昨日から今日にかけて、関東地方は雨。気温もさほど下がらず、雪にもならなかった。垣根のイヌツゲも青さを取り戻したようにつやつやとしている。何より乾いた地面が黒っぽく湿り、落ち着きをもったように感じる。
昨日(1/23)は2時間余、住宅地を逍遥した。逍遥というとカラマツの林を散歩するような気分にみえるでしょうが、アテもなく1時間ほどの遠方まで行き、1時間ほどをかけて戻ってくるだけのこと。ただ、ぼんやり方向を胸中に思い描くだけにして、目に見える森や林を辿りながらすすむ。ときにはその森の周りをぐるりと経めぐり、神社があると境内に上がって拝殿に向かう。傘をさして境内への石段を上がっていると傍らの森からキーッキーッという鳥の声が聞こえる。ヒヨドリにしては音程が低い。へっ、こんなところにカケスがいるのかと思うが、わからない。
いつも自分がどのあたりにいるかの見当をつけているつもりであるが、古い住宅街の道をたどっていると全く逆の方向へ向かっていたことに、のちに気づくこともある。晴れていればお日様の位置によって方角がわかるが、雨とあってはとんと見当がつかない。加えて、大字や字を知らないから、電信柱や住戸の住居表示をみても、わからない。聴いたことがある字だなと思っても、じゃあ南の方へ向かえば自宅に近づけるとは思うが、どっちが南だかわからない。たぶんこちらへ曲がればいいんじゃないかと右へ左へとすすむと、全く逆に向かって歩いていたということになる。
そういう迷子になっている気分を、逍遥と呼んだ。それが面白い。スマホを開いて「今どこにいるか教えて」とgoogle-mapに問えば現在地点はわかる。「家へ帰る道を教えて」と言えば、ルートを表示してもらえる。しかしそれをしないのが、いかにも年寄りの「迷子」らしく「(安全を担保して)自立」している。
中学校や小学校に出くわすと、大体の地点がわかる。1時間でずいぶん歩くものだ。近頃はスマホの歩数計が歩数と距離と時間を測定してくれる。昨日は、12km、2時間半、18500歩ほどを歩いた。時速5km弱か。たいした速さではない。こうして数値化されて記録されると、なんとなくそれに合わせて日々歩こうという気になるのは、気性だろうか。
自分の体がそのようにうごいているのは、いやだなあと思う。都会のタイルを張った歩道を歩いているときに、ふと気づくとタイルとタイルの境目の線を踏まないように歩幅を調整している。なんだか歩道の設計者の注文に操作されている気分になって、いやなのだ。古い住宅地にはそのような歩道はない。気性に導かれた衝動と人為的な他人の設計に操作されているような気分に対する抵抗とが交錯して、私の逍遥をかたちづくっている。
地面もそうだが、樹木も久々の雨に落ち着いた気配を湛え、醸し出す。神社がこんなに多いのだ。屋敷の敷地の中の森に囲まれた鳥居や祠もある。あるいは、昔の集会場の傍らの区画にちょっと大きめの祠があり、「**山」と文字が暗くて読めとれない扁額を掛けた鳥居が立つ。この地区の守り神なのだろうか。
雨のせいでか、幹線道路の車が渋滞している。そこを避けて裏道へ、裏側へと入り込む。樹木や植栽をしている広い畑があるかと思えば、広大な地区一帯が整地され、屈曲をもった立派な街路が設えられ新築の戸建て住宅が立ち並ぶ地に出たりする。耕作地から住宅地へ、農村部から新興住宅街へ変貌を遂げる世代の移り変わりが未だにつづいている。その姿が見事に反映されているのだと思いながら、何処へ向かうのかもわからず、ふらふらと歩き続ける。だんだん歩いていたくなる土地が減ってきていると思いながら。
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