2021年1月22日金曜日

まずは、無事でよかった。

 去年の秋、「どうしているか、乞う連絡」という記事を掲載したことを、憶えている方もあるかもしれません。タイに住む私の古くからの友人・Yさんの消息が途絶え、加えて私のスマホが壊れて、それまでのデータが失われてしまったために、Yさんに呼び掛けるかたちで記事にしたものでした。その後もわからずじまいでしたので、彼の地で彼岸に逝ってしまったかと思っていました。

 そのYさんからair-meilが来たのです。国際郵便です。いや、良かった。生きていたんだと嬉しくなりました。8カ月ぶりの消息です。

 ノートを切りとった便箋に、わずか150文字ほど。5行ほどに分けて、たどたどしくではありますが、まごうかたなくYさんの筆跡。

 ガンになったこと、完治しないこと、完治しない病気になることが辛いこと、もう会えないことが記され、お訣れの言葉が添えられていました。

 共通の友人であるY105さんにYさんの消息を訪ねたことで、私が心配していることが伝わったのでしょう。ということは、ブログを読むどころか、スマホのメールをみることも叶わぬほど苦しい状態が続いていたのだろうと推察しています。

 逆にいうと、やっとY105さんとのやりとりを交わす状態、気分にもなり、150文字ほどであっても国際郵便を出すくらいの元気を取り戻しているということではないでしょうか。そう考えて、喜んでいるわけです。

 文面には、「健康に留意して山行を続けてください」と私に対する気遣いもありますから、自分のことだけで精一杯という状態から抜け出し始めている気配が感じられます。ただ、もう会えないということが胸に迫って永訣の言葉になったのだろうと思いました。

 末尾の「令和3年1月  ***拝」という署名が元号であることにも、祖国に対する彼の思いが溢れているように感じ、思わず涙するようでした。

 さっそく手紙を書いて投函しました。郵便局の方には「コロナのせいで先方への到着が遅れるかもしれませんが、ご了承ください」といわれました。「平生ならいつごろに?」と訊きましたが、分かりませんという返事でした。彼の目に届くよう着くことを願って投函した次第です。

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 手紙を書いていてふと思ったのですが、プリントアウトされた紙の上の文字をみていると、PCのモニター画面を見ているのとは、感触が違います。手紙は、読み返せます。もちろんスマホの画面も読み返せるのですが、文字が流れて急いで次へ移っていくように感じられて、意味を読み取ることだけに限定されてしまうような感触です。ですが手紙の感触には、空間があります。便箋の広さが、いわば絵画の額縁です。区切りとられていることによって、その中が一つの世界として独立して意識されるのですね。

 こうも言えましょうか。額縁のように限定することによって、そこに書き落とされたことが「それ自体」として浮かび上がる。モニター画面では「せかい」と地続きになって、輪郭がおぼろになり、「それ自体」のたしかさがぼやけてきてしまう、と。とすると、額縁によって限定された手紙というのは、文章の記す世界を分節化して限定して「せかい」を際立たせるのではないか。

 パソコンで打った文面をプリントアウトして封入したのですが、考えてみると筆跡というのは「それ自体」の端的な要素ですね。私は文字が下手だからPCで打っているのですが、手紙は手書きにするのがいいかもしれません。

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