昨日(1/2)は見沼田んぼの東縁を歩いた。快晴。西縁のたけのこ公園から芝川へ出る。よく手入れされた竹林の床が春の芽生えにうずうずしているような気配を感じる。去年の筍の皮をつけた大きな青竹が一層その感触を際立たせる。
芝川の水がゆっくりと上流へ流れている。東京湾の満潮が近づいているときに、この逆流が起こる。揺蕩うように流れてゆく草木の塊にセグロセキレイが降り立って、動き回る。二羽いる。ハクセキレイよりも一足先にセグロセキレイはペアリングを済ませる、とカミサンが蘊蓄を傾ける。バンらしき水鳥が左岸の草影を辿るように水の流れに逆らって下流へ向かっている。顔の赤みはまだついていないのか、緑っぽく見えるのは、光の加減か。顔の白いオオバンが二羽、流れの中央部に出てくる。オオバンはまだペアリングする季節ではないからねと、これも蘊蓄。オカヨシガモのペアがいる。
対岸の木の上に小鳥が群れている。双眼鏡で覗き見る。カワラヒワだ。近づいていくと、独特の声も聞こえる。おおっ、ツグミ。やって来たばかりなのか、木の上にいる。いや、草叢にもいる。ヒヨドリがオレモイルヨと言わんばかりに鳴き声を立てる。
芝川にかかる橋を渡り調整池の西側を歩く。カイツブリが何羽か浮かんでいるが、水面は平たく広がるばかり。ハクチョウがきていないのか。調節地はいつもより水が少なく、干上がっている面積の方が多くなった。中央の中州のアオサギの近くにシギかチドリが歩いているが、それが何か見分けがつかない。
左手下方、岸辺の萱群に小鳥がいる。立ち止まって双眼鏡を覗く。アオジだ。ベニマシコねとカミサンの声に、その視線の先を見ると立木の枝に行き交う小鳥が見える。陽ざしがうまく当たって体の赤っぽさが際立つ。コガモが右岸の隅に身を寄せている。ヨシガモが二ペア、やはり草陰に身を寄せている。おや、川の流れが下流に向かうように変わった。潮が引き始めたな。
大崎清掃工場の脇を抜けて見沼用水路の東縁に上がる。東縁の右岸はときどき車が通るから、狭い左岸の道を歩く。その東側は高台となり樹木農家の養成畑が広がる。言われて目を上げると西の空に富士山が雪をかぶって秀麗な姿を見せている。手前の高い建物は浦和駅周辺だろうか。昨日見沼田んぼを歩いたときは見沼用水路の西縁であったから、その西側の高台や住宅街に遮られて富士山は見えない。東縁だからこその風景だ。こいつぁ春から縁起がいいやと何処からか声が聞こえそうだ。
国昌寺のトイレを借りる。山門が開いている。この山門の欄間には竜が彫られている。見沼の竜を封じ込めるために左甚五郎が彫ったものとされている。封じ込めておくためにつねには閉じて置くと、聴いてきた。開くのは5月の竜の祭りを行うときだけと思っていたが、正月にも開くのか。
この辺り、用水路の水が枯れている。雨が少なく渇水が心配されている。大丈夫だろうか、今年の田植えは。見沼の第一トラスト地の借りている萱などのマルコの草地が平たく拓いている。萱で作った竜がすっかり乾いて古びてきている。その一角が、まるで手付かずの草茫茫。なんでもこの地を借り受けるのに力のあった植物の専門家が「手を付けないで」と厳命したはいいが、他にもかかわるところがあって暇が取れず手入れをする時間がない。その結果、萱が茫茫と生えて周りの手入れをされた土地と際立った違いが生じている。いかになんでもこれって自然保護? と、彼の専門家の口癖を思い出す。
見沼自然公園に来るまでに3時間ほどもかかっている。小さな子ども連れがたくさんきている。池の南側は広く薄氷が張っている。その上を石を滑らせるとキョンキョンキョンキョンと高い金属製の音を立てる。それがどこか鳥の鳴き声に聞こえて、どこどこと目を差し向けてしまった。石が飛ぶから鳥は寄り付かない。皆、水面の広がる北側の芝生に近くに寄り集まっている。岸辺には小さな子ども連れが餌をやろうとするから、餌付けされたヒドリガモやオナガガモ、オオバンが寄りついて賑やかだ。それを敬遠するように遠く離れた水面にたむろしているのはコガモらしい。用心深いのだろうか。カミサンはトモエガモを探している。鳥友が、ここに来ているよと写真付きで知らせてきた。3羽いるらしいが、見渡しても見つからない。
ベンチに座ってお昼にする。お湯を入れてモズクの澄まし汁をつくる。糯米で作ったお赤飯とお節を詰め合わせたおかずが、今日のお弁当だ。ちょうど正午。駆け寄る子どもが池に落ちないように若いパパさんが手を襟に伸ばしながらついて走る。子どもが3人もいるのは兄弟かと思っていたら、パパらしき大人が二人いる。ママ二人もお喋りしながらあとからついてくる。子どもらはあっちへこっちへめまぐるしく飛び回り、大はしゃぎだ。
トモエガモは近くの野田公園に行ったのだはなかろうか、そっちへ行ってみようかと提案して、歩き始める。と、カミサンが私の名を呼ぶ。うん? 振り返ると指さしている。戻って指さす方向へ目を向けると、池の離れた萱群の端っこに、一羽のカモがいる。トモエガモだ。歌舞伎の隈どりをしたような顔が双眼鏡を通してみえる。顔を右へ向けると陽ざしが頭と顔に当たり、一段と輝くようだ。「これで野田公園へ行かなくていいわ」とカミサン。今日ここへ来た目的を果たしたというわけだ。
池の西側を回りながら藪を覗く。何かいた。シジュウカラがいる。うん? ちょっと違うのもいるよ。覗いているとウグイスが藪の上に上がってきた。少し離れた湿地にはメジロもいた。ヤマガラが出てきた。エナガが飛び交う。大きな望遠レンズを据え付けたカメラマンが、板敷の踏路を外れて草地に椅子を置いて構えている。蠟梅がある。サイカチの実がおいてある。ヤブコウジの朱い実がおいてあり、それを目当てにか小鳥が次々と寄ってきている。と、カメラマンの一人がずかずかとそちらへ踏み込んで赤い実をつけた柿を持って戻ってきた。何だ、彼らが撮影スポットをつくっていたのか。「あれって、ルール違反だから」とカミサンが言う。
うん?
「踏路を外れて草地におりてたでしょ。あれってダメだから」と野鳥の会らしいことを言う。カメラマンとは犬猿の仲なのだ。
来たのとは違う畑の中の道をたどって帰途に就く。見上げる、雲一つない青空。去年の3月に撮って年賀につかった写真はこの辺りだったなあと思いながら、ぶらりぶらりと、来た道と人気を避けて歩く。
通りかかる人のほとんどはマスクをしている。ジョギングをする人はマスクをしていないが、なかにはすれ違う私たちを見ると、首にかけたスカーフを鼻まで持ち上げてマスク代わりにするように気を遣う人もいた。それぞれにコロナ禍の社会性を備えてきている。私はマスクをしていると呼気で湿ってくるのがイヤ。人とすれ違うことがなければ、できるだけマスクは外す。だがカミサンは、寒くなってマスクはありがたいと、外すことさえ無用だという。講演し罰の子どもたちは、むろんマスクをしていない。年寄りも若いカップルも大半がマスクをしている。麻生財務大臣あたりが偉そうに自慢することではないが、自己防衛するしかない庶民が身につけた知恵だ。その知恵無用と引き換えに、独裁的な政治権力を導入されては適わないと、そこまでいう時代が来るのかどうか。歩いている途中で、「東京と埼玉が緊急事態宣言を政府に要請した」とニュースが入った。来襲の山は何処にするか。また思案しなくてはならない。
こうして振り返ってみると、私は何を見て歩いているのだろう。目に入る光景の光と影のトーンを感じているのだろうか。鳥を見るのはたしかに面白いが、でも、今日何種見たと数えるほど入れ込んではいない。人の姿も面白いが、だから何だというほどの傾きも持ち合わせていない。なんだか、通り過ぎる風景の、でも一瞬の何かを待ちわびながら、ぶらりぶらりしているのかな。自分への問いが宙に浮いている。
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