人の利他的な振る舞いは、自らの内心への「かんけい」を省察することから生まれて来る。そう描いた小説が、真保裕一『赤毛のアンナ』(徳間書店、2019年)。モンゴメリの『赤毛のアン』の変奏曲といってもいいが、カスバート家に引き取られたアンと異なり、引き取られなかった子どもはどうなったろうという、「もう一つのアンの物語」である。
アンと同様アンナも世間の偏見にもまれて奈落の底のような環境に身をおくことになる。そこで、天真爛漫に自己を貫こうとしたアンは、イギリスという階級文化の違いが生み出す厳しい視線にさらされるが、引き取られたカスバート家の大人が「保護膜」となってアンを護る。2020/12/1に「人手を経た物語と虚飾の重さ」として、子どものころに読んだつもりになっていた「赤毛のアン」はリライトされた物語であったのに対して、原作をドラマ化した物語は、イギリスの階級文化が骨の髄にまでしみとおっていることを感じさせた、と書いた。
だが真保裕一のアンナは、階級分化の違いという分別を弁えない/平等社会・日本において、「保護膜」を取り払われてどう生きていくか。「家族」という保護膜さえ崩れて、子どもも独りで、社会の「同情」という偏見にも立ち向かわねばならない。文字通り自己の個人責任で、世の中に向き合っていくのは至難の業であることを素材としている。
真保裕一は、じつは、そこまで酷薄な人ばかりの世の中を描きはしない。アンナの利他的な振る舞いに薫陶を受けた友人や同僚やその知り合いたちがいろいろと手を尽くして、アンナの緊急事態に手を貸してくれる。いかにも真保裕一らしい展開を読むことになる。
だが私は、ちょっと違った感触を持った。というのも、イギリスの階級文化は、「家族」という保護膜の外に、「階級文化」を「社会的保護膜」としてもっているのではないか。「保護膜としての階級文化」というのは、分別の境目が目に見えていることを指している。となると、「階級」とは言えないが、アメリカの人種も、言語も、出自も、社会の中においては、「目に見える分別」として、心裡においては作用している。良いか悪いかは別として、「目に見える分別」を、どう位置付けてどう扱うかが、例えば今般のアメリカ大統領選の行間で争われていたのではないか。言葉にならない、あるいはしてはならないという規範を、ぶち壊して、あらためて再構成する機会として、1億5千万ほどの人たちが自らに問う機会をもったとは言えまいか。
日本には、それがない。「単一民族」という幻想が社会的に生きていれば、それはそれで「保護膜」として、逆にそれによって「保護」されない人たちにとっては「差別要因」として作用する。だがそれはすでに「幻想」であるばかりか、誤っていて有害であるとみなされている。あるいはまた、日本国憲法のいう「国民」さえもが、「日本国籍を持った人」という意味で用いられてさえ、不十分だと外国からやってきた人たちと共住しなくてはならない社会が出現している。にもかかわらず、観念の中の「幻想」は否定されたにしても身体に沁みこんだ「感覚」は依然として「単一の共同性」を求めている。つまり、目に見えないことを「分別」せよということの困難さが、「赤毛のアンナ」には漂う。
もちろん「階級的偏見がない/平等社会だ」という「社会感覚」が活きてくる場合もないわけではないであろう。アメリカのように、一度は意識的に乗り越える機会をもたないと、「保護膜抜きにして」個人責任で生きていく酷薄さを、日本の社会は乗り越えられないのではないか。真保裕一も、そこまで描き切ることができなかったように、私は読み取った。
ハッピーエンドに終わるよりも、むしろ苦渋に満ちて「孤独」に生きるアンナの結末こそが、現実を描くのにふさわしかったのではないか。そんなことを思った。
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