマホは修復したが、タイからの応答はないから、Yさんはすでに彼岸に渡ってしまったのかと思ってさえいた。それが、生きている!

 だが、尋常ではなさそうだ。一点鎖線というのは、Y105さんの話を聴いた私の印象だ。重い患いのもたらす痛みに、ひょっとしたらモルヒネでも処方されているのだろうか。だから、こちらから送る文章も読み続けられない。まして返事を書くというのも、途切れ途切れになる。それが一点鎖線だとすると、このブログを見て、応答することができないのは、当然と言えば当然である。

 コロナウィルスのこともあって、往来が制限されることもあって、日本に帰ってくることが適わない。もし帰国したら、今度はタイへ渡ることができなくなる。そういう苦衷を抱えてもいるのだね。

 でもとりあえず、生きていることはわかった。今後の回復を待って、言葉が交わせるようになることを祈ろう。

2021年1月5日火曜日

何処にこんな意固地さが

 正月の儀礼的なやりとりが過ぎた。暮れに「めでたいと言葉にならぬ年の暮れ」と思い、「身を慎む」ことにした。「慎む」というのを(自分の)ナイーブな心持だけに従うこととすると、それはそれで結構わがままな振る舞いじゃないかと思う。だが身の裡に湧き起る何かに素直に従うということが、どこかで社会的な儀礼に沿うような賀状は出さないことだと結びつく。そう決めて、賀状は半減した。そうすると、向こうさんも(賀状を受け取ったからには出さなくちゃあ)と反応しているとわかる人もいて、それはそれでさっぱりしたこともあった。

 だが、向こうさんからやってくる賀状もある。それに対する応答をしない。カミサンは自分あてのそうした賀状に、ひとつひとつ応答している。それが人に対する誠実ってもんじゃない、と思っているのだろう。「かんけい」に対する誠実というか、気遣いか。

 去年は、しかし、賀状というのは(まだ生きてるよ)という存在証明みたいなものだねと出すことに意味があると言っていたのではなかったか。なのになぜ、そんなに急転換したのか。そう自問してみると、どうも、昨秋の大学のサークルの先輩後輩同輩とのやりとりに起因して、湧き起ってきた感情のように思う。

 懐旧の情も、問い詰めてみると、自分の感覚や感情の源泉の一角を占めている。だから、やりとりそのものへの衝動がなぜ内発的に湧き起るのかと問うと、自分の輪郭を描くところに行きつく。そう思っていた。人との付き合いというのは基本的に苦手なのだが、だからこそ(自制してか)、けっこう状況適応的に(降ってわいた場の雰囲気をこわさないようにして)八方美人の振る舞いをしていたのかもしれない。でもそれは、他の人に対する応対を「自制する」のは、自分自身がちゃらんぽらんだから、他人になにがしかの瑕疵があったからといって、毛嫌いしたり責めたりすることはないじゃないかと思うからだった。

 そのいい加減さを勘案すれば、すれ違いや誤解や曲解があったとて、ヒトってそんなものよとおもっていれば、大抵のことはゆるせるはずであった。にもかかわらず、昨秋の古いサークルの、すでに半世紀以上も離れていたヒトとのやりとりが、これほど私の意固地さに結びつくのは、なぜなのだろう。それを考え続けている。

 実はその発端となった後輩や先輩とのやりとりは、それほど深く心もちに残っていない。そうか、60年代左翼の知的部分は、結局(私ら)庶民大衆の感性の次元に降り立つことができず、中空に浮いたまんまのカンネンを護持して、身を寄せ合っていただけなのかとみてとって、「かんけい」から離脱することにした。

「身を寄せ合っている」と決めつけるには、ワケがある。秋のやりとりがあったせいか、後輩のMさんから封書が送られてきた。彼の名を冠した「**新聞」と銘打ち、「年に1回の私の近況報告」とタイトルにふって、A3版裏表4ページ印刷のものが入っていた。「第30号」というから、ここのところ30年間(たぶん)賀状代わりに知り合いの皆さんに送っているのだろう。彼自身や彼の奥さんや子どもの仕事のこと、コロナ禍に移動が制約されてきたこと、家の建て直しに関する動きがあったこと、TVで報道された引き揚げ船で疫痢が発生して浦賀沖で留められたことが彼の父親の昔話していたこととかかわっていたことなどが記事風に割り付けされて、新聞の体裁をとっている。だがこれは、まったくの私信ではないか。どうして「新聞」と銘打つワケがあるのか。もちろん、田舎生まれ東京育ちの古稀世代が我が暮らしの第一次史料を提供するようなつもりで記すには、どんな名分があろうとなかろうと口を挟むことではない。だが「新聞」と銘打つからには、その記事の一つひとつに社会性が込められていなければならない。ここでいう「社会性」とは、それを読む者にとっても「かかわり」を感じることができる要素が込められていなければなるまい。もちろん世の中の動きは、なんであれ、他の人にかかわらざるべからずということからすれば、込めようと込めまいと「かかわり」は含まれて入る。だが、「新聞」と銘打つからには、発行者自身がっその「かかわり」を明快に提示してみせていなくてはならないのではないか。それが、ない。「近況報告」ならば、何も文句をいうことはない。だが「新聞」として発行するのであれば、その自らの「体験」が何を意味していると考えているのかを記してこそ、社会性が付与されてくる。「身を寄せあっている」というのは、その社会性が欠落しているのに気づいていないことを意味している。

 さて話をもとに戻す。後輩や先輩のことにはさしたるこだわりもなく、「お呼びじゃない。こりゃまた、失礼いたしました」と引き下がって済んだ。だが、サークルも専攻学科も同じであった同輩が、「ムツカシイことはわからない」と言って寄越したことが意想外であった。私がこだわっているのは、ここじゃないか。

 その同輩はしかしその後、専攻学科の同級生メールネットに1961年当時の写真を「発見した」と添付してきたり、北海道新聞の連載小説、島田雅彦「パンとサーカス」を読んだ読後感を送ってきたりして、さすが新聞記者だっただけのことはあると思わせる感懐を綴っている。ではその彼がなぜ、私の送った文章を「ムツカシイことはわからない」と応じたのか。おまえさんとは付き合いたくないと言ってるんじゃないか。そう受け取った。

 それが、賀状の応答に関する私の意固地さにつながっていると思われる。まあ、八方美人よりは頑固ジジイの方が私に似つかわしい。

2021年1月4日月曜日

触媒

 一昨年から去年にかけての年末年始の頃には、夢中になって教育問題について書いていた。学校のこと、教師のこと、一体何を(私は)してきたのかと胸中に湧き起る感懐を綴っていた。もう少し厳密にいうと、年の暮れの一週間に400字詰め原稿用紙にして120枚くらい、年明けの二日間で60枚くらいを書き上げて「ささらほうさら・無冠」の45号と46号としてまとめた。

 どうしてそんなにドライブがかかったのか。まだ現役で仕事をしている知人の教師から、「査読」を頼まれ、読んでいるうちに浮かび上がる違和感が、私自身の現場でやって来たことと交錯し、自分を鏡に映してみているような思いを浮き彫りにしたから、であった。

 いま振り返ってみると、書き流したにもかかわらず、一つのまとまりになっている。それは「ここがロドウスだ、さあ跳べ」といわれて跳んだような気配である。分かりやすくいうと、さあ目的が見つかった、書くぞという内発的な衝動が湧いて来たのだと思う。

 現役教師の若いときは、日々のやりくりとでもいうような生徒や教師たちとの具体的なアクションを紡ぐことに夢中で、なぜ、そういうアクションを繰り出しているのかなどを立ち止まって考える余裕がなかった。いや、そうではないか。それなりの「なぜ」は抱懐していたのだが、教室秩序を整えるためとか、これじゃあ生徒たちも心を落ち着けることが出来まいとか、教師たちの無意識に沁みついた「教育幻想」を引きはがすためなどと考えてはいたのだが、表層的な「なぜ」にとどまっていた。

 退職して70歳になるころまで教職を目指す学生さんを相手に、教育社会学とでもいうような講座を担当したこともあって、少し距離をとって自分の現場仕事を振り返る機会となった。つまりモノゴトを見る場が変わることによって、その人たちが必要とする視線の次元にわが身を適応させてきたと言い換えることができる。次元が変わることによって、「なぜ」を問う根拠への深さが変わってきた。

 それが後からみると、私自身の世界観や人間観、社会観などの輪郭を(意識的に)描き直す作業でもあったが、とは言え、教室という場面で繰り広げられる学生さんのものの見方や在り様に対して槍を突き立てるアクションが先行して、必ずしも私自身の自画像描出作業とは言えなかった。

 すっかり引退して喜寿になってからの若い現役教師からの「査読」は、したがって、より自画像に近い次元での自問自答になった。若い教師の文章は、いわば「触媒」として、私の身の裡に響いたのであった。そういうことでもなければ、ものを書く動機が湧き起ってこない。学者とか作家ならば、自ら「目標」を設定して、次はコレ、その後はコレとイメージを広げ、そのイメージ自体が自動拡張していく。つまり本人からすると天から書くことが降りてくる。自身はそれを言葉にして書き付けていくだけというように、言の葉が繰り出されてくるというわけであろう。だが素人のただのもの好きなブロガーには、そこまで天の恵みはない。日常触れたことを書き留めているうちに、自身を発見するような文章になっているというのが、精一杯だ。

 それに、「目標」を設定してそれに身を合わせるという方法をなんとなく採用したくない。そうやって自身の(自画像描出の)漂流をある流れにだけ限定するというのが、なんだかちがうなあと感じるからだ。もっとちゃらんぽらんがいい。人って、というか俺って、そういうふうに生きてるんだから、いま目が覚めたみたいに自己限定して狂うっていうのは、身の程知らずじゃないかって思う。

 そもそも「触媒」があるってことは、それ自体が「かんけい」におかれる/身をおくってことだ。語り掛ける相手がいてこそ、何を語るかが湧き出てくる。場を自分で設えることができるなら、語る相手を限定することもできる。作家だね、それは。それほどの力はないから、世の波が押し寄せてきて、それを被って反応するような「状況適応」的な自画像しか描けない。情けないが、いま、そういうところに立ってるんだと、一年前のブログをみて思った次第。

2021年1月3日日曜日

何をみているのだろう

 昨日(1/2)は見沼田んぼの東縁を歩いた。快晴。西縁のたけのこ公園から芝川へ出る。よく手入れされた竹林の床が春の芽生えにうずうずしているような気配を感じる。去年の筍の皮をつけた大きな青竹が一層その感触を際立たせる。

 芝川の水がゆっくりと上流へ流れている。東京湾の満潮が近づいているときに、この逆流が起こる。揺蕩うように流れてゆく草木の塊にセグロセキレイが降り立って、動き回る。二羽いる。ハクセキレイよりも一足先にセグロセキレイはペアリングを済ませる、とカミサンが蘊蓄を傾ける。バンらしき水鳥が左岸の草影を辿るように水の流れに逆らって下流へ向かっている。顔の赤みはまだついていないのか、緑っぽく見えるのは、光の加減か。顔の白いオオバンが二羽、流れの中央部に出てくる。オオバンはまだペアリングする季節ではないからねと、これも蘊蓄。オカヨシガモのペアがいる。

 対岸の木の上に小鳥が群れている。双眼鏡で覗き見る。カワラヒワだ。近づいていくと、独特の声も聞こえる。おおっ、ツグミ。やって来たばかりなのか、木の上にいる。いや、草叢にもいる。ヒヨドリがオレモイルヨと言わんばかりに鳴き声を立てる。

 芝川にかかる橋を渡り調整池の西側を歩く。カイツブリが何羽か浮かんでいるが、水面は平たく広がるばかり。ハクチョウがきていないのか。調節地はいつもより水が少なく、干上がっている面積の方が多くなった。中央の中州のアオサギの近くにシギかチドリが歩いているが、それが何か見分けがつかない。

 左手下方、岸辺の萱群に小鳥がいる。立ち止まって双眼鏡を覗く。アオジだ。ベニマシコねとカミサンの声に、その視線の先を見ると立木の枝に行き交う小鳥が見える。陽ざしがうまく当たって体の赤っぽさが際立つ。コガモが右岸の隅に身を寄せている。ヨシガモが二ペア、やはり草陰に身を寄せている。おや、川の流れが下流に向かうように変わった。潮が引き始めたな。

 大崎清掃工場の脇を抜けて見沼用水路の東縁に上がる。東縁の右岸はときどき車が通るから、狭い左岸の道を歩く。その東側は高台となり樹木農家の養成畑が広がる。言われて目を上げると西の空に富士山が雪をかぶって秀麗な姿を見せている。手前の高い建物は浦和駅周辺だろうか。昨日見沼田んぼを歩いたときは見沼用水路の西縁であったから、その西側の高台や住宅街に遮られて富士山は見えない。東縁だからこその風景だ。こいつぁ春から縁起がいいやと何処からか声が聞こえそうだ。

 国昌寺のトイレを借りる。山門が開いている。この山門の欄間には竜が彫られている。見沼の竜を封じ込めるために左甚五郎が彫ったものとされている。封じ込めておくためにつねには閉じて置くと、聴いてきた。開くのは5月の竜の祭りを行うときだけと思っていたが、正月にも開くのか。

 この辺り、用水路の水が枯れている。雨が少なく渇水が心配されている。大丈夫だろうか、今年の田植えは。見沼の第一トラスト地の借りている萱などのマルコの草地が平たく拓いている。萱で作った竜がすっかり乾いて古びてきている。その一角が、まるで手付かずの草茫茫。なんでもこの地を借り受けるのに力のあった植物の専門家が「手を付けないで」と厳命したはいいが、他にもかかわるところがあって暇が取れず手入れをする時間がない。その結果、萱が茫茫と生えて周りの手入れをされた土地と際立った違いが生じている。いかになんでもこれって自然保護? と、彼の専門家の口癖を思い出す。

 見沼自然公園に来るまでに3時間ほどもかかっている。小さな子ども連れがたくさんきている。池の南側は広く薄氷が張っている。その上を石を滑らせるとキョンキョンキョンキョンと高い金属製の音を立てる。それがどこか鳥の鳴き声に聞こえて、どこどこと目を差し向けてしまった。石が飛ぶから鳥は寄り付かない。皆、水面の広がる北側の芝生に近くに寄り集まっている。岸辺には小さな子ども連れが餌をやろうとするから、餌付けされたヒドリガモやオナガガモ、オオバンが寄りついて賑やかだ。それを敬遠するように遠く離れた水面にたむろしているのはコガモらしい。用心深いのだろうか。カミサンはトモエガモを探している。鳥友が、ここに来ているよと写真付きで知らせてきた。3羽いるらしいが、見渡しても見つからない。

 ベンチに座ってお昼にする。お湯を入れてモズクの澄まし汁をつくる。糯米で作ったお赤飯とお節を詰め合わせたおかずが、今日のお弁当だ。ちょうど正午。駆け寄る子どもが池に落ちないように若いパパさんが手を襟に伸ばしながらついて走る。子どもが3人もいるのは兄弟かと思っていたら、パパらしき大人が二人いる。ママ二人もお喋りしながらあとからついてくる。子どもらはあっちへこっちへめまぐるしく飛び回り、大はしゃぎだ。

 トモエガモは近くの野田公園に行ったのだはなかろうか、そっちへ行ってみようかと提案して、歩き始める。と、カミサンが私の名を呼ぶ。うん? 振り返ると指さしている。戻って指さす方向へ目を向けると、池の離れた萱群の端っこに、一羽のカモがいる。トモエガモだ。歌舞伎の隈どりをしたような顔が双眼鏡を通してみえる。顔を右へ向けると陽ざしが頭と顔に当たり、一段と輝くようだ。「これで野田公園へ行かなくていいわ」とカミサン。今日ここへ来た目的を果たしたというわけだ。

 池の西側を回りながら藪を覗く。何かいた。シジュウカラがいる。うん? ちょっと違うのもいるよ。覗いているとウグイスが藪の上に上がってきた。少し離れた湿地にはメジロもいた。ヤマガラが出てきた。エナガが飛び交う。大きな望遠レンズを据え付けたカメラマンが、板敷の踏路を外れて草地に椅子を置いて構えている。蠟梅がある。サイカチの実がおいてある。ヤブコウジの朱い実がおいてあり、それを目当てにか小鳥が次々と寄ってきている。と、カメラマンの一人がずかずかとそちらへ踏み込んで赤い実をつけた柿を持って戻ってきた。何だ、彼らが撮影スポットをつくっていたのか。「あれって、ルール違反だから」とカミサンが言う。

 うん?

「踏路を外れて草地におりてたでしょ。あれってダメだから」と野鳥の会らしいことを言う。カメラマンとは犬猿の仲なのだ。

 来たのとは違う畑の中の道をたどって帰途に就く。見上げる、雲一つない青空。去年の3月に撮って年賀につかった写真はこの辺りだったなあと思いながら、ぶらりぶらりと、来た道と人気を避けて歩く。

 通りかかる人のほとんどはマスクをしている。ジョギングをする人はマスクをしていないが、なかにはすれ違う私たちを見ると、首にかけたスカーフを鼻まで持ち上げてマスク代わりにするように気を遣う人もいた。それぞれにコロナ禍の社会性を備えてきている。私はマスクをしていると呼気で湿ってくるのがイヤ。人とすれ違うことがなければ、できるだけマスクは外す。だがカミサンは、寒くなってマスクはありがたいと、外すことさえ無用だという。講演し罰の子どもたちは、むろんマスクをしていない。年寄りも若いカップルも大半がマスクをしている。麻生財務大臣あたりが偉そうに自慢することではないが、自己防衛するしかない庶民が身につけた知恵だ。その知恵無用と引き換えに、独裁的な政治権力を導入されては適わないと、そこまでいう時代が来るのかどうか。歩いている途中で、「東京と埼玉が緊急事態宣言を政府に要請した」とニュースが入った。来襲の山は何処にするか。また思案しなくてはならない。

 こうして振り返ってみると、私は何を見て歩いているのだろう。目に入る光景の光と影のトーンを感じているのだろうか。鳥を見るのはたしかに面白いが、でも、今日何種見たと数えるほど入れ込んではいない。人の姿も面白いが、だから何だというほどの傾きも持ち合わせていない。なんだか、通り過ぎる風景の、でも一瞬の何かを待ちわびながら、ぶらりぶらりしているのかな。自分への問いが宙に浮いている。

2021年1月2日土曜日

不信心者の正月

 読み終わった本のことを考えていて、そうだそれを書こうと起きだした。朝5時。昨日、元旦のこと。「除夜の鐘、聴いた?」とカミサンに訊ねる。いつものように夜9時ころには寝入っていた。

 コーヒーを淹れ、パソコンを開く。

「ほらっ、そろそろ時間よ」。カミサンの声にテーブルを離れ、テレビ体操の構えをとる。珍しいことに画面のインストラクターは踊りはじめ、バック転をし、リボンを振りながらつま先立ちで立ちまわる。私たちも、こんなことができるのよと自己主張しているようだ。そうよね、まさか振袖では出られないものねとカミサン。体育大学の学生さんだと聞いたことがある。常のタレントと違って、体躯がしっかりしている。画面にはちょっと太り気味に映るけれども、いかにも健康的な雰囲気が醸し出されて好ましい。

 布団を上げ、またパソコンに向かっている間に、カミサンが食卓の準備をする。いつもの年のように、数の子や蒲鉾や煮物にマリネがついて、雑煮がある。私用には丸い餡餅が入っている。結婚してとっくに半世紀を超えるというのに、ついにカミサンはこの雑煮をゲテモノのようにみる見方を変えなかった。だから私用。私は手に入れていたお屠蘇代わりの日本酒の口を開ける。備前焼の御猪口の一杯だけカミサンは付き合い、私は何杯も頂戴しながら、やっぱり日本酒が一番身にあっているのかなと思う。

 パソコンの一文を仕上げて、サイトにアップ。が異常が来る。賀状が届く。カミサンは返事を出すのを選り分けている。私は返事は出さない。コロナウィルスを機に「慎む」ことにした。羊さんの手紙のやりとりのような賀状をやめよう。アイツから来るから返事を書こうというのをやめて、ワタシの無事を問いたい人にだけ賀状を出す。つまり儀礼的な、習慣化したお付き合いを削ぎ落として、身の裡にこだわりのある方にだけこちらの消息を伝える。そう決めた。まあ、これまでも八方美人だったわけではないが、八分の一くらいにいい顔をすればいい。目を通していると「今年限りで新年のご挨拶をやめます」と記した60年来の付き合いの方もいた。そうか、ヤツもそう考えるようになっていたか。

 朝からお神酒を頂戴した後ろめたさか、今週は山へ行かなかった申し開きか、ちょっと歩いて来ようと、TVをみているカミサンを置いて、見沼田んぼへ足を向ける。いつもと変わらない風景。うん? そうだ、着飾った人がいない。皆さん普段着のような地味な色調で歩いている。西縁沿いに立ち並ぶサクラの老木が陽ざしを受けて退屈そうに見える。自ずと脚は速くなる。そういえば年末のTVで、1秒間に1メートル歩けるようでないと、老化が進み過ぎとか言っていたな。ということは、分速60メートル、時速3・6㌔か。そんな計算をしていたら、時速6㌔で歩くってこれくらいかと自問し自答しながらの速度になった。向こうからジョギングの若い人がやってくる。後から年配のジョガーが追い越していく。でもこれで時速6㌔ならマラソンが4時間台で走れるってことか。おや、この速さで4時間とはいわず、もっとゆっくり40㌔を7時間歩けるなら、四国のお遍路さんを30日間で経めぐることができるな。毎日7時間歩き、宿に泊まってお神酒を頂戴し、ひと月そうやって過ごすというのもいいかもしれないと、埒もないことを考える。

 氷川女体神社の脇にあるかかし公園に着く。駐車場に何台かの車があるが、人影が少ない。小さな子どもを連れた家族連れがいるが、もうお昼を少し過ぎるというのに、お弁当を広げている姿が見えない。ま、寒いからなと思い、氷川女体さんでもみていこうかと神社の方へ向かう。

 ところが、氷川女体神社は、不信心者を受け容れてくれなかった。初詣の「お参り」にきた方たちは、境内に上がる石段の手前からずらりと行列を作っている。石段の半ばには人影はない。「密」を避けて、境内へ上がる人数を制限しているのだ。この行列に並ばなくては「お参り」はゆるさじと神さんから申し渡されているみたいだ。

 ふ~んと列の長さを見て、引き返してきた。家に帰ってスマホをみると12000歩を越えていた。お酒気も抜けた。こうして不信心者の一年が、また、はじまったのでした。

2021年1月1日金曜日

渦が巻き人は踊る

 おもろい講釈師がいてましたな。

 なんのはなしや。

 大島真寿美ちう、なんやけったいちうか、うまいなにわことばをつこうてな、しゃべりとおしてんねん。聴いてたらな、なんやら今風のイントネーションちうのまで耳の奥にひびいてるようじゃったがな。

 なんや女講釈師かいな。

 あんた、いまのご時世に、男や女やなんて口きいてたら、どやされまっせ、世間様に。そや、おなごしや。それもな、なにわのお人やないみたいやで。生まれは愛知っち書いとるけど、育ちはなにわなんやろか。そういうこともありまんな。

 なにしゃべってんねん。

 いやな、近松門左衛門の跡を継いだちうお人のな、こんまいころからのうなるまでをな、もうまるでみてきた講釈師みたいにな、つるつるつるって出てくんねん。それがまた、その場にいてたようなしゃべりでな、読んでる方も一気呵成やなおもうて読むんやが、いやなかなかおもろうて手間取りましたわ。

 ええっ、読むって、本でっか。

 そや、『渦――妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)魂結び』ちう文藝春秋の2019年に出したもんや。

 なんでっか、その「渦」ちうのは?

 そやなあ、門左衛門の近松っあんは、人形浄瑠璃の立作者やったんやけど、跡ついだっちゅうお方はな、ちっさいころから道頓堀の芝居小屋に入り浸っててな、気ぃついたら周りの子ぉらに喋り聞かしたってんねんて、その浄瑠璃の話をな。それがおもろいってえか、子ぉばっかりじゃのうて、周りの大人衆も聞きほれてな、そん子のイチ評判になってんねん。気ぃつかんのは、そのご本人だけちう仕立てもな、わしらも身に覚えのあることじゃけん、おもろいやん。そんでな、いつン間にか人形浄瑠璃の噺の渦に巻き込まれっちう様子を書いてんねん。

  噺の渦ちうて、なんでんねん。

 浄瑠璃の噺ちうのもな、立作者だけの腕でつくりあげんじゃのうてな、演じるお方も、座の親方も、いろんな方がああやこうやと口差し挟んで仕上げていくいうのんが、ようわかる。

 ということは、なんじゃい、道頓堀の浄瑠璃に傾ける気風が皆盛り込まれっちゅう話かや。

 そういうこっちゃが、そんだけじゃのうてな、人形浄瑠璃の噺が評判になるやろ。するとな、それよりもっとおもろうして歌舞伎に移し替えたり、びっくりするような仕掛けを仕組んだりするやろ、ご近所の芝居小屋が。それがまた、浄瑠璃の作者のな、よし負けんで、もっとおもろしたろちう、大きな渦になりよんねん。

 妹背山婦女庭訓魂結びちうのはなんやねん。

 その「妹背山婦女庭訓」はな、勝手に門左衛門の跡継ぎちう近松半二のつくったもんやけど、つくるちうよりも、天からものがたりがおりてくるふうなこころもちも、よう書けてんな。

 ほな、その時代の世間の風がみな吹き寄せてきてつくったちう空気が書きこまれてるってことかい?

 そやそや、あんさんうまいこといいまんな。

 ほなら、浄瑠璃や歌舞伎だけのこっちゃないやないか。わしらの毎日の暮らしも、ほら、蝶の羽ばたきが地球の大嵐になるっちうふうに、みな縁があるっちうこっちゃろ。

 そやなあ、噺が天から降ってくるちうのも、いつ知らず周りの空気を吸って身に沁みてるちうことが口をついて出てくるちうか、筆を通して文字になってくるちうか、そういう不思議なことかも知らんな。ああ、それが、「魂結び」ちうサブ・タイトルになってんねんな。

 そおかあ、魂結びちうのは、なんや売り出し中の決まり文句みたいであんまりおもろないけど、気持ちはわかるわな。わしらが受け継いでることちうのは、魂だけやもんな。

 そやそや、こん本、読まんあんさんの方がようわっかとるみたいやな。読んだらまた、気ぃついたこと聞かせてや。

 あほらし。あんたから聞いたら、もう読まんでもええて思うたわ。そやって、魂結びやんか、わてらも。