おもろい講釈師がいてましたな。
なんのはなしや。
大島真寿美ちう、なんやけったいちうか、うまいなにわことばをつこうてな、しゃべりとおしてんねん。聴いてたらな、なんやら今風のイントネーションちうのまで耳の奥にひびいてるようじゃったがな。
なんや女講釈師かいな。
あんた、いまのご時世に、男や女やなんて口きいてたら、どやされまっせ、世間様に。そや、おなごしや。それもな、なにわのお人やないみたいやで。生まれは愛知っち書いとるけど、育ちはなにわなんやろか。そういうこともありまんな。
なにしゃべってんねん。
いやな、近松門左衛門の跡を継いだちうお人のな、こんまいころからのうなるまでをな、もうまるでみてきた講釈師みたいにな、つるつるつるって出てくんねん。それがまた、その場にいてたようなしゃべりでな、読んでる方も一気呵成やなおもうて読むんやが、いやなかなかおもろうて手間取りましたわ。
ええっ、読むって、本でっか。
そや、『渦――妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)魂結び』ちう文藝春秋の2019年に出したもんや。
なんでっか、その「渦」ちうのは?
そやなあ、門左衛門の近松っあんは、人形浄瑠璃の立作者やったんやけど、跡ついだっちゅうお方はな、ちっさいころから道頓堀の芝居小屋に入り浸っててな、気ぃついたら周りの子ぉらに喋り聞かしたってんねんて、その浄瑠璃の話をな。それがおもろいってえか、子ぉばっかりじゃのうて、周りの大人衆も聞きほれてな、そん子のイチ評判になってんねん。気ぃつかんのは、そのご本人だけちう仕立てもな、わしらも身に覚えのあることじゃけん、おもろいやん。そんでな、いつン間にか人形浄瑠璃の噺の渦に巻き込まれっちう様子を書いてんねん。
噺の渦ちうて、なんでんねん。
浄瑠璃の噺ちうのもな、立作者だけの腕でつくりあげんじゃのうてな、演じるお方も、座の親方も、いろんな方がああやこうやと口差し挟んで仕上げていくいうのんが、ようわかる。
ということは、なんじゃい、道頓堀の浄瑠璃に傾ける気風が皆盛り込まれっちゅう話かや。
そういうこっちゃが、そんだけじゃのうてな、人形浄瑠璃の噺が評判になるやろ。するとな、それよりもっとおもろうして歌舞伎に移し替えたり、びっくりするような仕掛けを仕組んだりするやろ、ご近所の芝居小屋が。それがまた、浄瑠璃の作者のな、よし負けんで、もっとおもろしたろちう、大きな渦になりよんねん。
妹背山婦女庭訓魂結びちうのはなんやねん。
その「妹背山婦女庭訓」はな、勝手に門左衛門の跡継ぎちう近松半二のつくったもんやけど、つくるちうよりも、天からものがたりがおりてくるふうなこころもちも、よう書けてんな。
ほな、その時代の世間の風がみな吹き寄せてきてつくったちう空気が書きこまれてるってことかい?
そやそや、あんさんうまいこといいまんな。
ほなら、浄瑠璃や歌舞伎だけのこっちゃないやないか。わしらの毎日の暮らしも、ほら、蝶の羽ばたきが地球の大嵐になるっちうふうに、みな縁があるっちうこっちゃろ。
そやなあ、噺が天から降ってくるちうのも、いつ知らず周りの空気を吸って身に沁みてるちうことが口をついて出てくるちうか、筆を通して文字になってくるちうか、そういう不思議なことかも知らんな。ああ、それが、「魂結び」ちうサブ・タイトルになってんねんな。
そおかあ、魂結びちうのは、なんや売り出し中の決まり文句みたいであんまりおもろないけど、気持ちはわかるわな。わしらが受け継いでることちうのは、魂だけやもんな。
そやそや、こん本、読まんあんさんの方がようわっかとるみたいやな。読んだらまた、気ぃついたこと聞かせてや。
あほらし。あんたから聞いたら、もう読まんでもええて思うたわ。そやって、魂結びやんか、わてらも。
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