今朝、と言っても朝なのか深夜なのかわからないが、夢うつつに二つのことが思い浮かんだ。
一つは、一昨日のぼたん雪のこと。はじめ白いものがぽつぽつと落ちてきた。それが三つになり、四つになり、やがて無数に白くなって落ちる。「5センチくらいあるね」と後を歩いているカミサンが言う。うん、そんなに大きいかなと思う。そのうち、ぼたっ、ぼたっと地面に落ちて音が立つように思った。だがさほど進まないうちに、大粒のぼたん雪が視界の一面を覆い、みるみる見沼田んぼが白い色どりに覆われていく。その進行形が、面白く感じられた。夢うつつは、そのイメージだ。
もう一つは、昨日この欄で記した「妙な小説」について。
はたと気づいた。この小説は、作家が「愛」という幻想をはぎ取ってみた「性」。いや、幻想をはぎ取ってみた「性」は単なる生理作用だが、人というのはそのような機能的な「かんけい」だけで生きていない。その日常のたたずまいの中の「性」を個体に紐づけしているのが「愛という幻想」。それも、機能的に純化して行けば、「記憶」にたどりつく。
では記憶が「愛」に代われるかとなると、そうはいかない。「記憶」すら、機能的に純化すると、例えばランダムな数字の配列を短時間で覚える技能に変化する。そのココロは、意味がない、ということ。意味が欠落した「愛」(という記憶)は、なんだろう、かたちのないイメージ。
そこまで到達して、この小説、佐藤正午『5(ご)』(角川書店、2007年)は、人の日頃の暮らしの原点へ辿りつく。暮らしの原点は、「かんけい」。かたちが見えない。せいぜい、永井荷風のいう「芋づる式」か、夏目漱石が『虞美人草』で行ったという「運命は丸い池を作る」イメージを想いうかべて、幻想をはぎとった作家は、自分の記憶の原点へと旅立つ。原点があるわけではないが・・・。
ひとつ目の雪が覆っている「幻想」が、溶けて流れて、地面が露わになると、たちまちつまらない日常が浮かび上がる。では、なにを動機にして人は生きているのか。イメージにせよ、言葉にせよ、「かんけい」を機能的にみてとるようなことをしていては、実存の意味すらつかめない。でも現代という時代は、機能的な「10」を求めて蠢いている。「5」じゃないかと、ぼんやりとイメージしている感触が、夢うつつに浮かんできた。
あさきゆえみしゑいもせず。ん。
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