2021年1月29日金曜日

大隠は朝市に隠る。

 妙な小説だ。佐藤正午『5(ご)』(角川書店、2007年)、図書館の書棚にあるのを手に取った。作家の奔放な性的渉猟と創作と女性たちとの、つかみどころのない悶着。と思って読みすすめていたら、理知的な思念と身体的な反応という、二項対立的にいうと、その二つに引き裂かれた人の特性が対照され、そのいずれに「10」の才能がもたらされても、人との関係はうまくいかず、ほどほどのバランスをとって「5」を与えたまえというメッセージを込めているのかと思いつつ読むが、そう単純に二項対立にしているわけでもない。

 理知的な領野が未来予知的な才覚に顕れるような気配で、終わる。ただひとつ、才覚の「10」をもったものは、市井に身を隠すようにしてクラスのが賢明よという世間知でお話しはおしまいになるが、何だかそんなことを言いたいがために、こんなに延々と綴る必要はない。

 つかみどころがないのは、文通に登場する作家のジョークだったり、皮肉だったり、女に対するからかいの言葉だ。そのかけひきを愉しむために、これだけの文章が必要だったとすると、書き始めたときにどこへ向かうかわからないが、内側から湧き起る想念をどうあしらったらいいか、書いているっ本人もわからないままに書き落とし、書き落とすとすぐに何を書いたかはどうでもよくなり、次へと目が移る。そういう女との関係も、そのままに、捨てるでもなく留めるでもなく、シゼンショウメツするがごとくに移ろっていく。

 最後にぽんと、「大隠」という言葉が出てくる。ある特殊な才覚をもったものは、市井に身を隠せ。「大隠は朝市に隠る」と言いたいのであろう。となると、なんだ、世間的な同調性を忘れずに暮らせよという俗言に身を寄せているのか。「和光同塵」という言葉も、ただそれだけがポンと投げ出されて、捨て置かれる。ある特殊な才覚が、世の中の市営の民として暮らしている人々に、何か恩恵をもたらすということを言いたいのかもしれないが、そういう描写は(これと言って)あるわけでもない。

 妙な小説だ。この作家がどんな方か知らない、ただ、「5」というタイトルに魅かれて手にとったのだが、ヘンなの、と感じて終わった。

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