2021年1月19日火曜日

ちぐはぐ

 緊急事態宣言をした政府の「特措法の改正」点がはっきりしてきた。「入院を拒む人には罰金や懲役」と報道されている。他方、TVのニュースでは「(入院)待機中が7000人」と、感染したり基礎疾患があるのに入院できず不安を抱えて自宅待機している切実な実情を報じている。このちぐはぐは、何を意味しているのだろうか。

 視聴者からすると、後者の方が切実である。だいたい感染していると分かっても病院に受け入れられない状況で、どうして「入院を拒む人に罰則」なんて話が出ているのか、理解できない。政治を行う人の、このズレが、簡単にいうと「政治への不信」に通じている。

 もうひとつ、ある。

 前者は、統治者目線である。いかに人民に従わせるかと思案している。そのベースには、感染して入院を「勧告」しているのに従わない人々をどう支配するか。「命令」とはいわないで、「勧告」と呼ぶところに、すでに腰が引けている為政者の立ち位置が見えるが、それをさておいても、統治者目線でしかない。

 後者は、庶民目線である。そもそも現状において庶民は、「入院を拒む」ことがそれほど喫緊の課題とは受け取っていない。無論そういう人が感染を拡大する恐れがあることは承知している。だが、それが目下の主要課題かというと、どうもそうは思えない。

 現在、感染がどのように広がっているかを、政府は掌握しているのだろうか。感染不明の割合が半数を超え、あるいは「家庭内感染」がこれほど多くなると、もはや感染源は「人の往来」そのものにあると都知事が指摘する通りに、社会的な広がりを持っている。となると、一人の「入院を必要とする感染者」をどう従わせるかなどは、ほんの片隅のモンダイになる。

 コロナウィルスが入り込んだ初期、感染を告げられた男がカラオケに行き、他人にうつしていたと画像付きで報道されたことがあった。その当人が、後に死亡したと知ったとき、ひょっとすると病院の医師や看護師は手当てを拒否したのではないかと思い、そうであったら当然というか、自業自得というか、痛快だとさえ思ったものである。その程度の報復心情は抱いてるから、「処罰規定」を無用とは思はないが、今(ごろそれ)じゃないだろうと、さらに不信感を募らせている。

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 デジタル時代になり通信と広報が社会的なメディアとして大衆化しているご時世に、政治家や政府や官僚は、世の中で何が起こっているか掌握しているのか。そうおもわせるズレなのである。

 国会議員の多数が「陣笠」と呼ばれていた時代があった。当選さえすれば国会活動では単なる頭数として動員されるだけと蔑む言葉である。その用語の発端が誰なのかは知らないが、それはマスメディアの政治記者が名付けたものに違いない。マスメディアの経済記者は、その「陣笠たち」への取材を欠かさなかったという。彼らは地元選挙区の、あるいは特定業界の経済事情に通じていたからであった。そうしないと、中選挙区制の下では同じ党の他の候補者に議席を奪われてしまう。逆に議席を奪い取るには、野党以上に与党の他の議員の方が競争相手であることが切実であったから、より強く経済現場を掌握するように地元を歩き、業界を束ねていたという。ところが、小選挙区制になって以来、彼ら「陣笠」の方から経済記者に取材があるほどになったと、経済新聞の記者が述懐していた。つまり国会議員の大半は名実ともに、「陣笠」になり果てたのである。

 情報ということに関して庶民は、政治家たちと同じ次元の情報を手にする可能性を示唆している。いやむしろ、特定の業界や特定の領域、特定階層、特定の支持者としか付き合わない政治家の方が、情報が偏ったり欠如していることさえ考えられるのだ。それがTVでの政治家の発言で明らかにされると、謝罪したり取り消したりするかどうかよりも、ははあ、この程度の人間なんだと「不信感」だけが胸に刻まれる。場や面体を取り繕うことが、即、不信感に結びつく。そうしたことの累積が、政治不信の確固たる信条にさえなる。ちぐはぐは、それを象徴している。

 政治家や政府に対して文句をいわない庶民は、面従腹背ですらない。勝手にしいやと、知らぬふりをしている。自分の身は自分で護るほかない。それが「民度の高い」国民の証左なのか、それとも、とうていアメリカの国民に及ばない「12歳児の民主主義」の現実なのか。どうあがいてもすぐには変わらないこと。ゆっくりと考えてみようか。

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