子どものころからファーブル昆虫記やシートン動物記や植物図鑑の細密な図柄には、覚えずずいぶんお世話になった。見たこともない虫や動物や植物を目の当たりにしたような気分を味わっていた。同じように、少年雑誌に載っていた戦艦大和や武蔵の、小松崎茂の挿絵なども、同じような体感を以って世界を感じとっていたと、今になって思う。そこまで細密にモノゴトを観察して描き出す、人の持つ眼力の鋭い際立ちに畏敬の念を憶えたことも覚えている。
植物の細密画がボタニカルアートと呼ばれることは後に知ったが、動物や昆虫や微生物のそれらはどう呼ぶのだろうと、博物学の細密画をみながら思ったこともあった。アートというより手書きの写真とでもいおうか。写真よりも、描く人の情感が込められて、何かを訴えてくる。近頃はワイルドライフファインアートと呼ばれていることを、ネット検索で知った。極めつけのそれは、伊藤若冲になろうか。アートにあふれる。
その細密画をみているような感覚の文体に驚いた作品がある。柳美里『飼う人』(文藝春秋、2017年)。4年に亘って創作した連作短編。イボタガ、ウーパールーパー、イエアメガエル、ツマグロヒョウモンを飼う、妻や夫、若者、母と子の話。妻が夫を飼うような面持ちと重なり、胸を打つ。
柳美里の作品は、登場したころの小説を読んだ覚えがある。どんなものだったかすっかり忘れてしまったが、自傷行為をくり返す若い女性の内面を描こうとした作品だったか。ギクシャクとしてとげが刺さるような読後感をもたらし、お世辞にも読みやすい感触はなかった印象がある。
だが四半世紀を経て目にしたこの作品は、ものの見事に洗練された作家・柳美里の文体を示していた。まったく素人読者の私がこのようにいうことは、口幅ったいが、文章がうまくなった。何処がそうなのだろう。冒頭に記した細密画のような文体である。登場人物の心象は描き出されていない。言葉になるのは、関わっているヒトやモノや動植物との、まさに精細な線や点を子細に描きとる「かんけい」の情景である。それがどのような情感を込めているかは、読む者にまかされている。まさしく細密画をどう受け止めるかが観ているものの受け取り方に任されているように、読者に投げ出される。
読後感は、読む者の自己像を描くように行間にふつふつと浮かび上がる。「飼う」というのは、妻が夫に料理を提供することが、まさしく給仕するごとく、冷めてはまずいだろうからとレストランのサービスを受けるがごとくつぎつぎと食卓に並べられてくる。全力投球の献立は「飼われている」夫の思いを忖度してはいない。逆に夫は、自らが稼いできたお金で妻を飼っていると思っているかもしれないが、そのことは、行間に漂うだけで明示されているわけではない。
妻と夫の関係の「飼う/飼わない」であれば、出口のない齟齬と疎通の関係で息詰まるところだが、独り者の若者や大震災や原発事故の汚染地区に住むことになった母と子が登場することで出口が開かれている。それは、より巨大な、何者かによって「飼う/飼われる」関係に置かれていくことが暗示される。それもしかし、読む者の行間にみてとる自画像だと気付くことによって、「飼う人」というタイトルが普遍性を獲得し、自らを写してあまりある感触を残す。
柳美里の、昔読んだ小説の読後感のひりひりと重なって迫っては来るが、自らの自己像という感触があるから、棘が刺さるというよりは自らの内側の思わぬささくれに驚いている。
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