緊急事態宣言が出され、夜8時以降ばかりでなく、昼夜を問わず「外出自粛を」とメディアはかしましい。ただでさえ引きこもりがちの年寄りは、ますます家に籠って運動不足になる。
東洋経済onlineの2021-1-12号が《コロナ禍「歩行数が減った人」を襲う老化リスク》という記事を伝えている。ライターは福光恵。足の病気に特化した病院、下北沢病院の理事長で、足病先端医療センター長を務める、久道勝也医師に取材して、歩かなくなっている現状を指摘している。
コロナ禍のせいばかりではない。移動交通手段が便利になった。ことに人口の社会増がつづいているさいたま市ではバスの運行網が細かく張り巡らされ、すぐ近くにバス停が整備されたりする。鉄道の駅までわずか1000メートルほどなのに、バス停が3つも4つもある。朝の通勤時にはそのバス停に行列ができる。そうなるとますます歩くのが億劫になる。歩かなくなるというのは、コロナ禍を考えなくてもわかる気がする。歩くかどうかは、気持ち一つの違いなのだ。
東洋経済onlineの記事は「老化リスク」とあったから年寄りに対する警告と思って読んでみたら、そうではなかった。「中年」に対する警告であった。1432歩も歩行数が減ったと記している。元の歩数がいくらだったか記載していないから1400余歩がどの程度の減少なのかわからないが、約1キロ歩くくらいの減少ということだ。コロナ禍でバスに乗るようになった? 違うだろう。テレワークとかリモートワークとか言って、通勤さえしなくなったことを指しているのであろう。だが逆に、子どもを連れて散歩に出たり、買い物に足を運んだりすることを考えると、一概にコロナのせいにするわけにもいくまいと思う。
現役で仕事をしているときは、できるだけ歩く。十数キロの通勤には自転車を使う。エスカレータやエレベータをつかわず、階段を歩くように心がける。健康のためというのではなく、山歩きをしていたから、脚力を持続し、鍛えるためであった。仕事をリタイアしてからは、自転車もできるだけ使わない。4㌔程度の往復なら基本的に歩く。12㌔ほどになるとやっと自転車を使う。それでも、散歩をする習慣がなかったから、週1回の山歩きで良しとしてきたのだが、傘寿を前にしてからは、なぜかそれだけでは身体がなまって「運動不足感」に身がうずうずする。それで年初から始めたのが毎日歩くこと。
上記東洋経済onlineの記事は、「ジムで汗を流すのはサプリと同じ」として、歩くのとは違うと書いている。それで思い出すのは、あるお年寄りが参加した山歩きのこと。カルチャーセンターの催しで大菩薩峠へ案内したとき、一人のお年寄りが「毎日4時間歩いている」と意気揚々と参加した。ところが歩き始めて1時間ほど、大菩薩峠の山頂にまだ一息以上というところで、へばってしまった。結局サブリーダーがついて彼だけ別ルートで下山してもらった。毎日4時間歩いていても、平地と凸凹の多い山とでは身体のつかう部分が全く違う。持続力も疲れ方も思いのほかになってしまうのであった。「サプリと同じ」というのは、そういうことであろう。とすると、毎日散歩していても、関東地方の平坦な土地では、山歩きの筋力を持続することにはつながらない。せいぜい、四国八十八カ所巡りをするときの、歩行能力というところか。それでも、四国のお遍路さんは全行程1200㌔あるから、毎日2時間程度の散歩では、とうてい全部歩き通す力には及ばない。
文明の力を享受することがヒトとしての身体能力を衰退させるのだとすると、果たして「文明」の進展と手放しで喜んでいいのかどうか考えものだ。でも、都会の人は車に乗らないで歩くのねという(田舎で歩いているときにいわれた)ことを「文化」と考えると、文明と文化が逆立する局面に差し掛かっているのかもしれない。
それを敷衍していうと、以下のように言うことができる。
資本家社会というのが差異性において利益を生み出すシステムだと考えると、その交換システムの最終局面の貨幣によって、皮肉なことにその差異性を帳消しにするような共通価値観による平準化が行われている。つまり、差異性が多様性として保持されている商品存在の固有性が、交換価値によって価値基準が平準化され、差異性を消してしまっている。それはちょうど、労働力を「商品化」することによって労働力の差異性を平準化してみてしまうように、商品生産も、その交換舞台に置ける需要の多様性をも、一つの価値に変えて陳列してしまうという「幻覚」に覆われてしまう。あたかもその交換が市場という目の前で展開することによって「現実」のことのように屹立して、人々の胸中に確固たるリアリティをもたらすように。まさしく貨幣の物神崇拝性である。それが社会全体を覆うとき、「資本家社会」は完成する。それに従って己の在り様をかたちづくってきたヒトは、いま、実存の瀬戸際に立たされている。そこに発生しているのが、「文明」と「文化」の逆立という事象だといえないだろうか。
AIの発展によっていずれ引き返し不能のポイント、シンギュラリティがやってくるというが、それ以前にはや、ヒトの変貌という引き返し不能ポイントがやってきているように思う。
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