2021年1月17日日曜日

暴力の発動と抑制と非暴力主義

 アメリカの大統領選の最終局面で、トランプ支持勢力が議会に乱入したのは、予想外であった。2020-11-28のこのブログで「撤退戦を戦うトランプ」を記したとき、どうこう言っていても最終的には投票結果に従うほかあるまいとみていたのだが、トランプはもう一つ先の「抵抗」を考えていたとわかった。つまり議会で当方結果を承認するときの議長をペンス副大統領が務めるのを最後の切り札にしていたのだ。議会に侵入したトランプ支持者たちが「ペンスを吊るせ」と叫んでいるのを聞いて、こりゃあ撤退戦ではないわ、と思った。

 と同時に、ひとつ氷解したことがあった。作家・埴谷雄高のいう「奴は敵だ、敵を殺せ。それが政治の要諦である」(『幻視の中の政治』)というのをトランプは忠実に追っていたんだ、と。今回に限らず、トランプはつねに「敵」をつくり、それに対する仮借ない攻撃を通じて支持者を獲得し、支持勢力を広げてきた。それに加えて、交渉はすべて「取り引き」であった。相手の手を読み、脅したり宥めたり賺したりして、落としどころを探る。最初、高めに吹っ掛けて、適当なところで負けてやることも算段の一つに入っている。そういうやり方が、国際関係の交渉術であるとともに、譲れないことについては周辺の異見を排除して強行する。まさに埴谷雄高の指摘した政治の要諦を踏まえていたのだ。

 撤退戦でなかったら、なんだったのか。最後の最後で「暴力は非難する」とチャッターに書きこんだらしい。それがどのような思惑で書かれたものかわからないが、辛うじてそこに、アメリカ民主主義の歯止めが利いたと言えようか。もしこのあとバイデンが無事就任したとしても、彼が引退するまでトランプ支持勢力の反撃が持続するとなると、「奴は敵だ、敵を殺せ」とする振る舞いが、今後の政治局面のすべてで続くと考えられる。その恐れを排除しようとしたら、共和党が自らトランプ排除を選択するしか、道は残されていない。

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「奴は敵だ、敵を殺せ」という政治の要諦は、暴力の発動を組みこんだ言説である。そういう意味で埴谷雄高は人間社会の本質に属する暴力性を視界に入れて、世界を見ていたのだ。

 ところが私たち戦後民主主義は、民衆は武装解除し暴力を国家に独占させることによって実現すると信じてやってきた。新憲法の「平和主義」もまた、その暴力排除を国際関係に持ち込んで推進することと考えてきた。そういう意味では、非暴力主義なのである。第二次世界大戦を経た人類史的教訓が「新憲法」に体現されていたのである。ただ一つの瑕疵を除いて。それは、わがコトとして自ら決断したことではなかったことである。「押し付けられた」かたちで、しかし、最善の道を歩むことになったのであった。

 アメリカは違う。理屈ではジョン・ロックの「抵抗権」などというが、国家が人民の意思に反する道をすすむとき、人民は暴力を以って抵抗する権利を持つとする思想が、根づいている。それがトランプ・サイドから発動されているのが、先週から今週にかけてのアメリカで起こっている出来事だ。私たちは、アメリカの動きをみるとき、じつは、私たち自身の非暴力主義的な(現在の)体質を見つめている。何処に歯止めがあるのか。それが、トランプを支持しない人民の力によるのか、アメリカ民主主義のシステムにあるのか、その双方の絡まり合った社会的な力がどう作用するのかを、注目してみていたいと、私は思う。トランプ支持者に反対する人々が、どのようにアメリカの民主主義を打ち建てていこうとするのか。それがどのように、トランプ支持者をも含みこんで進展していくのか。そこに、アメリカ民主主義の真価が問われている。トランプのツイートを永久に停止するというツイッター社の判断を、ヨーロッパの独仏は批判しているという。だが、そこにこそアメリカ民主主義の選び取る道筋が浮かび上がっているように見える。

 当然、ファシズムは民主主義の生み出す一つの帰結であることも、承知しておかねばならない。あるいはまた、トランプ支持者ほども、私たち(日本人)は「現実政治」に対して、わがコトとして向き合っていないことも、胆に銘じなければならない。ただ単に、日本の非暴力主義を非難すれば済む話ではない。

 むしろ私の感懐では、非暴力主義に徹してわが国が滅びようともそれを貫く方が、身にあった道ではないかとさえ思う。非暴力主義とは、力のないものが究極の形で「選び取る」方策なのだ。「滅ぶ」というとき、何が滅ぶのか。「守る」というとき、何を護っているのか。

 アメリカがどのような道を進むかが、言うまでもなく今の日本の先行きに大きく影響する。とは言え、状況にただ流されるだけでは、「選び取る」ことにならない。力のないものが、自らの生きる道筋を「決める」には、何をすることがわがコトとしていま重要なのか、それを考えるきっかけを得ているように思う。

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