いま山から帰ってきました。天気は快晴。朝のうち少し風が強かったが、歩き始めるころには収まっていた。そうだ、行った先は、横隈山(よこがいさん)594m。長瀞の近く、野上の北側に鎮座する秩父山系への入口の山。山の北側は本庄市の児玉、南側は寄居町か。低山であるが、ルートがはっきりしない。野上駅から出牛峠を越えて出牛に出る道も、大量の落ち葉に隠されて踏み迷うほどであった。それでも、横隈山までのルートは迷うほどではない。ところが後半の、横隈山からの下山にとったルートは、半分が藪漕ぎ。横隈山から東へ下り沢戸に出て殿谷戸に至る。そこから再び山に入り糠掃峠を越えて長瀞総合射撃場近くに降り立つルートは、ルートは皆無。それも2カ所は崖のような急斜面を木につかまり枯葉とともにずるずると滑り降りながら、降ってゆく。他の藪漕ぎは朽ちた竹が倒れてルートを塞ぎ、いや、ルートそのものがない。無事に還れたから面白かったというが、GPSの扶けなしでは、帰る気力が失なわれていたであろう。
8時半ころ下山地に自転車を置き、落合橋の西にある登山口へ向かった。8時45分、歩き始める。
石の切り出し工事でもしているのであろうか。舗装路の先はにはゲートがあって「私有地、立ち入らないでください」とある。その脇の山道が登山道。すぐに行き止まり、沢を渡って道は枯葉に覆われて、わからなくなる。踏み跡がある方を辿ると、竹藪に行きついて迷う。GPSを見て修正する。
出牛峠で車道に出る。GPSでは地図の登山道からズレているが、車道の向こうに広い踏み跡がある。そこで農作業をしている方に道を確認する。「そう、このままいくと出牛に出るよ。広い道路に出たら右へ行っていろは橋を渡ったところで左へ行くんだよ。へえ、横隈山っていうんかい」と教えてくれた。
出牛の集落は住宅がいくつもある。何処へ抜けるのか、車の通りも少なくない。ダンプカーや大型トラックが多い。いろは橋で山への舗装林道に入る。道路を箒で履いている古稀世代が「よこかいさんへ行くんかい」と声をかけてくる。「はい、そうです。地理院地図には山の名前が載ってないんですよ」と応じると、「あの山はここら辺では神山って呼んでた。稜線に乗って曲がるところに大きな岩があってね」と、それがご神体として大事にされていたと話す。
さらに登っていると、リュックを背負った60歳代の男が来る。まだ十時だ。「速いですね」と挨拶すると「5時半に家を出て、センターに車をおいて来た」という。(センターってどこだ?)と思うが声に出さない。傍らのロウバイに目を移して「今年は早いですね」というから「でも私の棲んでいる浦和では正月の花ですよ」と応じると、与野から来たと、同じさいたま市の区の名を挙げた。元気そのものだ。
舗装林道のどん詰まりで山道に入る。ここにはじめて「横隈山→」の表示が出る。カウンターが置いてあって「一人一回押してください」と書いてある。押して通る。ゆっくりな上り。稜線に乗る。10時20分。「権現岩150mと手書きの小さな立て看板がある。これが神山のご神体だなと思う。見にはいかないで、山頂へ向かう。樹木を皆伐したところに出る。50mほど上にガードレールが見えるのが、木材の運び出し林道だろうか。ぐるりと回る作業道もあるが、私は直登の道を選ぶ。と、ガードレールから登山服の姿が一人見える。彼は作業道を降りるようだ。私が道路に着いたとき、彼は下の作業道からどう登山道に入るか、道を探していた。
山頂への道は道路から離れて北へ向かう。山頂に連なる稜線の上は見事な展望台になっていた。北西に雪をかぶった姿のいい浅間山がくっきりと見える。北には鬼石の町が広がり、その先に藤岡から高崎へつづく街並みが一望でき、その行き止まりの所に榛名山、子持山、赤城山が並び、ずうっと向こうにたなびく雲の身を隠すように雪の山頂部をのぞかせているのは谷川連峰であろうか。
赤城山の左肩に顔をのぞかせている雪山は武尊山か。そのずうっと右に、男体山を取り囲むように日光連山が雪稜をみせている。こうやって一望すると、赤城山と男体山が争った戦場ヶ原が、まさに「戦場」としてイメージできる。
大きな木の根方に「御嶽大神國立尊」と大書した石柱が立てられている。背面を観ると「明治五年」の建立らしい。なんだろうこの石碑は。誰が立てたのか。なぜ建てられたのだろうと疑問がわくが、答えを探すほどの熱意は沸いてこない。ほんの3分で横隈山の山頂に着いた。樹木に囲まれて、見晴らしはまったくない。10時44分。出発から2時間で到着だ。
でもここからが、ルートのない下山路になる。お腹にものを入れるのは、しばらく後にする。南東に横隈山のひとつの稜線が伸びている。ちょうど太陽がある方向だと考えてすすむ。下は枯葉ばかり。だんだん急斜面になる。木立につかまりながら地図にある「作業道」に向かって標高差で180mほどを下る。あと標高差30mくらいになったところで斜面の角度が急激になっている。もう少し傾斜のなだらかな地点を探してトラバースする。枯葉ばかりであったところに常緑の灌木シダが繁茂している地点を降る。木につかまり、脚の置き場を確保し、右へ左へ探りを入れて身を降ろす。あっと気づいたのは「作業道」というからきっちりと土の道があると思っていた。だが、単なる細い山道があっただけだったから、降り立つ直前に、おっ、ここが作業道だと発見したのであった。下山を始めて26分、ガイドブックでは25分とあったから、まずまずの降り方であった。
作業道はしっかりとして沢戸の車道まで案内してくれた。その先は二車線の車道を児玉町太駄まで下り、小山川を渡って長瀞町との間を南北に走る山を越える。11時45分。出発してから3時間。お昼にしてもいいが、適当なところがない。
この先もルートが不鮮明とかないとガイドブック(『中後年向きの山』山と渓谷社、1882年)は書いてある。食品工場で、裏山の糠掃峠を越える道を尋ねる。爺さんは峠の名前は知らなかったが「ああ、それは、この裏の道をいくんだけど、荒れてるよ」という。一人のおばさんが「ぬかはきとうげ」っていうと付け加える。歩く人がいるんだと、むしろこちらが驚かれているようであった。
たしかに道はないに等しい。沢筋を突き詰めてのぼると、左の方から踏み跡がやってきていたから、そちらの方を探せば、登山路はあるのかもしれない。それを稜線まで上ったところで、12時を回っていたので、お昼にする。
そこから先は、厚く降り積もった落ち葉を踏んで、等高線を観ながら身を持ち上げる。ともすると方角を見誤りそうなのだが、太陽の位置があるからどちらへ向かっているかがわかる。これで緑の葉が生い茂っていたら、どちらへ向かっているのかさえ分からなくなるかも。車道へ出る。小さな木の手書き標識があり、文字はほとんど読めないが、マジックで誰かがいたずら書きのように「ヌカハキ峠」と書いてある。さてここから、山の向こうへ下る。標識の向こうに山道がつづいている。へえ、こちらかなと少し踏み込んでみる。等高線に沿うように、北へ向かっている。こりゃあ逆だと引き返す。山道の反対側は、密生した植物に覆われ、崖になっているように、大きく下へおちている。元の標識に戻り、車道に沿って歩く踏み跡があるかどうか探す。一つそれらしきのを見つけ踏み込む。地理院地図に、一部だけ点線がついているのがこれかと、小さな木の枝をかき分けて先へ進む。こんもりとした針葉樹に覆われたあたりで、地図に「△431・2」と高度補油辞された三角点を見つける。の少し先を下る点線がある。そこからおりようとするが、GPSをみると行き過ぎている。引き返して、じゃあ、この崖のようになっている標高差50m以上の所を下るのか。そう思ってみていると、暗い崖のような落ち葉に踏み跡のようなところがある。木につかまり、脚を降ろす。ゆっくりトラバースしながら木を伝うようにして降る。これは緊張した。下がはっきり見えるから余計身体が縮む。でも斜面に体を寄せると余計脚は滑りそうになるから、身体を立てて、歩一歩、下へ下へ、右へ左へと辿る。その下にルートがあるように見えない。針葉樹の大木がない所は、朽ちた倒木が斜めに横たわっているのにつかまり、枝をまたいで身を下へと下ろしていく。標高差で80mほど下ったところで、下に明るい広い区域がある。そこへ向かう。すっかり古びた簡易舗装が、下へジグザグに続いている。ああここで、ルートファインディングは終わったと思ったのがまちがいであった。簡易舗装を辿って下ると、どんどん南の方へ行ってしまう。あとで分かるのだが、昔の「埼玉長瀞GC」のコースであったようだ。下山地の長瀞射撃場とはずいぶん離れた方向へ行ってしまう。そこで、いったん、降り立った簡易舗装地へもどり、GPSと地理院地図に記載されている離れた地点の点線下山路へ近づいていく。獣除けの電気ケーブルが引いてあるのを踏み越える。踏み跡は、まったくない。そのうち竹藪にぶつかる。朽ちて倒れた太い竹が進路を防ぎ、枝が身体を通せんぼする。明るい方向へ下りてゆくと、下の方に砂防堤防が見える。地図をチェックするとそれらしき箇所があった。点線はその左側を通っている。もう一度身体を竹藪の上へ持ち上げて回り込み、藪を抜けて下へと抜けると、向こうに太い山道がみえた。
こうして、なんどかのスリリングなルートファイディングを行いながら、下山地に出た。14時10分。行動時間は5時間25分。お昼タイムを覗くと5時間5分。ここでやっと、ホッとした。
朝置いた自転車に乗って舗装路を下り、予め調べて置いたわき道を辿って車の駐車場所に着いた。順調に帰宅し、4時。面白かった今日の山行記録を書き始めはしたが、すぐになんだか疲れたなあと感じて、やめてしまった。根気がつづかないんだね。
それにしても、地理院地図に山名もない山が、こんなに新鮮な刺激を私に与えるとは思ってもみなかった。案外、こうしたルートファインディングのスリリングさに生きている実感を求めていたのかもしれないと思った。