2021年2月28日日曜日

21世紀2合目の2月の自粛

 早いものだ。もう2月が終わる。今月は埼玉県内の山、三座をうろついた。うち二座は同行者がいた。ありがたいことだ。三座とも、軽いハイキング。春模様の暖かい陽ざしの中を、気持ちよく歩く。アプローチに車をつかうのが2時間以内というので考えると、三峰口の先まで足を延ばすのはムツカシイ。すると、たいていの山は二度目、三度目ということになる。そういうわけで、「奥武蔵・秩父」の地図を傍らにおいて、さて来週は何処へ行こうかと思案する。ま、これも楽しみのうちだし、幸か不幸か、むかし登ったルートはほぼ忘れているし、季節も違うだろうし、歩いている途中の関心の向け方も変わってくるから、新鮮さは変わらずについてくる。

 山には(健康上の理由で)登れない私の友人が、「(今登る山の)テーマは何?」尋ねたことがある。そうか、日本百名山踏破とか、二百名山とか、山梨百名山とか、栃木百名山とか、群馬百名山というのも、それぞれの県の観光協会か何かが設定しているようだから、それを制覇するっていうのも、テーマになるかもしれない(埼玉百名山というのは、なぜか、ネット検索をしても、ない)。ただ単に、目標設定を社会的な評判に基づいて行おうとする気分にすぎない。もちろん社会的評判は、それなりに踏破することの困難さなどの評価がついていたりする。つまり外的な価値づけに、わが身を合わせて「○○百名山を踏破した」とか「○○山を何百回登った」という上着を被りたいのかもしれない。しかし後期高齢者になっては、そんな外套は、もう、いらない。

 そういう山歩きを「ピークハンター」と名づけたりもする。しかしそれは、たいてい蔑称というか、山歩きの邪道だと私は受け止めている。次元を変えて、山歩きをする衝動の本筋をみると、山歩きそのものがある種の「瞑想」気分に誘うところにある。それが、病みつきになって、ついつい毎週のように登らないと落ち着かない気分が湧いてくる。別様にいえば、生活習慣病である。この心の習慣が、齢をとってみると、健康であることと結びついていてご推奨ってことになり、「お元気ですね」と周りもちやほやするから、ますます調子に乗って家を出ていくってことになる。ああそうか、周りの目がわが身の在り様を定めてくれるというのも、外套のようなものか。

 例えば三浦雄一郎さん。80歳でエベレストに挑戦したときには、いろんな評価が飛び交った。そのお歳でチャレンジ精神が凄いというのもあれば、援助・介助の人たちがずいぶんいて、お金も掛けている。あれは迷惑登山だと批判的な声もあった。いいじゃないか、あれがあの人の山歩きなんだよと、批判的な意見を言う山友に、私は私見を述べたこともあった。だが最近、井戸端週刊誌の見出しに、「三浦雄一郎91歳でエベレストに意欲」とあったのを目にしたとき、ああ、この人はエベレスト病に取付かれて、山歩きの本質が見えなくなっていると思った。つまり外套に気をとられて、自身の内側の声を聴きとれないのだ。というか、自分の内側まで外套が覆ってしまっていると言おうか。ま、それほどにヒトというのは、外套に目をくらまされやすいとも言えようか。

 散歩のように毎日歩くには、山里に本拠を置いておくのがよいが、そうは自在に暮らせない。おのずと、山に入らない日は、住宅街をうろつくしかなくなる。ところがさいたま市の場合、関東平野のほぼ真ん中。高低差はせいぜい20メートルもあればいい方だ。そこへもってきて、いたるところが舗装され、階段が整備され、橋が掛けられて、歩くのに障りにならないように「社会的整備」がなされている。道路管理者が、事故が起こらないように、障碍者が通行するのに不自由がないようにと至れり尽くせりの手当てをするから、足元に気を集中し、地面の起伏や傾き、木の根や岩のごつごつが体の傾きを支えるのに、どう作用するか、そこを通過するわが体の重心移動がどう運びつつあるか、そういうことに夢中になるあまり、「瞑想」が起こることが、ない。つまり平地の住宅街を歩くのは、いかに長時間歩いても、山歩きとは次元が違う。それほどに、現代の都市生活はヒトを手名付けて体を根底から変えてしまっていっている。

 いや、ヒトがそう変わることを良いとか悪いとか言っているのではない。だが、山歩きの「瞑想気分」を平地の街歩きで味わおうということはできない。そう言いたいのだが、かといって山さとに引っ越すほど暮らし方を変える元気がない。私が味わえなかった暮らし方を、山さと暮らしの方々は日々味わっているのだと、うらやむばかりである。

 21世紀の2合目がはじまって二月が過ぎた。2月というのが、この後何回私にあるのかわからないが、果たして3合目までたどり着けるかどうか。カミサンは「外套も着てみると悪くないわよ」と、日本百名山を8つほど残す私を、けしかけている。私の体力が、残る百名山に適応できるかどうか推し測っているのかもしれない。自粛ばかりではなくなれば、コロナ感染に用心して、県外へ出かけてみたいという気分にもなっている。ぼちぼち、今年の4月から11月ころまでの山計画でもたてるか。

2021年2月27日土曜日

関わりにおいて密、交わりにおいて疎

  映画「ボヘミアン・ラプソディ」が再上映されているというので、観に行った。1年半ほど前上映館は、人で一杯であった。その少し後、私の高校の同期生が「私の人生に寄り添ってくれたメロディ」と題したSeminarの掉尾を飾る話しとして「ボヘミアンラプソディの秘密」を供した。Mama just killed a manにはじまる原曲の歌詞を紹介し、フレディの身を置いた境遇に思いを馳せ、詩句の語りを人類の終焉と重ね合わせて受取り、「自分が自分を殺す歌だ」と解説を加えてから、自らヴァイオリンを弾いて聴かせてくれた。再上映館は、ドルビーシステムを整えている館であった。文字通り「自分が自分を殺す歌」の響きをはらわたに沁みるように(空席の多いなかで)、全身で感じてきた。フレディがピアノの前に座り、いくつか鍵を叩いてから、Mama just killed a manと声を放ったとき、思わず涙がこぼれて止まらなくなっていた。

 映画そのものはロックバンド・クイーンの物語なのだが、収録した曲の音はすべてクイーンの演奏をつかっていると評判であった。その音が、己の人生を謳いあげること一筋に生きた(私たちより4歳若い)男の人生として、「寄り添っている」ように感じたのは、同時代を生きたという感触なのであろうか、その(揺れ動きも含めて)ひたすらな一筋に、わが人生を重ねてみているからなのか。重ねていると言っても、私たちはごく平凡な市井の民として年を経てきたから、フレディの在り様そのものは、わが人生の反照ともいえるものであったが。

 音というのが、身に直に響いて伝えてくるものを強く感じている。ことばにすることをためらうほどの、密度をもってわが内腑に落ちていく。

 そしていま、似たような響きを伝える小説を読み終わった。青山文平『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)。音ではない。言葉を紡いだ作品だが、内腑に落ちていく密度が、同じように濃厚であり、私の現在に接着して、かつ、批判的である。

 音ではないが、能舞台における所作・振る舞いをことばできっちりと分けていく。その綿密さと子細に届く視線が、読み手の姿勢をきりりと引き締める。そんな思いが生まれて来る小説であった。

《定まった型から外れる所作をすれば、それは能ではなくなる。初めから終いまで、能役者は型をつないで舞い切る。能に、「興に乗じて」はない。》

 そのように5歳のころから教わってきた男が15歳から17歳になるまでのお話しであるが、死を覚悟して自らが育った「くに」の先々を切り拓く物語である。この男も、フレディ同様に、能一筋に生き、そこに自らの人生のすべてを投入する。その見切りと漂わせる佇まいの峻烈さが、わが身の現在に批判的に立ち現れるのである。

 能というのが、死者と現世とをつなぐ展開をすることはよく知られている。お面をかぶるというのも演者の個体から雑味を取り去る仕掛けの一つという。それも、役者の勝手を許さない所作のカマエやハコビの子細を読みすすめると、ふだん歩いている己の歩き方がどこまで地面との緊張感を保っているかを問われていると思えて、手に汗がにじむ。

 かほどの厳しく己を御してきたか。いや、そういう、程度のモンダイではない。彼の人のように己自身を見つめて来たかという次元の違いを突き付けられていると感じる。もちろん舞台となっている時代の大きな差異もあろう。人が生きるという、ただそれだけのことに、これほどの厳しい舞台設定を考えたことがあるか。そう思うだけで、ちゃらんぽらんに生きて来たわが身が、いかに人類史のごくごく一部だけをかじってきたにすぎないか、感じられる。

 ま、この齢になってそう気づいただけでも、良しとするかという慰めしかことばにならない。青山文平の紡ぎだした言葉の、鮮烈に印象に残ったことば。「関わりにおいて密、交わりにおいて疎」。このことばの、彼岸からみた此岸への批判的な味わいを、心にとどめておきたいと思った。

2021年2月26日金曜日

軍事政権は武家政権

 ミャンマーのクーデターを、軍事政権側は「クーデターではない」と言っているそうだ。合法的な手続きを踏んでいると説明し、「クーデター」と報道するメディアの記者を逮捕しているという。なんだ、これは? 

 ふと、思い当たったのは、彼らは武家政権のイメージを引きずっているのだ、ということ。考えてみれば、タイもそうだ。王政ということもあるが、軍部が政治を司るってセンスは、そういえば歴史過程の一つとして、つい75年ほど前まで日本も経験してきたことであった。現代中国の共産党独裁だって、軍を所有・掌握しているのは共産党という独裁権力だ。でもこれは、軍部が政治を司っているわけではないから、武家政権とは異なる。

 こうも言えようか。国家として社会を統一する過程は、暴力装置を背景にしていなくてはならない。なぜ、暴力装置が政治を司ることが可能なのか?

 社会の統一というのは、有無を言わさないことだからではないか。そもそも統一ということ自体が、本来ばらばらであるものをひとつにまとめる「暴力的」なことにほかならない。有無を言わせぬということは、「統治」の意味や目的という「理屈」を許さない。ダメなものはダメというのと同じ、原初的な「定理」だからである。そのような「定理」を定理たらしめているのは、暴力的な力である。

 だが「定理」が暴力だけに基盤を置くと考えるのは、いかにも訝しい。それでは「統一」ではなくて「征服」・「平定」にすぎない。つまり「統一という定理」には、人の社会の結束には、暴力支配に対する恐怖だけではない、(社会を構成する人々の)集団性の情念が大いに作用しているからだ。しかもそれが、集団の構成員にも十分感知されているからにほかならない。だから、暴力的に強い(だけの)ものが支配することを「正統/正当」とはみなさず、神による信託とか、血統の正統性とか、法治の支配とか、多数の支持による民主的代議制という物語を作り出す必要があったのである。

 この物語の推移を生成的に、歴史的にたどってみると、暴力性を後背に押しやり、道義や法や文化的な統治の理由が前面に押し出されてきていることがわかる。部族や氏族という近縁者による社会的関係を、見知らぬ者にとってもそれなりに関係を取り結ぶことができる、集団性の情念のなかの公平性とか公正性がうかびあがってきたとも言える。近代的な法の支配とか、選挙を通じての民衆の支持を得た政権が(後景に退いた暴力性を)掌握する文民統治へ向かってきた。つまり、近代法の支配というのは、歴史的な所産としては、力のあるものが思うままに力を揮う統治権力を規制する「法」というベクトルを意味していたのである。

 つい去年まで日本国家の統治をしていた「安倍政権」を想い起してもらうとわかりやすいが、彼の政権では、「法」を「人民が従うべき規範」と上から下への「規制」と切り換えた。国家権力を規制する「法の支配」を排除してしまった。こうして、歴史的正統性を、かなぐり捨てたのであった。

 むろん、そのような仕儀に相成ったのは、世界最強国のトランプ的振舞いが寄与している。というか、それと同様の、#ミー・トゥー精神がもたらしたものと言える。だからトランプに先んじているのだが、恥ずかしげもなくそれが横行するのは、やはり国際的な剥き出しの利権優先精神が露わになってからであったといえる。

 ミャンマーは、武家政権のセンスを強く残している。欧米的な、あるいは第二次大戦後的な民主主義の流れに震撼しながら、崩壊していく武家政権を何とか立て直そうと、クーデターを起こしたといえる。だがそれは、ミャンマーという国が、「鎖国」的な閉鎖性を保ち続けていなければ、持続しえない国家体制だといえる。

 江戸は遠くないのである。

2021年2月25日木曜日

春らしい散歩道――顔振峠と越上山

 日高町の日和田山から北の横瀬町丸山へ連なる山並みの中央部運にある顔振峠を抜ける足慣らしに行きませんかと、山の会の人たちに声を掛けた。緊急事態宣言下、県知事が県境を越えないでと呼びかけているのに応えて、今年初めから週1の山歩きを県内に絞って歩いている。東吾野駅に車をおいて、ユガテを経て稜線に上がり、一本杉峠、越上山、顔振峠、傘杉峠、関八州見晴台を経て西吾野駅に下るルートを歩く予定にしていた。東吾野駅の駐車場は、「事前予約制」。前日に電話を入れればいいだろうと思っていたら、「休日・祭日は受け付けていません」というのにぶつかってしまった。2/23は去年から休日になってしまったのを、すっかり忘れていたのだ。他の参加者はいないから、歩くコースを変えた。

 そこで昨日(2/24)は、黒山三滝から傘杉峠に登り稜線を南へ向かう。顔振峠から越上山を経て、一本杉峠から鼻曲山に近寄ってから黒山の方へ下山するという周回コースに変えた。東吾野からの行程を知った山の会のkwmさんが最近歩いたコースとして紹介してくれたのだ。4時間25分の行程。

 朝陽の差し込まない黒山三滝入口の越生町営無料駐車場には、1台車が止まっていただけ。8時半、歩き始める。黒山三滝は観光地。古くからの食堂などが軒を連ねる。ヤマメやイワナの養殖もしているのか、「三滝へ行く前に予約して帰りに焼き上がりを召し上がれ」と手書きの看板が据えられている。滝の水量は少なくはない。雪があるわけでもないのに、この水は何処から来ているのだろう。

 登山道に入るところに「この先崩落個所があるので入山しないでください。越生町産業観光課」の掲示を吊るした紐が張ってある。えっ? じゃあどこを通ればいいんだと、見廻すが他に通る道はない。お役所仕事だ。こうやって注意書きをしてあるんだから、事故があっても町には責任はありませんよと言い訳をしている。こういうことをやるから、人々はますます行政を信用しなくなる。もし書くなら「崩落個所があります。修理ができていません。自己責任で注意して入山してください」とでも書けばいい。

 実際、沢を何回か渡り返す箇所が何カ所か荒れてはいる。通れないほどではない。一カ所、沢の上の方の左岸が崩れて、ここは通行不能になっている。古いルートが左岸にあったのかもしれない。しかし今は右岸に踏み跡がしっかりついている。ハシゴも掛けてあるから、おととしの台風のせいというよりも、もっと前の崩落かもしれない。

 意外だったのは、1時間で傘杉峠にでたこと。コースタイムでは2時間のはず。どうしたことだ。南北に走る舗装車道に、ゴミ収集車がやってくる。傍らの看板には「大火に悩まされた江戸へ木材を供給するため造林を行い、江戸の西の方の川から運ばれてくるので西川材と呼ばれた」と説明している。そう言えば今、青梅や足利で山火事が燃え盛っているんじゃなかったか。

 すぐに舗装車道を離れて、山道に入る。いかにも奥武蔵の山道らしく、岩と木の根が剥き出しになって凸凹している。標高622m地点に着く。地点表示はない。スマホのGPSがポイントを示している。今日の標高最高地点だ。5分ほどでまた、舗装車道に出る。道の脇下に立派な建物がある。洋食のレストランらしい。「本日休業」と道路に掲示板が置いてある。おっ、富士山が見える。手前の奥多摩の山並みの向こうから、でえだらぼっちのように頭を出して、陽ざしに輝いている。そうか、今日は風が強いからきれいに見えるんだ。

 大きな桜の木が3本、斜面に並び、花を咲かせている。いまが満開と言ってもいいような綻びようだ。日当たりのいい南西斜面だからか。わが家のご近所にある公園のカワヅザクラほど色が濃くない。早いねえと目を道下に転ずると、白梅がこれも勢いがよい。前方の家の壁には「平九郎茶屋」と大書してある。ああ、ここが、今流行りの「渋沢栄一」と縁のあった渋沢平九郎由来の茶屋か。顔振峠だ。10時。

 茶屋の女将が店の前を掃除している。なんでも150年前頃に飯能戦争と呼ばれる幕府軍の残党と薩長軍との衝突があり、幕府軍の渋沢平九郎が逃げてきて、ここの茶屋で一休みしたという話。へえ、その頃からここで茶屋をやってたの? と訊くと、私より少し年上に見える女将は、この地の生まれ育ち。高祖母に当たるのであろうか、おばあちゃんが、この平九郎さんと言葉を交わし、この前の道を下って黒川で自刃した。それで、そのころから誰いうともなく「平九郎茶屋」って呼ぶようになった。そう、TVのひとがきてね、大騒ぎでした。ええ、ええ、この幟旗は平九郎さんゆかりの方がつくってくださったんですよ、と笑う。黒川へ抜ける峠道も荒れててね、治してくれと頼んできたけど、ほら、この車道があるからと構ってもらえなかったと、残念そうであった。いかに、江戸へ供給する材木の切り出しで人の往来が多かったかを思わせる。「賊軍」の侍の名を冠するのを公にするには、だいぶ年月が経たねばならなかったであろうに。だがいま、茶屋の前には新しい立派な石碑が茶屋の女将の名で建てられ、渋沢平九郎の関わる「飯能戦争」のことが記されている。一挙に名士になっちゃった平九郎さん。NHKの大河ドラマが、日陰から引き出してくれたってわけだ。

 この先で、コープのデリバリーをしている車が止まっていて、高台上の家から発泡スチロールの荷物の空き箱を担いで降りてきた若い人がいた。「こんなところへも配達するの?」と声をかけると、「ハイ、週に1回ですけど、配達しています」と応えてくれた。たいへんだねえ、ご苦労様。

 10分ほど先で車道と分かれ、山道に入る。杉林が手入れされて続き、木漏れ日が差し込んで心地よい。「天神社」と表示した小さな祠の先に、大きな社がある。観ると枕木は5本、千木の先端は垂直に断ち切られ、ちょうど伊勢神宮の外宮の趣。「諏訪大神」と扁額に記す正面にまわると拝殿の脇に「参拝なさる時はマスクを着用してください」と掲示してある。いかにもコロナ禍の神社だ。私は裏手から境内に入り込んだ格好だね。拝殿から石段を下って鳥居をくぐると、広い広場があり、その階のところから、山道へまた入る。

 小さな板に「ここは500m、スカイツリーは634m。今日は見えるかな」と書いてある。おや、ここから見えるのかと杉の林の、ずうっと向こうに目をやる。おお、見える、見える。新宿の林立する高層ビルの左の方に、より高く、すっくと細身をみせているのはスカイツリーだ。ここは風当たりがないが、風が強くて良かったねえと、青梅・足利の山火事のことを忘れて喜ぶ。

 ユガテへの道と分かれて越上山566mに向かう。大きな岩が積み重なるルートを越えると、山頂。木々に囲まれ展望はない。抜ける道もない。引き返す。ふたたびユガテへの道をたどる。このルートから一本杉峠への道がメイン踏路に記されていない。地理院地図の屈曲の分岐点に注意しながらすすむと、標識がおいてあった。「鼻曲山」は地図にあるが、「桂木観音」がどこにあるのかわからない。下山地の「笹郷」への分岐がわかるかどうか心配であった。一本杉は大きな木であったが、手入れはされておらず、樹の下の方の枝がにょきにょきと自己主張している。

 一本杉から10分ほどで「←黒川・鼻曲山↑・一本杉峠→」の表示看板があった。鼻曲山はルートの北に位置している。その山が見えるところまでいってみようと脚を延ばす。「これより先 岩場危険」と表示看板があり、大きな岩が立ち塞がる。面白そうな道だ。岩の向こうへ乗越してみる。さらに岩が積み重なる細い尾根がつづき、まったく眺望はない。引き返していると、一人登山者がやってくる。聞くと鼻曲山から向こうへ抜けるという。私が笹郷へ下ろうと思っていると話すと、分岐があって、その先沢に沿って降るが、道が不明瞭だから気を付けてという。地元の人か。この地のことをよく知っている様子だ。

 先ほどの分岐に戻り、下りにかかる。なるほど、草が繁茂し、折れた木の小枝が踏路を塞ぎ、歩きにくい。だが、5分も行くと舗装林道に出た。地図ではこの先、舗装林道を歩くほかに道はない。ストックをたたみ、人も車も通らない静かな林道を下る。やがて顔振峠から下ってくる車道に合流し、黒川へ向かう。「木曾の合掌造り100m先左」と書いた木柱があった。なるほどそれらしき建物が、少し下ったところにある。さらに途中に「渋沢平九郎自決の地」と、これまた新しい石柱が建つ。傍らに平九郎の系図を書き記した吊り書きが添えてある。これもNHK効果か。

 12時25分、出発点の駐車場に着く。トイレの脇に看板があるのに気づいた。「渋沢平九郎」と表題をつけたそれには、「飯能戦争」のこと、「彰義隊から分かれた振武軍の副将・渋沢平九郎」とあり、渋沢栄一の養子であったと書き添えている。「環境省・埼玉県」という掲示責任の記載が、ちょっと妙な感じがするが、これも、NHK効果なのかどうか。

 今日のコース・タイムは4時間25分。鼻曲山ルートへの寄り道に往復20分ほど費やしたから、それを差し引くと、3時間40分ほどで歩いている。冷えこむと言われながら、ウィンドブレーカーのいらない山行、まさに春らしい散歩道を歩いた。お昼は車の中で済ませて、そそくさと帰った。2時には家についていた。

2021年2月24日水曜日

オープン・ガバメントという希望

 コロナウィルス対策で見事な対応をしている台湾は、面積でいうと九州より少し広いくらいの大きさ。人口は東京都の人口より1000万人多い、2300万人余。人口密度は東京の10分の1くらいというコンパクトな国である。

 目下、「中国の一部」という中国政府のタテマエによって、国際的に孤立を強いられている。WHOからも締め出されているにもかかわらず、コロナウィルス対応を、世界に先んじて実施し、着実に成果を上げている。その台湾で、35歳のIT大臣が誕生したというニュースが流れて2年。その方を紹介する本が、去年、出版された。

 アイリス・チュウ、鄭仲嵐『Au オードリー・タン――天才IT相7つの顔』(文藝春秋、2020年)は新鮮な響きを持っていた。35歳のIT相として評判が立った「唐鳳/オードリー・タン/Au」、学歴は中卒である。台湾の名門高校から「招聘」されたのに、高校にはいかないと決めた。ジャーナリストの父、科学者の母に育てられ、台湾の学校では陰湿なイジメに合い苦労するが、親について行きドイツの中学校に通う。彼の優れた才能が評価されて台湾の高名な高校に「招聘」される。だが彼は自らが育ったコミュニティを視界に入れている。台湾の学校を変えようと決意して、単身、台湾へ帰国。高校へ行くことをやめ、ITを通じてネットワークを駆使し、才能あふれる人たちとの関係を構築する。

 同時に、社会問題をITを通じて解きほぐしコミュニケーション・ネットワークを築き、人々の知恵を結集するシステムをつくりあげる。天才というにふさわしい活動場面を、十代の時から次々とかたちづくり、社会的存在として台湾ばかりか世界的に知られるようになっていく。なるほど、彼ならば学歴無用と言っても何の不思議もないとよくわかる。

 と同時に、彼が身の裡に感じる(世間との)「違和感」を突き止めていくと自分は「女」だと思い当たる。それをカミングアウトすることによって、「この人」(彼/彼女)自身の実存的安定は確保され、いっそう才能を社会的に役立てていく場面に身を置く。

 台湾の大きな出来事であった2014年の「ひまわり学生運動」にもかかわって、学生たちの活動が収斂して政策的に提言していけるようなシステムを整えることをしている。それが、知る人ぞ知るかたちで周知されて、蔡英文政権でIT相に任ぜられたのであった。新鮮な響きをもたらしたのは、この人の振る舞いである。

 IT相って何をするのか。任されている仕事は、「オープン・ガバメント、ソーシアル・エンタープライズ、青年コミュニティ」とされている。「オープン・ガバメント」についてこの人は、こう説明する。

《データの透明性を確保し、一般の人々の参与を促し、政策をトレース可能とし、各人を対話に導く》

 と。この短いコメントを見ただけで、日本の政治がここ十年近くのあいだぬらりくらりとことを隠蔽し、行政組織から社会展開まで誤魔化しを続けてきたことに、思い当たる。

 苦情を訴える市民がいた場合、その市民を招いて、問題を一緒に洗い出す「協働会議」を開く。言葉のやりとりがクリエイティブに行われるように、AUは取り計らい、協働するメンバーにもそのような技法とITのシステムを使えるように整える。政府の各担当部門は、その専門性を生かして参加者の一角を担う。

 この人自身は、なにがしかの政策を価値的に打ち建てたいと願っているわけではない。人々が共同して政治に参画し、手を携えて提言をし、修正を施し、身をもって仕事をする「かんけい」を構築したいと考えている。つまり、「民主的な社会への移行と深化」こそがこの人の願いであって、そのためにはITソフトも自由利用できる設定にして、誰かれ構わず算入して修正を加え、使い勝手が良いように改編していくことも推奨している。面白い。

 そもそも、上記に引用したIT相の仕事の説明だけでも、現下の日本の政府の問題点を、根底的に指摘している。つまり、このようなことを実践する若い人を登用する現政権の前向きの姿勢こそ、情報化社会がもたらす最良の「民主主義」である。そういう意味で、蔡英文政権が取り組んだコロナウィルス対策が功を奏したのは、十分に説得力がある。大陸中国の(香港やウィグル族や台湾への)強圧的な脅迫と締め付けが、人々の結集を後押しをしているのも、面白い現実だ。

 気に入ったのはこの人・Auが、「道家思想や保守的な無政府主義を信条としている」と公言していること。台湾は自由であると宣言しているのだ。その上での「オープン・ガバメント」。つまり、新しい時代の「民主主義」のかたち、「くにのかたち」を示している。聞いているだけでワクワクする。魅了される。

 30代という若い人たちが自ら政策や社会インフラのを整える方策について提言し、修正を施し、自分たちの力で切り回していくかたちにこそ、市民参加の新しいコミュニティの連帯が育まれていく。そのような希望を託すに値する試みが、すでに台湾でスタートしているのだ。

 日本の1/5ほどの規模の人口だが、日本を大きく5つのブロックに分けて考えてもいい。あるいは、全国区で、5つの自治的な関係を構築する道を考えるのでもいい。出遅れたIT化を推し進め、市民参加の自由な共同社会を再構築しようではないか。そんな檄が、若い人たちに届けばいいなと、思った。

2021年2月23日火曜日

ともに年ふる

 今日(2/23)は、去年から天皇誕生日になったが、私にとっては末弟Jの生誕71年。昔から「祝日」であった。Jは7年前に、64才で彼岸へ逝ってしまった。現役の編集者として、出版社を切りまわしながら奮闘している最中であっただけに、無念であったろうという思いが私の胸中にも残った。

 その彼が手掛けた「作品」の二つが、今も私の部屋の「祭壇」におかれてある。ひとつは『虚心――藤田政義遺墨集』(1986年)と鹿野貴司『山梨県早川町――日本一小さな町の写真館』(平凡社、2016年)。前者は亡父が遺した「墨書」を風変わりな体裁の43余ページにまとめて封入している。この撮影の時には、どこであったかスタジオに出向いて、私も少しばかり手伝った記憶がある。皺だらけの和紙に書き落とした「墨書」の皺を伸ばし、光が照り返さないように調節をして、一枚一枚(カメラマンが)写真に撮って行った。このころは、フィルムカメラであったから、デジカメのように修正は利かなかった。職人仕事というのはこうも厳しいものかと、感嘆してみていた覚えがある。

 後者の本は医師から余命宣告を受けてなお、車を運転して早川町まで出かけて、出版の話をまとめていたものだ。死後に(他の編集者の手を煩わせて)出版にこぎつけた。この30年の時を隔てた二つの、思いの籠った「作品」は、Jの編集者としてのありようを示す記念品である。

 後書の末尾につけた長い(解説)「千人力を写真にかえて」の中で、著者・鹿野孝司は、こう記している。


《縁あって七面山に毎月登る僕も、本格的な登山の経験はない。七面山以外で登ったことがある高山は富士山くらいだ。その僕に、この写真集の企画立案に尽力してくださった日本出版ネットワークの藤田順三さんは「早川町の写真集を作るのなら、絶対に白峰三山へ登れ」と言う。藤田さんは山と渓谷社で役員まで務めたアウトドアの達人であり、この写真集の制作にも並々ならぬ意欲を燃やしていた。僕は決して山岳写真集を作りたいわけではなく、撮りたいのは人であり暮らしなのだ、と主張しても、藤田さんは白峰三山に登れと言ってきかなかった。……(中略)……しかしこのときはカメラを持っていないことすら忘れ、ただただ夜空を眺めていた。あの風景を観られただけで満足だった。藤田さん、あんなにうるさく「白根峰三山へ登れ」といった理由がわかりましたよ、人生で最高の星空でした。》


 彼岸へ届けるべく書き記されたJへの呼びかけは、私の心裡に彼の仕事ぶりとともに、彼が此岸に遺した創作物がなんであったかを伝えるように響いてくる。

 何かの番組で、「作家・向田邦子のいつも最初の読者であった」という編集者の話を聴いたとき、作者と読者をつなぐ編集者とか出版社の、縁の下の貢献に思いをいたして、そのご苦労に思いを致したことがあった。私たち読者は、創造される「作品」の仕上がりしか目にしていない。しかも、その制作にあたっても企画とか、編集とか、デザインとか、さらに販売などにまつわる手間暇などは、ほとんど目にも止めず、「作品」の面白かった/つまらなかったと評価をして、いかにもいっぱしの読者面して、(読者として)創作に加担しているような気分になっている。だが、こうした縁の下の貢献にふれると、多数の「媒介者」のご苦労が、心地よい社会と暮らしを支えてくれているんだと、思いを新たにした。

 Jが亡くなってまもなく満7年。忘れるというよりも、生前の記念日が死後の祈念日として心裡に残り、私が年を取るとともにJも年を経て行くのを感じるのは、やはり生誕○○年というメデタイ日であるからだ。それと同時に、こうした兄弟の誕生日をわが身に沁みこませる育て方をした妣にも、ことばを加えなければならないかなと、思ったりしている。

2021年2月22日月曜日

次元の違いを打ち出して論議を整えよう

 今朝(2/22)TV(TBS)をみていたら、橋本聖子新会長の「セクハラ」に関して、自民党の竹下亘国会議員が「男みたい」とか「男勝り」(だから、誰かをハグしてもおかしくない)と評して、これがまた女性蔑視かどうかとやりとりしている。そして、「女が男をハグをするのはセクハラなのか」とか、表現がモンダイなのかとか、「言葉狩り」では意味がないとか、それぞれのコメンテータが次元を定めず言葉を発して、次へと番組は進行していく。なんとも、収まりの悪い構成だ。

 どうして、次元を定めないのだろう。

 良いとか悪いとかいう前に、どういう次元で、そのコメンテータは善し悪しを口にしているのか。そこを見極めれば、混線するやりとりをいま少し整理できるのにと思う。差別的発言とか、ヘイトクライムとか、言っちゃあいけないことを口にするのはアウトという、ポリティカル・コレクトネスもそうだが、ある程度「社会規範」が定着した政治的社会場面で共有される「共通認識」である。まだ、社会規範が定まらず、流動的とか、移行過程にあるという場面では、ポリティカルコレクトネスは「言葉狩り」になる。世の中の「規範」は、どういう場面かによって跛行的に現れる。発言する個々人の身の裡にすると、どういう環境に生まれ育ち、ふだんどういう人々と言葉を交わしているかによって、身に沁みた「価値意識」はてんでばらばらである。ただ、それが、どういう場面で言葉を繰り出すかというときに、「社会規範」に寄り添っているのか、盾突いているのか、一つひとつ問われる。「かんけい」が表出する。それが物議を醸すわけだ。

 これは、発言した人の意図が奈辺にあるかという問題ではない。受け取る人がどこに身を置いて、なぜ、どうみているかということも、同時に表出している。ところが、メディアというのは、「事実を客観的に報道する」と考えられているから、「何処に身を置く」ことも普遍的と思い/思われているし、「なぜ(そう)」みるかも行間に伏せられている。つまり報道される「事実」は、あくまでも発言者の身体性そのものを提示しているというかたちだから、後から話題にするコメントも発言者への非難や批判に集中して、発言者と受取り手という「かんけい」のモンダイとして受け止められることにならない。

 もちろんTVがありとあらゆる問題を根底的に論題にすることができるわけではない。だから、いつでもどこででも、そのように次元を整理して、取り交わされることばの系を整え、限定された次元を取り出してやりとりをすることはムツカシイといえば、難しい。となると、せめて、この、今日のTV場面では、「ここ」に限定して話をしましょうと、次元を明快にして、コメンテータはつねにそれを意識して、言葉を紡ぎだす。そういうふうにしないと、話しは拡散してしまい、いわば消費的に言葉が交わされるだけに終わる。

 でもまあ、井戸端TVって、そういうものだから、視聴者は、こいつ何様と思ってしゃべってんのよと(自問自答して)留飲を下げれば、観た甲斐はあろうってものだ。そもそもTVに、「論題」とか「論議」を期待する方がおかしいって言えば、可笑しい。「消費的」がいやなら、TVを観なければいい。そうだね、そうなんだよ。それこそ、次元が違うってもんだよ。

 ただね、そういう世相だよって、私は言いたいのさ。井戸端的な消費的やりとりが、ちょっと次元の違うステージを垣間見せるってところに来ているような気がするんだね。たぶん、私がそう感じているだけじゃないと思う。社会規範の大きな変転の変わり目に立ち会っているんじゃないか。だからこそ、ますます世相を見極め、ものをみる目を少しでも広くして、人々の交わす言葉が現実過程に活きて交わされるように期待しているってこと。

 年を取ると、そんなことしか「希望」がないんだよ。

2021年2月21日日曜日

やわらかい向き合い方が「かんけい」を蕩けさせる

 昨日(2/20)朝の、チャンネルを回していて目に留まったTV「さわこの部屋」。7本指のピアニスト・西川悟平が対談の相手。15歳からピアノを弾きはじめてニューヨークのカーネギーホールで演奏会をするほどになったとか、ジストニアという病に罹り、指が動かなくなったのをそれなりに克服してピアニストとして活動しているというのも驚きであったが、それ以上に、ニューヨークで暮らしていたとき、部屋に侵入してきた強盗とのやりとりは、面白かった。

 突然部屋に侵入してきた二人の強盗。注射器を突き付け、部屋を物色する。それを見ていた西川が両手を上げながら「話していいか?」と声をかけ、「どうして、そんなことをするのか」と、強盗と言葉を交わす。彼らの生育歴を聞き、涙を流し、「何でも上げるからもっていっていいよ」といい、そのうちの一人が今日が誕生日だと知って、ハッピー・バースデイ・トー・ユウとピアノを弾いて上げ、日本茶を振る舞って朝まで過ごしたという話。

 いや、まるでオー・ヘンリーの短編小説を思わせるデキタ話しであった。あとでネットをみると、彼が演奏会で披露する「鉄板ネタ」だそうだから巷間に知られたことのようだ。

 面白いと思ったのは、「護る」ということ。何を「護っている」のかということ。むろん強盗は、何がしかのものを強奪しようとしている。だが西川は(どうしてこんなことをしなくちゃならないのだろう?)と彼らの不遇に思いをいたして、「話していいか? 聞いていいか?」と声をかける。

 彼等の身になって言葉を発した、というのではない。もしそうしていたら、おまえに何がわかる、とまず反発が返ってきたに違いない。西川自身の「疑問」が、率直に口をついて出ている。西川が問うこと自体がやわらかい向き合い方であり、盗るものと盗られるものという「対立的関係」を解きほぐして、同じ世界に生きているものとして「同一の平面に立つかんけい」に変換している。さらに、彼の強盗氏がそれに素直に応じて話したことに西川が涙することで、強盗の目にも「同一の平面」は意識され、もう一人の強盗氏が今日が自分の誕生日だと口にするようにもなる。部屋に飾った写真からカーネギーホールで演奏するピアニストの日本人ということが、目に留まる。じゃあ、ひとつ誕生祝のピアノでも弾こうか、日本から持ってきた美味しいお茶を御馳走しようかと「かんけい」が転がる。

 こうしたことが意図的に行われたとなると、西川は「人たらし」とか言われるであろう。だが、彼の人柄が自ずから滲み出て、やわらかい言葉になって口をついて出たとなると、西川の人への関心がつねに、具体的な境遇やおかれた環境という「かんけい」に向くように、きめ細かく働いていたからであると思える。そのような心づかいの仕方は、いわば心の習慣であって、常日頃の人との向き合い方で、そう心得て無意識にそのように振る舞うようになっていなければ、なかなか「ひとがら」にまでは沁みこまない。

 そう考えてみると、まず西川は、自分の持ち物を守ろうとしてはいない。強盗を目の前にして、彼らの振る舞いの背後に積み重なって来たであろう境遇に思いを致すというのは、彼自身が恵まれない人たちの心根に触れるような体験を味わっており、まず自身をつねにそのような場においてモノゴトに向き合う感性を培っていることを示している。

 苦労してきたことが大事なのではない。苦労してきたことをつねに原点として、いま苦労している人たちのことを基点にしてモノゴトに向き合う姿勢が、人に対する共感と人の境遇に対する同情を、その人をいたわる心もちへと導いていくのだ。そして、人をいたわる気持ちこそが、やわらかい言葉を惹きだし、「かんけい」を解きほぐし、蕩けさせる力になる。

 これを政治過程においてみると、なんだただの性善説ではないかとリアリティを重んじる方々は言うかもしれない。たしかにそうだ。だが、そうした人との感性を大事にする心の習慣こそが、社会関係において「護る」に値する人間の文化ではないか。それがただ単に、知り合いの間だけとか、同じ民族だけとか、同じネットワークの人とだけというのではなく、国際関係においても通じることではないか。トランプのように#ミー・ファーストで振る舞えば、アメリカに対する国々も#ミー・ファーストで向き合うほかない。国際的な協調の道を探れば、そのような国柄の国なのだとみて向き合う「かんけい」が生み出されていく。そうでもしなければ、いつまでたっても人類は角突き合わせてかけひきに才能を費やす以外にないのではなかろうか。

 誰が悪い、彼が悪いと非難の応酬をするよりは、現前のモンダイに向き合い、ともにモンダイを考えていく次元を探り当てる。それこそが、人と人、国と国、国際関係を思案していく次元である。その次元が、力のあるものが設定したスタンダードでは、力のないものは、黙って従う(か文字通り必死に反抗する)しかない。

「かんけい」を蕩けさせる人柄、国柄こそ、誇るべき文化として身につけていかねばならないと思った。

2021年2月20日土曜日

横紙破りのネットワーク

  昨日のこの欄でホンネとタテマエが折り合いがつかない政治家たちと書いた。しかし、実業世界の人たちも、そうなのだという新聞記事を目にした。一昨日(2/18)の朝日新聞夕刊の「取材考記」。「内部告発者を守らぬ郵政経営陣 責任大きく 信用できぬ通報制度 変えられるか」と見出しをつけている。

 日本郵政の「ある問題」を「通報窓口」に通報した局員に対して、「問題」を指摘された所員の父親である有力局長とその取り巻きが恫喝を加えていたというもの。その事実を(報道で)指摘されても郵政経営陣は「個別事件へのコメントを避け」、「通報」をその有力局長に知らせたコンプライアンス担当役員も、そのままの職にとどまっている。つまり、「通報制度」は表向きだけ。内実は、「通報者」を守るどころか追いつめるために用いられていたという「取材考記」。

 取材し報道した記者も、その現実を知って、「報道」が逆に過酷な現実に加担していると感じて堪らなくなったのであろう。最後をこう締めくくっている。

《全国の郵便局には、通報制度を周知するポスターが貼られている。不正の報告は社員の義務だと強調し、上司に言いにくければ社内外の窓口に知らせるよう求めたうえで、「通報者は保護されます」と書かれていた。むなしく並ぶ言葉を「本物」に変えられるか。いまが最後のチャンスだ。》

 考えてみると、ホンネとタテマエが折り合いがつくとは、タテマエをそれとして使う人は、それがホンネとズレていることを承知している。たとえば、「緊急事態宣言を菅首相は出したくなかった」という井戸端メディアの報道を目にすると、ひょっとするとこの首相は、本気で人々が耳順(耳従う)というか、素直に賛意を表して、率先してコロナ自粛に務めてくれるという「民度の高い」「美しい国を」イメージしているのかもしれない。だから逆に、入院とか自宅待機ということに従わない者は「罰金・処罰」をもって統治しなければならない(犯罪者同然)と考えるのか。そう考えると、腑に落ちる。鉄面皮とか、いけしゃあしゃあとウソをつくというのではなく、統治とはそういうものでなくてはならないと毅然としているつもりなのだろう。前首相の応答口調が自信に溢れていたのが、よりそう思わせる。

 もっとも日本郵政という組織が、お役所仕事の延長上のような様相を呈しているとみることもできなくはない。では、民間企業は上記のような対応をしないかというと、そうでもない。そもそも「内部通報制度」とか、「コンプライアンス」という経営の手法は、企業経営の「透明化」のために欧米から移入されてきた考え方である。受け容れる企業としては、伝統的な経営体質をそのままにして、外見だけ、つまり装いを変えているだけで、内実まで変わったわけではない。そう、森喜朗前会長の発言同様で、ご本人は何が悪かったのか見当もつかない。ただ、IOCが態度を豹変し、日本の関係筋も手のひらを返すように批判的に振る舞うようになった。そう思っている。頭じゃなくて、体が覚えてきたことを素直に表現して、それが非難されたからと言って、そう簡単に人って変われるもんじゃないよと思う。森喜朗の取り巻きたちも、じつは、それほど変わり映えのしないセンスで日ごろを過ごしているのだ。

 となると、企業経営者が打ち出す「タテマエ」すら疑ってかからねばならない。力のない平場の社員としては、忖度に忖度を重ねて這い上がっていくか、面従腹背っていうような陰湿な振る舞いに神経を擦り減らせて世渡りを続けるか、そのいずれかしかないのか。そうであってはなるまい、というのが上記取材記者の肚の底にある。

 この記者は「今が最後のチャンスだ」と記す。これは、どういう意味であろうか。

 推察するに、現下の情報化社会の通信メディアの広がりと(全国民的な)井戸端の目を動員すれば、古い体質の企業守護者たちの弁えない振る舞いは、容易に表面化してしまう。つまり、(これまでの従順な社員たちも)面従腹背などという陰湿な世界に身をやつすよりは、情報網を駆使して「横紙破り」をやることになる。もうそういう事態になってきているよ、(経営者としては)悔い改めよ、「最後のチャンスだよ」と、古い体質の守護者たちに呼びかけているように思える。

 むしろそう呼びかけるよりも、「内部事情を通報するオープンなネットワーク」を作って、経営陣にその改善を期待するのではなく、公開の場でその「通報された内部事情」をどうやって改善して行ったらいいか、やりとりしてはどうだろうか。私には到底できないが、今の若い人たちの持っているネット技術からすると、そういうサイトを立ち上げ、(一人の身ではどうにもならない)世の中の不正を皆さんで考えて、質すべきは質す、正すべきは正していくという仕組みを作れないか。いまは「文春砲」という井戸端メディアがその一端を担っているようにみえるが、単なる商業誌に頼ることなく、「横紙破りネット」(困った問題通報ネット)を起ち上げてもらえないかと、いますっかり「現場」なるものから遠のいている私は、願っている。

 良いとか悪いとか、ひと口に決めつけないで、その「現場」の「困った問題」をどうしたらいいか、私らが暮らす社会の問題として改善していくことを考える。それこそが、ホンネとタテマエに代わる、新しい社会規範を思案して作り出す「民主主義」の作法じゃないか。

 そんなことを考えさせてくれた「取材考記」であった。

2021年2月19日金曜日

ホンネとタテマエの折り合いがつかない時代がきた

  五輪組織委員会の会長が決まった。事務局長も、首相も、JOCも、「透明性を」と言っていたのに、候補者検討委員会のメンバーも公表しないなど、なんだろうねこの人たちのいう「透明性」って、と思わせた。まるでTVドラマの刑事物でみる取調室みたい。取り調べられている方からは見えないが、隣室からはガラス越しに全部見えているという、一方通行の「透明性」センス。

  というのも、TVの報道をみていると、2/12にすでに、橋本聖子が会長になり五輪担当大臣に丸川珠代がなると官邸が同意したと報じられていて、なんだまるで、出来レースじゃないかと思った。これは、メディアの報道が古いタイプの選考過程ばかりか思考過程を追い越していて、選考過程や思考過程の装いであるタテマエを引っぺがし、ホンネを丸見えにしている。それが人々に共有されているのに、気付かないのか、知らぬふりなのか、当事者が相変わらず古い「ことば」である「透明性」をつかって、カッコつけているだけ。こんなんじゃあ、タテマエを口にする人がバカにされるのは、当たり前だと思う。

 古いといえば、森組織委員会前会長の舌禍も古いセンスのまんまだったが、昨日、島根県知事が聖火リレーを取りやめる(検討をしている)発言に対して、自民党の竹下派の首領が「よく注意しておく」などと発言したこと。まるで県知事が国会議員の手下であるかのような感覚も、何世代前の古いセンスを持ち出してんだと思わせた。これも、島根県そのものを竹下某国会議員が取り仕切っているような殿様気分であるからなのだろうね。TVの報道をみると、いまの島根県知事は竹下某たち自民党の古き重鎮が推した知事候補を破って当選した方だとか。つまり、自民党県連自体がすでに分裂して、古き重鎮たちは権威も何も持たなくなっているのに、全国区の自民党本部でふんぞり返っているひとたちなのだと、裸の王様ぶりが、やはり透けて見える。

 えっ? これって、「透明性」なの? 

 そうなんだ。情報化社会になって、マス・メディアだけでなく、SNSが広まり、いろいろな事情が筒抜けになる。それを拾って拡散する過程が、またオカネになったりするものだから、ますます勢いをもって広まる。「文春砲」などという市井の井戸端メディアも威力を揮うご時世になった。

 この会長選出で使った「透明性」って、ホンネは自分(たち)が納得できるって意味で使っている。それなのに、外向けには「公正」とか「公平」とか「公開」って意味を込めてつかわれている。そもそも会長選出をリードする事務局長も「透明性を大事にして」といっていたのに、候補者検討委員会の委員は非公表、会議も非公表、あとで先行経過を発表しますって、何処が透明なんだよって思った。じっさいには、やはりメディアの取材で全部筒抜け。

 じゃあ、なんで非公表なんだよってなるよね。JOC会長の説明では、「委員名を公表するといろいろな団体などから圧力がかかって、公正な選出が妨げられるから」だそうだ。

 えっ、そうかい? っておもった。

 もし(公表した委員に対して)そうした圧力があったら、どこからどんな圧力がかかったと全部公表しますってやってこそ、圧力から自由な選考ができるんじゃないのかい? 「出来レースじゃないか」って勘ぐられるような裏面での、目に見えぬ「圧力」こそがモンダイなのじゃないか。橋本聖子なら会長にふさわしいと思っていても、なんだ出来レースだったじゃないかとなると、「ふさわしい」と思った自分がバカみたい。裏事情を知らなかっただけってなって、ふさわしいと思った私の中の「橋本聖子の権威」も損なわれると思うんだが、そう思いませんか? 

                                            *

 島根県を取り仕切っているのはオレだって竹下某の言葉もそうだ。まるで身裡か縁故関係か手下をあしらうような扱いで県知事を遇している。古いっていうより、原初の部族・氏族が少し大きくなった地縁的結合の殿様意識から、さほど遠くへ来ていない。近代市民社会じゃないんだよ、彼の胸中のシマネ県て。それがホンネ。それが、中央集権一本槍の近代的政治社会の神輿に(世襲二代目として)担がれているうちにタテマエとしての衣装は装ってきた。だから、こういうトンデモ発言が飛び出してくる。

 だが世の中は情報化社会。とっくに、市民社会の近代を隅々まで沁みとおらせてきた。コロナウィルスは(市民にとっては)地方分権的判断が大切だと身にしみて感じさせている。中央集権的なセンスだけではコケにされるようになった。

 古いセンスの方からみると、次のようにも言える。社会的「かんけい」を紡ぐ方法としての血縁・地縁という縁故主義的(クローニーな)関係の構築法は、実は滅びたのではなく、身の裡の奥深くにしまわれてきているのだ。その上に、時代に即した作法や儀礼や言葉が装われて、手順となり仕組みとなってきている。「公正」という言葉も、近代が付け加えて来た「公共」とか「公開」とか「公平」という観念も付け加えられ定着し、「権利」や「コンプライアンス」や「ポリティカル・コレクトネス」も加わって、多様になり、多元的にみてとられるようになった。その化けの皮が、情報化社会の進展によって、次々とはがされてゆく。

 森発言がモンダイになったのも、そうした時流の大きな波が押し寄せて来たからであった。

 その波を動かすエネルギー源の一つになっているのが、情報化である。これまで情報の発信源を(庶民が)マス・メディアに頼って来たときは、マス・メディア対策だけしていればよかった。ところが、どこからでも、誰からでも、何時でも、何処へ向けてでも発信され、拡散されるようになり、疑似的な衣装は、ことごとくがはがされてきた。従来の固定観念に寄り掛かったタテマエはコケにされる。

 今回の「非公表」というタテマエが、じつは克服するべき(圧力がかかるという)モンダイを先送りする便法でしかないということも、メディアの取材と報道によって、庶民は存分に知る所となった。「非公表」を掲げたエライさんたちは、化けの皮がはがされたように、バカに見える。権威も何もあったもんじゃない。

 にもかかわらず、政府のエライさんたちはここ十年ほどの間、口先だけのタテマエを喋々している「裸の王様」であることを、メディアによる報道によって暴露され続けてきた。

 そこへトランプが登場して、近代の化粧をはぎ取り、#ミー・ファーストのホンネを剥き出しでぶつける。それが今度は、世界の主潮流になった。しかも彼は、国際関係でも、身辺の政治にも、ほとんど私たちと変わらぬ素人であることを存分に露わにしてきた。近代社会に居心地の悪さを感じているものにとっては、偽善的な装いをはぎ取って「近代は裸の王様」と声高に叫ぶ子どものような振舞いを、世界最強国の大統領が4年にもわたって見せてくれたのであった。

 むろんそれを可能にしたのは、デジタル技術による情報化社会のもたらしたものであった。しかし、タテマエが崩れホンネがさらけ出されていることに気づかない人たちが、まだ政治の中枢に陣取っている。彼らのつかう言葉が、人々の心情に明らかな変化を与えている。それが「政治不信」である。そこを乗り越えない限り、「透明性」とか「公正」という言葉をいくら使っても、もう人々は耳を傾けない。自分の都合に合わせて、自助に励むばかりだ。

 ホンネとタテマエの折り合いのつかない時代が来ているのだ。

2021年2月18日木曜日

遭難救助も思案して山行計画をたてるか

 昨日の山行記録に写真を貼り付けて山の会の人たちに送った。そのとき、同行してくれたykyさんから歩きながら聞いた話しが、思い浮かんだ。彼女は同行させてもらってと、たいへんに恐縮していたから、いやいやそんなことはありませんよ。私は一人で行くよりも、同行者のいた方が安心できるからとやり取りしていて、思わぬ話が飛び出した。

 彼女の属する山の会の人で、山へ出かけたまま行方知らずになっている方がいるという。どこへ行くのか誰にも言わず、書きつけも残さずに出ていき、それっきりで帰ってこない。何年前のことか、一人暮らしなのかそうでないのかなどは聴かなかったが、彼女は単独行に警戒する私に同調したのだと思った。

 もう一つの話しは、もっと切実で、同時に考えさせられた。やはり彼女の山の会の方で、クマを蹴飛ばして撃退した女性としてよく知られた方らしい。その方が奥日光へ出かけ、「道に迷った」と同じ山の会の方に電話をしてきたのち連絡が途絶え、(翌日?)中禅寺湖に浮かんでいるのが発見されたというのだ。

 はて、迷って中禅寺湖に落ちるとこってそんなにはない。黒檜岳と社山のあいだの笹原は霧が張ると迷うことになる。だが中禅寺湖に落ちるほど迷うのは、よほど道なき道を歩かねばならない。そう考えて、一つ思い出した。彼女の属する山の会は、藪漕ぎを厭わないで、地図を読みながら歩く探検的なルート開拓もしている方がいる。また、地理院地図にないルートやすでに廃道になっているルートを再開拓するようなチャレンジをしているグループである。むろん、いろんな方が属しているから、ずいぶん幅広い活動をしているのだが、その山の会の発行していた「機関紙」では冒険的な山行記録がよく載っていたのが記憶に残る。

 そうか。そういう雰囲気のグループに属していて、しかもクマを蹴飛ばした冒険譚がついて廻っている女性だ。ひょっとすると、道なき道を中禅寺湖へ下って行けばいいと突き進んだ結果、笹原に足を滑らせて滑落したのかとも思う。

 いや、勝手に思いめぐらしたわけではない。じつは私の単独行も、ときどき道なきルートへ踏み込むことをしているからだ。もちろんスマホのGPSが現在地をいつも明示してくれているから、どちらへいけばいいかを、足元の傾斜や手掛かりや足掛かりを見極めながらすすむのだが、いつなんどき、滑落しないとも限らない。そう考えて、10mのザイルとやはり5mほどのテープと何枚かのカラビナをザックに入れて行くようにしている。それでも、ここで遭難したら、ヘリコプターは役に立たないし、GPSがなければ位置を確かめるのも困るだろうなと思う地点が、結構ある。背の高い笹藪に転落すると見つけることはできない。

 単独行をするときは、遭難救助が動けるような山行計画をたてる必要があるのかもしれない。いまは、山に入る都度、行程表をプリントして、家に置いておく。一日帰らなければ「捜索願」を警察か消防に出してくれと言いおいて出かけている。

 それでも、動けなくなって所在知れずとなったり、滑落して水死したりするってことも、ありうるわけだ。同行者がいてくれた方が、何と言っても有り難い。

 くわばら、くわばら。それとも、覚悟を決めなさいってことか。

2021年2月17日水曜日

将門由来の城峰山

 今日(2/17)の好天、秩父皆野の城峰山へ行った。4時間ほどの行程だから、週1の足慣らし。家から1時間半ほどで登山口に着く。途中、皆野駅で、今日の同行者二人を車で拾う。走っていて気付いた。おや、ここは破風山の登山口ではないか。皆野アルプスという売り出し文句に誘われて、ここから登り、皆野駅に行ったことがあった。今日はさらに、その奥の集落へ向かう。

 門平高札場跡がある。江戸のころのお触れを掲げたところが、修復されて残されている。石組は当時のまんまなのだろうか。

 そこからほんの数百メートルで、登山口。ガードレールを取り付けた広い道路の脇に、車を停める広さがあった。歩き始める。9時4分。「関東ふれあいの道」と記した標識がある。先週歩いた秩父丸山にも、同じ表示があった。ということは、ずうっとひとつながりのルートが設定されているのだ。古びた大山神社が鳥居と石段を据えた上にある。これは、丹沢の大山神社と縁(えにし)があるのだろうか。帰りに時間があったら寄ってみよう。

 ルートはよく踏まれている。標識もしっかりとつけられ、迷うことはない。何度か舗装車道を横切る。先週の奥武蔵の山もそうであったが、樹木の切り出しもあるのだろうか、山をまたいで、縦横に車道がつくられている。山歩きには興を殺がれるが、暮らしに必要なのだろうから、仕方がない。どこまでも良く育った杉の林がつづいている。上りに上る。朝方の冷え込みはすっかり汗ばむほどに変わった。1時間余で鐘掛城跡1003mに着く。今日の主たる上りはこれで片づいた。「戦国時代の山城」の看板が立てられている。上杉勢を迎え撃つ重要な拠点の一つだったらしい。どうしてこんなところに、とykyさんが呟く。

 木の土留めをした階段を下って、稜線を歩く。まき道がある。「帰りはこちらを歩きましょう」とykyさんは言う。15分ほどで、石間峠。車道が横切っている。北の方から来て、城峰神社へ向かう舗装路だ。突っ切って城峰山に向かう。北側の斜面には雪が残っている。ここまでの足元にはその気配もなかった。落ち葉が散り敷いて歩きやすい。

 10分ほどで城峰山に着く。電波の送信塔がひと際立派だ。上に登る階段がある。展望台になっている。南に武甲山、南西に雲取山や和名倉山、奥秩父の山々が居並ぶが、その後ろの富士山や南アルプス、八ヶ岳は雲の中だ。明るし陽ざしが深い山を箱庭のように見せる。両神山の独特の山容が、小鹿野町がすぐ近くであることを示している。北の方には、湖が見える。神流湖だ。群馬県もすぐ先にある。

 下の方に神社が見える。そこまで行くのが今日の目的。北側斜面に入ると踏路が濡れている。雪が解けて間もないのだろう。ところどころにシモバシラが立つ。降っていく。「こんなに行っていいのかな」とykyさんが立ち止まる。上から見たときには、すぐ下にみえたのに、大きく回り込んでいるようなのだ。スマホのGPSをチェックする。大丈夫、行こ行こそすすむ。

 古い神社のようだ。平将門がこの地で討ち取られたと由緒書きがしてある。「日本武尊を鎮祭している」という祠もある。なんと平成16年の日付が入った石碑だが、なんだろうね、こちらの由緒書きは。狛犬はオオカミであった。苔むしたからだが貫録を示している。これは三峰神社などと同じで、秩父の狛犬は皆こうなっている。

 ここはキャンプ場もあるのが、イラスト掲示板で分かる。なるほど車道がここまで来ている。一人、男の人が私とは別の方から登ってきて、境内を横切り、社務所の方へさかさかと逝ってしまう。今日初めて山中であった方だ。

 引き返す。11時ちょうど。城峰山に戻り、「一等三角点のある山」という環境省の掲示板が目に留まる。なんでも埼玉県の山にある一等三角点は5つあり、その一つがここだと記している。その先の石間峠でお昼にしようと歩を進める。来るときに東屋があり、ベンチが設えられているのをみたのだ。だが、行ってみると、日陰になっていて寒そうだ。陽ざしの当たるところに陣取って、弁当を開く。西の風が吹いてきて、冷える。少し着こんで、20分ほどで出発する。mzdさんが先頭に立つ。

 上りにかかるところに、「まき道→」の表示がある。「そうそう、そちらよ」とykyさんが嬉しそうな声を出す。標高差で50mほどの上りを省略できる。ひとつ目の巻道を終えると、すぐにもう一つのまき道がある。鐘掛城跡の山体を巻くのだ。それが終わったところで、私はカメラがないことに気づいた。先ほど写して、ポシェットにしまったつもりだったのを、落としたのだ。先へ行っててと言って、引き返す。結局10分ほど、最初のまき道までもどって、落ち葉の上に落ちているカメラを見つけた。落ち葉のせいで音もしないし、壊れもしなかった。戻ってみると、二人は待っていた。ごめんごめんと謝り、下山路をすすむ。

 上りの急斜面も、下ってみると、歩きやすい道だ。舗装林道に出るともう登山口はすぐそこだ。大柳神社に来る。いいよ、行きましょうと声をかけて、ykyさんを促す。古くに組み合わされた石段を登り、本殿に向かってykyさんは手を合わせている。背中の方の歌舞伎舞台は、すっかり古びて、板敷が一部めくれている。秩父歌舞伎があったなあと思う。と同時に、登り口の門平って、平将門に因む地名なのではないかと思った。ひっくり返し「将」の字を抜いて世を欺くという、常套手段だ。そう考えると、面白いと思った。13時7分着。行動時間は4時間。お昼を除くと、3時間40分の歩行であった。

 順調に戻り、3時前に家に着いた。

2021年2月16日火曜日

運動負荷心電図

 先日お話しした超モダーン・システムの病院へ、昨日(2/15)検査のために行ってきた。運動負荷心電図をとるという。上下が分かれた運動着で来てくださいと指示があった。あいにくの雨だったこともあって、車で向かう。Tシャツだけでは寒かろうから、長袖のアンダーウェアの上にTシャツを着こんで、ダウンウェアを羽織るとちょうど良い。駐車場の入り方は教えてもらっていたので、さかさかと地下へ入り、エレベータで受付へ向かう。

 診察カードを受付け機械に入れるとペーパーが吐き出され、私がどの予約外来へ行き、指示を受けるかが印刷されている。その外来でも診察カードを入れる機械があり、そこから何番区域の前で待てとプリントされたペーパーと受診番号を印刷した小さい紙が吐き出される。診察区域前の壁のモニターには、部屋番号と診察番号が表示され、どこへ入室するかが一目でわかるように小さい音とともに切り替わっていく。つまり、ここまで一言も言葉を交わさずに「流れ」、椅子に座って待つようになる。予約の20分前に来るようにとの「要請」はあったから、少しは待ったが、予約時間からほんの5分ほどの遅れで「運動検査室」に入った。

 まず、「トイレは済ませましたか?」とアラサーの男性検査技師が問う。ついで「着替えます?」という。館内に入ったときすでに、ダウンウェアはリュックにしまっていた。検査室は待合室よりも温いかなと感じ、長袖を脱いでTシャツだけになる。

 椅子に座った状態で、胸と肩の何カ所かにパッドを張り、コードを取り付ける。左上腕に血圧検査のベルトを巻き、「ルームランナーをつかったことはあります?」と訊く。ない、と答えると彼がルームランナーに起ち、ここに軽く腕をおいて、この床がゆっくり動き、徐々に速くなりますから、はじめは大股で、あまり後ろに下がらないように気を付けて、歩いてください、と説明する。「苦しくなったら止めますから、そう言ってください」と付け加える。彼からみると、私は完璧に老人なんだという口ぶり。それも、しかし、悪くは感じない。

 山歩きをしているが、実は息が切れるほどになったことが、あまりない。もう5年以上も前になるが、脈拍を120まで上げて運動するのが良いと何かで教わって、ジムの自転車機械で試みたことがあった。だが、どうやっても100を超えてから、なかなか上がらない。110まで入ったが、120には到底届かなかったことがあった。そのときは、階段踏み機械に換えて、やっと120にもって行ったのだが、その後、息せき切って動くことをした覚えがない。苦しくなるのだろうかと不安であった。

 ルームランナーに私が乗り、「そうそう、それでいいです。でははじめます」と検査技師が言い、部屋の離れた隅の机に向かう女性に目を向ける。彼女は電話でやりとりしながら、何かを書きこんでいる。目で彼を見て、うんと頷く。彼がスイッチを入れる。動き始める。女性が心電図計のまえに立ち、吐き出すペーパーをみている。それでこの方が医師だとわかった。

 ルームランナーの前に取付けたモニターには速度、斜度、距離、時間が表示される。スタート時点の斜度は「10%」。100mの距離で10m上る設定だ。速度は「4km/h」。おや、時速4kmってこんなに速かったっけと思う。なぜだろう。ふだん平地を歩いているときはおおむね5km/h。こんなに速くは感じない。斜度があるからだろうか。

「少し斜度を換えます」と検査技師が言い、「13%」になる。でも、それほど負荷を感じない。

「速度を上げます。10秒後に速くなります」と告げ、「5.5km/h」になる。大股だったのが小幅にステップを刻むようになる。いつもこの程度の速さで歩いていると思っていたが、こんなに速かったっけと、意外感が強い。しばらくすると、呼吸に負荷がかかる。なんだ、まだ5分しか経過していない。こんなことでは山を登るどころじゃないなと思う。

「大丈夫ですか?」と、検査技師が訊く。だいじょうぶです、と答えながら、こんな感じって、いつ以来だろうと、わが身を振り返る。

 また「斜度を換えます」とコールがあり、「16%」になる。三角関数のサインが0.16って、角度は10度になるのか、ならないくらいかと埒もないことを思う。だがマスクをしているせいじゃなく、呼吸が激しくなる。また「大丈夫ですか」と聞かれる。だいじょうぶ。こんな程度で終わってたまるかと思う。

「速度を上げます」と検査技師が言う。「6.8km/h」になる。これは歩いてはいられない。ジョギングのように軽く走る。呼吸は確実に速くなる。息せき切るという感じが強まる。はあはあと呼気が激しくなる。いやまだ9分にならない。せめて10分までは頑張ってみようと目安の設定をする。脚の筋肉に疲労感が出てくる。でもこれって、白筋という瞬発力筋に関わっているんだろうか、それとも赤筋という持続筋に響いているんだろうか。斜度と速さの相関関係を、運動生理学ではどうみているのだろうと、思いが飛ぶ。 

「ハイ、これで結構です。まもなく止まります」とコールがあり、速度が落ちる。9分45秒ほどの運動であった。「椅子に座ってお待ちください」といって、汗を拭くようにタオルを手渡す。汗を拭くというより、汗がにじむ程度であった。しばらく落ち着いたところで、また計ると思っていた。

 医師は吐き出されたペーパーを診ている。私の方に顔を向けて「胸は何でもないですね」というから、「何でもないです」と応えたが、ひょっとすると、問いかけではなく診断だったのかもしれない。「呼吸と脚の疲れとどちらが大きかったですか」とも聞いた。「う~ん、同じくらいかな。どちらも八分方」と応えて、でもそれって、心電図と何か関係があるのかと思った。

 呼吸がすっかり落ち着いたころ、「じゃあこれで終わりです」と検査技師が言い、貼り付けたパッドなどを取り除く。先ほどのタオルで胸などを拭いて着替えるようにという。検査終了のプリントを予約外来の受付へ提出するように言いながら手渡し、30分ほどで運動負荷検査は終了した。

 今日の結果を聞く診察日の予約日時は、すでに決まっている。

 車を地下駐車場から出すと、雨はあがっていた。風が強くなったろうか。4時を少し過ぎているが、陽ざしはまだ高い。そうか、冬至と春分とのちょうど真ん中あたりか。旧正月が過ぎて、文字通り初春になった。そんな気分になった。

2021年2月15日月曜日

白川夜船の驚天動地

 昨日(2/14)の朝、5時少し前に起きた。カミサンがTVをつける。

「えっ、昨日だったんだ」と地震のニュースを観ている。

 夜中に「地震がきます。地震がきます」とスマホが叫んでいた。こちらは白河夜船の真っ只中。何度かの叫び声の後にグググッと突き上げるような揺れが続き、あっあっ、十年前もこんな感じだったかな、長いな、どこだろう震源はと思いつつ、でもすぐに寝入ってしまった。深夜かな朝方かなと思っていた。前日の夜11時7分ということは、朝刊に載った短い一面記事で知った。

 起きていた人が多かったせいだろうか、TVの被害状況の画面にも、崩落土砂を片づける復旧作業をする大型重機の手早さにも、驚かされる。ああ、年寄りの暮らし方とは違ったサイクルで世の中は動いているんだと、落差を実感する。

 カミサンは早朝に出かける予定があったから、電車が動いているかをチェックしていたのだ。在来線は動いている。私は、「トランプ弾劾評決、無罪」の、やはりTVニュースが問いかけていることに気持ちが向いてしまった。

 報道される地震の揺れの大きさに、改めて驚く。十年前は部屋でパソコンをいじっていた。本棚が倒れるんじゃないかと思ったから、部屋の入口に立って揺れが収まるのを待った。「おーっと、地震が来た。75分も揺れている」とブログに記録している。余震をふくめて、収まらなかったのであろう。「震度5弱」と、後の報道で知った。昨日の地震もそれと同じであった。横になって寝ていたから、ピンポイントのおぼろな感触だけが残ったのだね。

 被害の模様が映し出される。死者がいなかったというのは、十年前の教訓が生きていたのか、津波がなかったことが幸いしたのだろうか。記憶に残り、身が反応するには、視覚情報が大きな要素を占めていると思う。それらが胸中で再構成されて、「東日本大地震」という総体の印象として身の裡に沈み、ナニカアルと、そのスイッチが押されて身が反応する。身と頭の不思議な相関が「とき」を介在させて浮かび上がる。

 午後、外へ歩きに出る。晴れ渡り、気温も上がっている。長袖一枚で寒くはない。少し風があるが、歩いている分には、むしろ心地よいほどであった。日曜日とあって、いつもより人は出ている。驚天動地の地震の後とは思えない、平穏な休日の風景が広がっている。見沼田んぼの東縁沿いに北へ向かい、ところどころで高台の植栽の培養地に踏み込み、1時間半ほど進む。そこから、見沼田んぼの中を流れる芝川沿いに家へもどる。ほぼ3時間、15km、2万歩を超えた。

 ふと、白川夜船って言葉はどこからきたんだろう、と思う。

 日本国語大辞典を引くと、《①いかにも知っているような顔をすること。知ったかぶり。》とある。そして、こんな説明を加えている。

《京都を見たふりをする人が地名の白川(または舟の通わない谷川の名とも)のことを問われ、、川の名と思って、夜舟で通ったから知らないと答えたという話によるという》

 と。私がつかった「ぐっすり寝込んでいて何が起こったか全く知らないこと」は、②項目目として記されていた。

 ①が②になった経緯も分かると面白いと思った。辞典ではこんな「補注」があった。

《①については……に「世の中の人の見たなどいふは、白川を夜舟にのりたるたぐひならん」のような記述もみられる》

 人口を膾炙する話は、①のようなことであり、受け取る側からみると、②と同じだ、と。つまり、伝聞の情報は、ゆめまぼろしのたぐいと心得よといっている。そう受け取ると、発信する方も、受信する方も、ことのはは、さほどに覚束ないものだといえそうである。今の時代にも通じる。

 しかし、驚天動地があると、あちらこちらから電話がかかってくる。

 だいじょうぶかい?

 ものが倒れたりして大変だったんじゃないかい。

 おおきかったようだね。

 いずれも、報道を見て「動地」を再構成し、気遣いをする。

 いや、お恥ずかしい、白川夜舟でしたよと「ご報告」をし、気遣いへの感謝を伝えている。

2021年2月14日日曜日

情報化社会と真偽見極めの規準

 トランプ前大統領の弾劾裁判の評決が否決された。共和党の大半は、「すでに退任した大統領を弾劾するのは違憲」として否決したというから、トランプ前大統領の弾劾要件の判断を避けたとみることもできる。つまり共和党(の主流)としては、党を割ることはしないが、トランプが主導権をとることにはまだ懐疑的な「保留」を選んだわけだ。

 狂ったように「盗まれた選挙」を叫ぶトランプ陣営をみて、アメリカの民主主義は大丈夫なのかと、海を隔てたこちらでは思っていたが、どうやら日本でも「不正選挙」と公言している人たちがいることが、分かった。

 斎藤直樹(山梨県立大学名誉教授)は2021年2/1と2/9の「百家争鳴」で、「不正選挙」がなされたことと、それを大手メディアがスクラムを組んで揉みつぶしたと公表している。

 大筋を拾うと、①不正はあった、②2016年の選挙結果でヨミを外した大手メディアが、事前に結束してバイデン選出でスクラムを組んだ、③政府組織も、トランプを排除するように動いた、の3点になろうか。

 ① フォックスニュースの報道に基づき、「不正」はあった。バイデン票をくり返し集票計数機にいれなおしているとか、夜間に不正を実行する動画画像がある。激戦州の多くで郵便投票の署名確認を行っていない。

 ② その実態を、大手メディアは一致してとりあげようとしない。2016年の大統領選で読み誤った大手メディアが、今回はトランプを排除しようと周到にスクラムを組んでいる。

 ③ それら「不正」を調べようとFBIも司法省も全く動かなかった。彼らもトランプはもうごめんだと考えていた。トランプはツイッターで激怒していた。

 ④ 最後の大逆転を1/6の選挙結果の承認議会に賭けていたが、トランプ支持者が乱入して、ぶち壊してしまった。

 だが、上記の「不正」を訴え出た関係州の司法判断で取り合ってもらえなかったことの子細、大手メディアが組んだスクラムについての証拠らしいものや政府機関が動かなかった根拠については、ただ、トランプのツイッターやジュリアーニ弁護士の発言が引用されているだけである。また、その後にフォックスニュースがトランプ支持を掌がえししたことについても言及していない。

 面白いと思ったのは、この方が(何か深い情報を得ているのであろうが)フォックスニュースが、こう報道していると引用した次の行では、その報道が事実であったと前提して、論を展開していることだ。メディアスクラムもそうだ。政府機関のトランプ排除も、トランプのツイッターの言葉だけが、その事実を訴えているにすぎない。つまり、この方も、彼の論展開を目にして、疑問を持つ人たちがどう受け止めるかを勘案して記述していないのだ。

                                            *

 アメリカの民主主義が問われていると、私も感じている。その目安の一つが、弾劾裁判をどう共和党が受けとめ、乗り越えるかと考えていた。だから、今ここで一言私見を言っておかねばならないと考えて、キーボードを打っているのだが、齋藤直樹のエッセーをみて、ちょっと違ったことへと目が移っている。

 それは、情報化社会がもたらした真偽見極めの規準の変化である。

 情報化社会と謂われるのは、情報量の多さに加えて、情報伝達の速度が速くなり、手段が多様になったこととされてきた。もう一つ掘り下げると、情報メディアが多様になったことによって、マスメディアの情報の真偽を判断する規準が、「権威」に拠るよりも受取り手の皮膚感覚によるものへと変化した。つまり、情報判断が個別化し、受取り手の在り様によって多様化し、一筋縄の物語で括ることができなくなったともいえる。自らが得心できないことをフェイクだと排除する、根拠を提示せずに「思いのたけ」を言い立てる。

 トランプという大統領の登場は、まさしく、情報化社会のもたらした嫡出子であった。まず彼は、統治機関である政府の仕組みの動き方自体を気ままに変えた。統治システムがもってきた「権威」をぶち壊しのである。ツイッターで、直接国民に訴える。大統領の得心することが真実であり、大統領の訴えに耳を貸す人だけが真実を尊ぶ人民である。それ以外の情報はフェイクであり、反対・抗議する人民は、敵である。

 この構図は、わかりやすい。しかも、統治システムへの不審をひとつかみにして取り払ってくれる即断即決。政府機関や国際関係の(どこで誰がどうやって動かしているのか目に見えない慣習や条約という)システムにケツを捲る大統領の試行錯誤は、ツイッターのSNSを通じて、双方向であり、まさに自分たちが大統領の政治を支えている実感を伴う。目を瞠る指導者の登場であった。それが、半分近い支持者を収斂させた。そう、ナチズムやファシズムと同じ意思結集ではあるが、これぞトランプ流の民主主義。1/6の「議会へ行こう」は、その総決算であった。

 いうまでもないが(唯一神を信じる国において)それが逆に、陰謀論を登場させてもいる。陰謀論には、目に見えない誰か(たち)に差配されているという疑惑とともに、何者かがしっかりと見据えて世界を動かしていてほしいという願望も込められている。ちょうど世界が創造神の手によって作り出され、人を自然世界の総管理者として位置づけてくれたように、自ら判断しなくてはならない実存の不安を安定させる定点を求めているともいえる。つねに「敵」を見据え、「敵」と闘う。そうすることによって、自らの(内心の、国内の、結集する中心部の)結束力を高め続ける。まさに部族社会時代の(外部と出逢った後の)集団統治のやり方が、儀礼や仕組みの虚飾をはぎ取って、剥き出しで現れてきたのであった。

                                            *

 人類というのは、こういう変転をくり返していくのだろうと思う。くり返して、少しは良くなっていくかというと、そう簡単には言えないのが、アジアの片隅にいる私の感懐である。振り返ってみると、果たして現在の私たちの(世界の)到達点が、紀元前500年頃の世界と較べて上等かというと、ひと口には言えない。風呂とトイレに関しては、私は迷わず現在の方が優れていると、その部分だけを切りとって断定するが、私たちの存在する世界全体の「関連」においてみると、果たしてそういっていいのかどうか、わからない。実在の「かたち」こそかわるけれども、ひょっとすると、繰り返し同じ地平を彷徨っているのかもしれない。そんな気がしているのである。

2021年2月13日土曜日

靄のかかった人生の流れ

 2年前に買ったチケットの映画が、いまかかっている。実は去年上映予定だったのだが、コロナウィルスの騒ぎもあって延期になった。そこへもってきて、上映館がリニューアルするとあって、延び延びになっていたのだ。だがなんとも時機が悪い。緊急事態宣言が出ている。知事は越境しないでと呼びかけている。何より公共交通機関がコワイ。チケットは無駄になるが、行かないと決めていた。私が山に行った日、カミサンは一人で行った。面白かったという。う~ん、でもなあとコワイものは怖い。ああ、でも今日は祝日よ、混まないわよ、とカミサンが言い、そうか今日は休みの日かと気持ちが動く。

 観に行った。JRも地下鉄も、座席に座れる。隣の席が空いていても、立っている人が座ろうとしない。ソーシアルディスタンスってやつを意識しているのだろうか。有り難いって言えば、ありがたい。往きも還りもそうであった。映画館も、座席が一つ置きに「空き」にしてある。空調も、12分で空気が全部入れ替わると館内放送を耳にした。リニューアルの効果を謳っている。

 なにしろ、はじまって終わるまでに4時間3分という長尺物。途中休憩を挟んで上映する。『モルエラニの霧の中』(坪川拓史監督、2020年)。季節で切り分けた7編の連作短編は映像詩のようにプロットを重ねていく。緩やかに、まさに語り口がとつとつと紡ぎだされてくるテンポに象徴されて、モノクロームの点描が映し出される。霧の中、時が流れる。ああ、この人は先ほどの画面の、あの子どもなんだとか、あの人の息子だったんだ、となると、もう数十年経ってるんだというふうに、観ているものが構成をして、物語りを紡ぐ。ゆっくりしたテンポが、のんびりし始めた私の頭に見合っているか。今の時代は忙しない。

 人が変わる。人の動きが孕む物語が積み重なって元の形は見えなくなり、いま土の外に顔を出している小さな芽吹きだけが(みえる人には)目に留まるように、ひとは暮らしている。目に留まるものが小さいから、ついつい踏みつぶしたり、何かをきっかけにしてこだわりがなければ、見つけられなかったりする。そうだよなあ、私たちの暮らしって、そうやって、茫洋と霧の中に積み重なって消えていってるんだよなあと、印象が刻まれる。

 時代も移り変わる。人も死に代わる。積み重なったものが、社会的には無用のものとして棄てられていく。だが、一本の桜の木が、定点観測のように人と時代と社会の移り変わりを見つめているんじゃないかと、この映像作家は、つかみだしてくる。7年間も掛けて制作したというのは、上映の前に登場した監督あいさつで知った。すでに亡くなっている大杉漣や小松政夫が登場人物であることも、そのなかで分かった。舞台になった室蘭の町も、移り変わる。

 人生そのものが、靄のかかったなかに過ぎてゆく。きっちりと切り分けて、解析して、ひとつの解釈をあてがって次へと行ってしまうキンダイは、いつも晴れ晴れとしていなくてはならない。そういう輪郭を描き採ろうとするクセを棄てて、霧の中に消えていく「かんけい」の堆積が、わが身の裡に、この地上にいた人の数だけ積もり積もって、この桜の木に凝縮されている。そんなことを謳いあげているように感じた。そうだよ、人生って、茫洋としたところで感じとってみるのが、最上の受け止め方なんだよ。そう受けとめてみると、なんだ、わからないことが茫洋とした地平に広がっているのが見てとれるように思う。そうだよ、それを感じとるのが最良のヒトの知性ってもんじゃないか、と。

 でも映画の最後まで「モルエラニ」が何か、わからないままだった。いまネットで検索してみると、アイヌ語で「小さな坂の下」という意味だそうだ。たしかに桜の木は、少し高みから見晴らせるように位置してはいた。この映像作家は、霧の中を見晴らすのに、やはり少し高みが必要だと言っているのだろうか。人生を見晴らすのは、高齢化するという、少し高みに立つ必要があるってことか? 今や年寄りが高みなんて誰も思ってないけど。

2021年2月12日金曜日

体の反抗と警鐘

  男は手紙を書いている。先ほどから一向に筆がすすまない。次の言葉を考えていたのに、いつのまにか寝込んでいる。ぐらりと体が傾き、机に額をぶつけそうになって、さっと身を起す。その瞬間に、何をしてるんだ俺は、と怒りに似た憤懣が心裡に湧き起る。もう何時間も寝ているじゃないか。疲れているはずがない。なのに、なんだこのざまはと自分の身のふがいなさを感じる。つい手紙に、この眠気が不快だと書きつける。

 と、机の左隅にある小さなミミズクの置物の目が、きらりと光る。


「おまえ、何に腹を立てているんだ?」

「眠気だよ、この眠気。なぜなんだ。どうにかならないのか」

「眠いんだろ? 眠ればいいじゃないか」

「だっておれは、今手紙を書いてんだよ」

「急ぐ仕事かい?」

「いや、そうじゃないけど・・・」

「後回しにすればいいじゃないか」

「だって、十分寝て起きたばかりだぜ。なのに、このふがいない」

「おまえさん、医者にかかってんだろ? 余命いくばくって言われたんじゃないのかい?」

「そりゃあそうだが・・・、そんなことを言ってたら、いつまでたっても病気に勝てないよ」

「どうして病気に勝とうてすんだよ。病気になって休めっていわれてんじゃないのかい?」

「そんな、気弱なことでどうすんだよ。もうそれだけで負けが込んでるってもんだ」

「そうじゃないよ。おまえさんは、頭で考えてるから、そういうことを言うんだよ。体の身になって考えて見ろよ」

「ん?・・・」

「もう70年以上も、こき遣ってきたじゃないか。手入れをするよりも、筋トレだ、持続力だ、瞬発力だって、体を苛め抜いて来たんじゃないのかい?」

「そんなあ、イジメたなんて。鍛えたんだよ。鍛えたのっ」

「同じことさ、体にとっては。過ぎたるは、なお、及ばざるがごとしだよ」

「うるせえ、知りもしないくせに」

「そう、しらないよ、わたしは。でもね、おまえさんの体は知ってるんじゃないのかね」

「ん? どういうこと?」

「体が悲鳴を上げているのさ。ヒトってのは勝手なもんで、こうと思い込んだら、ついついそれに向けて突進しちまう。お前さん、ちゃらんぽらんてのが、いやなんだろ。いい加減にするってのが、できないんじゃないのかい? そう、几帳面で、水も漏らさぬ潔癖症。誉め言葉だと思ってるだろうが、そりゃあ、近代のヒトの悪い癖だよ」

「・・・」

「眠気ってのは、おまえさんに対する体の軽い反抗ってとこだね。医者に言われた病気ってのは、重度の反撃ってわけだ」

「おいおい、自分が自分に反抗したり反撃してどうすんだよ」

「そう、気づいたかい? 反撃してる自分てのは、体の方だ。反撃されてる自分てのは頭の方だね。自分が分裂してるんだよ、お前さんは」

「どういうこと?」

「何かをしようとするときに、自分の体に聞いてみろって。これって過ぎたることかいって、体に聞いたことはあるかい?」

「体に任せていたら、何もできなくなっちゃうよ」

「そんなことはない。体は頭よりも優れた判断能力と反応能力を持ってるんだよ。ああ、大人の話だよ。子どもはまた別の文法をもってるからね。いっしょくたにはできない」

「・・・」

「70年以上も連れ添ってきたおまえさんの体じゃないか。まず、よくもったねえとねぎらってやらなきゃあ。眠気を不快だなんて、体に対する頭の暴虐だよ。病気だって、よくこれまで我慢してきたねえって、いたわってやるのが先だろ?」

「そんなんじゃ、病気と戦えないよ。負けこんで死んじまうよ」

「そこだよ、そこ。戦うんじゃないよ。負けこんでやればいいじゃないか。体がそうしたいっていうんならサ。死にごろってのこともあるんだからさ、頭もそういうことを考えておいてやらなくちゃあ、体がかわいそうだよ。ヒトはまず、頭が死ぬんだ。身体は、その後から死んでいくんだよ、少しずつ、だんだんと、ね。」

「年を取ってからの病気とか体の不調ってのは、これまで生きてきたあいだの頭に対する警鐘なんだよ。だからしっかりと耳を傾けてさ、ほど良く世話を焼いてやんなよ。ご苦労さんってサ」


 男は机から離れ、傍らのベッドに横になった。誰に手紙を書いていたんだっけ。思い出そうとしたが、思い出せない。そんな茫茫たる気配を感じながら、眠りについた。

2021年2月11日木曜日

静かな里山の散歩道、正丸峠~秩父丸山

 晴天が続く。だがコロナウィルスの緊急事態宣言もあって、山まで自粛気味だ。県内の山ならいいだろうと足を運んだのが、正丸峠~丸山のルート。私の外に3人の方が顔をそろえた。昨2月9日。

 8時半ころ、西武秩父線の正丸駅で合流。私は車で来た。正丸駅から300mくらい歩いて国道と分かれ里道に入る。「旧正丸峠・刈場坂峠→」の小さい標識がある。すぐに舗装路が終わり、山道になる。沢に沿って杉林の中を登る。50分ほどで正丸峠へ向かう舗装車道に出る。すぐにまた、登山道に入り、急登を登る。「旧正丸峠」と表示のある鞍部に着く。コースタイムより少し早いが、いいペースだ。先頭を歩くmsさんは、しばらく山を歩いていないから心配とはなしていたが、どうしてどうして。久々のおしゃべりをしながら、ペースを保っている。

 ここからアップダウンがはじまる。木製の階段が設えられているところも、それが崩れて歩きにくく、傍らに出て上り下るものだから、そちらの方も滑りやすくなっている。あまりの急斜面にロープが張ってある。それにつかまり、木立で身を支えながら、降り、登る。途中で振り返ると、武甲山が大きく木立の合間に見える。医師を削った後に雪がついている。傍らのくぼ地には雪が残る。空気は冷たい。風がないから、陽ざしを受けてそれほど寒さを感じないが、気温は5度くらいか。

 急な滑りやすい斜面を落ち葉を踏みながら下って、虚空蔵峠に着いた。出発してから2時間。ykyさんの話によると、虚空蔵という名のついた山や峠は29カ所あるという。そして、この菩薩様は、智恵の神と言われているが、その神の使いを務めているのが牛だそうで、丑年に虚空蔵と名のつく山や峠を歩くとご利益があると、聞かせてくれた。なるほど、じゃあ、この先にある牛立久保という地点の名も、虚空蔵菩薩とかかわりがあるのかと話しは弾む。虚空蔵峠には、舗装車道の脇の草地に名残の雪が広がっていた。

 刈場坂峠への道を分かれ、牛立久保への山道に入る。ひと上りすると、雪の広がる原に出る。踏み跡が一筋ついている。そこから5分で刈場坂峠からの稜線上にある牛立久保に出る。ここから丸山へは「関東ふれあいの道」になる。降り斜面に雪が残る。困るほどではない。岩場に出遭う。登る前、「バカ岳の手前に危険マークがついてる」とmsさんが話していたのは、この辺りのことか。岩を縫って登る。岩の上を歩く。変化があって面白いってところか。

 カバ岳に着く。11時45分。お昼にしたいが、樹林に囲まれ陽ざしがない。少し先へ行き、陽の当たるところに座る。武甲山の方を向いて、弁当を開く。家の庭にやってくるスズメを猫がとってきて困るとか、実った木の実をヒヨドリに取られるとか、ムクドリかなとか、どうやったら小鳥を呼び寄せられるかと話しが広がる。30分近くものんびりとした。

 出発して10分ちょっとで大野峠に着いた。ここも雪が残っている。舗装車道が通り、東屋があり、大きな「よこぜイラストマップ」が立てられている。それでここが、横瀬町だとわかる。山道に入る。すぐに木立が途切れ、広々とした草地に出る。風をみる吹き流しがある。パラグライダーのスタート地点なのだろう。ずうっと向こうに見えるのは、小川町だろうか、東松山市の方だろうか。

 大野峠から西へ向かう。笹原をかき分けるように踏路が走っている。丸山の方からやってくる人に出逢う。この日見かけたのは5組6人。単独行の人が多い。皆さん芦ヶ久保から登ってきたようだし、大野峠から芦ヶ久保に下るルートをとるのかもしれない。北側斜面には雪がずいぶんとついている。

 3階建ての展望台が設えられた丸山の山頂に到着。屋上には固定式の双眼鏡が4基も据えられていて、どれも無料だ。見回すと、西は蕎麦粒山から有間山、大持山、武甲山と、去年歩いた山が連なる。西に両神山が、あの独特の山稜をみせ、左肩の遠方に見える雪山は八ヶ岳のようだ。右の方へ目を移すと、浅間山であろう、大きな雪山がど~んと座る。手前には去年登った赤久縄山が黒っぽく侍っている。妙義山、榛名山、赤城山と連なる向こうに、苗場山、谷川連峰、武尊山が背景を務め、奥日光の男体山や女峰山へと白い峰を並べている。いや凄い眺望だ。

 この丸山からの下山路が厄介であった。急斜面に加えて、雪が残っている。その上、凍っている。落ち葉を踏んでいても、どこかで雪に乗らなければならない。ストックを持っていないykyさんはずいぶん気を遣って下っている。この後、何カ所かでこうした残雪と凍結に用心しなければならなかった。東屋のある脇の枯木に小鳥が飛び交っている。ヤマガラの色がきれいだ。シジュウカラが勢いよく飛ぶ。何羽も何羽もやってきては、飛び去り、またやってくる。みていて飽きない。

 森林館を過ぎると、しばらく舗装林道を通る。だが、雪掻きをしていないため、車の轍が凍りついている。山道へ下りると少しホッとする。こちらは落ち葉があるから、まだ、滑らないように歩くことができる。日向山への分岐で芦ヶ久保駅方面の左への道へ入り、鹿除けの柵を出たところの先から、舗装路に出る。何本も道があり、どれを選ぶかちょっと迷うが、一番急な傾斜の舗装路をとれば、最短の芦ヶ久保への道になる。くねくねと九十九折れの道を下っていくと、やがて下方に西武秩父線の線路と駅舎がみえ、その手前に道の駅芦ヶ久保の建物と駐車場が広がっているのが見える。

 ちょうど南向き斜面だから、陽ざしを受け、目的地を睥睨しながら下る心地よい下山路だ。芦ヶ久保の道の駅に降り立ったのは、14時51分。「ちょうど計画通りの時間ですよ」とmsさんが笑っている。歩き通せるか不安を抱えていた彼女は、これでちょっと自信を回復したんじゃないだろうか。行動時間は6時間20分。足慣らしの山歩きとしては、静かな良いコースであった。

2021年2月10日水曜日

うるさい! お前ら、邪魔をしないでくれ

 一年前、2020-02-10のこの欄に「統治の歴史観と暮らしの歴史観」と書いた。

《断捨離の入口でうろうろしていたら、古い新聞の切り抜きに小浜逸郎がJICC出版から出ていた「ザ・中学教師」シリーズの変遷に触れて、私たちの活動を評している記事があった。・・・》

 とはじめて、小浜逸郎が私たちの昔の活動を批評した文章を取り上げている。

 

 アナーキーということを、私は肯定的に使っている。現場主義ということも、普遍的とか一般的にであるべしという考え方に対しさせて、肯定的に使っている。

 つまり、こういえようか。普遍化するとか一般化するというのは、次元が違うことなんだ。今、ここに生きているものにとって、そんな言説や解釈は、どうでもいいこと。こちらに介入しないところでやっておくれと考えているのだ。

 庶民の生き方とか、考え方というのは、アナルコサンジカリズム、そのものだと、いま改めて思う。なぜって? それは、原初の発生的な由来を持っており、現場のモンダイであり、現場での解決を望んでおり、それが全体や全国や世界にどのような意味を持つかなどということは、どうでもいいのだ。

 だが、「論者」は、そうはいかない。その場、そのときの、そこでしか通用しないことというのを、全国区や世界に適用したがる。だがそのとき、現場の切実なモンダイは、どこかへ押しやられて、平準化され、平均化され、どうでもいいことに力が注がれて、揮発してしまっている。学者や、政治家や、エリートと呼ばれる官僚たちがやっていることって、そういうことじゃないのか。

 だったら、庶民にとって、彼らは、いらない。最悪のウィルス禍何かが襲ってきたとしても、そういうエライさんたちに何かやってもらおうという「期待」を持つことをしないで、うるさい! お前ら、邪魔をしないでくれ、って叫び出したいよね。

2021年2月9日火曜日

コロナウィルス禍、上陸の予感

 去年の2/8のこの欄に「江戸を想う」と題して綴った一文がある。

《「新型コロナ」騒ぎで、横浜の港に豪華客船が足止めされています。医薬品や食料を補給しているのを見ていて、ふと、江戸末期に来航して、薪と水の補給を許可してくれと頼みこんでいた・・・》と書き始めて、コロナウィルス騒ぎのはじまりに触れている。

 じつはその2日前、三浦アルプスを歩いて、はっきりと横須賀港の裏の高台から横浜港をも遠望して、「対岸の火事」を見つめている。そのとき、ひょっとするともうすでに、ウィルスは上陸しているんじゃないかと予感を綴っている。予感の根拠は記していないが、発生源となった武漢の都市封鎖や往来の禁止という外国の取り組みをみていて、そうだよなあ、豪華客船だけに絞ってていいのか、ウィルスの拡散する抜け穴があちらこちらにあるじゃないかと、世界をみる私の感性が訴えていたってわけだ。


 その後をみてみると、文字通り予感が当たった。喜んでいるのではない。政治家や官僚、学者たち為政者が、市井の年寄り以上の感性を持っているはずなのに、どうして、事態を大網をかけみることをしなかったのだろう。いや、そういう方がいたとしても、そうさせない力が働いていたんだよと、ワケを知るジャーナリストは解説してくれる。五輪開催とか経済の後退とかに思いを馳せて、「日本の安全」を保とうとしていた、と。


 でも一年経ってみると、それだけではなかったと「わかる」。第一波が第二波、第三波と及ぶことや、それに応じた感染の広がりのチェックや、それを実務的に保障するシステムの整備など、振り返って考えると、あれもこれも、目前の「課題」に対処するだけで精いっぱい。先々を見通し、実務的な細部にも目配りして、全体をイメージすることが軽んじられているのが現在のシステムだと、一年経って思い当たる。


 今更、どうしてそうなったと由来に目をやってやりとりしても、仕方がない。ただ、皆目前のことだけに集中して、目前の事態の積み重ねが何を招来するかをみていないのでは、大きな物語を描くことはできない。いや逆か。ひょっとすると、大きな物語はもう少しも人の心を動かす力にならない。どなたも、目の前のコトを愉しみ、目の前の損得に夢中になり、一瞬一瞬を味わって生きる力をつけようなどと、刹那的になっている。それは時代の然らしむるところであって、もう誰も、大きな絵を描いて行く末を案じることをしない。もしそうしているなら、ヨーロッパの気候変動への切実な反応に、もっと共感する動きが多くてもおかしくないはずである。つまり、個々の為政者の能力とか関心を傾ける感性という次元ではなく、時代とか社会とか世界が、長期的な見通しというものを片隅に押しやるセンスに満ち満ちるようになったのである。


 でも気付いたときには、もう引き返しがきかない所に来てしまっている。ではどうすればいいかというと、いまさら庶民にどうこうする知恵があるわけがない。ただ、自らの身を自身で護るために、長い目で見て何が必要かと思案して、導き出されることへ踏み出す「ちから」が残されているかどうか。それこそが肝心と思う。他人に依存することを当然と考えてしまう感性。これって、なんだろう。「独立不羈」の魂が失われていないか。


 そう思うと、現代の市場社会ばかりでなく、人は人に依存して暮らしてきた。基本的に依存しないでは生きていけない「関係」に包まれている。そのなかで、「独立不羈」であるとは、〈依存―独立〉の矛盾的な実在をどう統一的に保つかという綱渡りである。それは、一個が一個との関係をどう紡ぐかという次元のモンダイではない。人々が、どう人々と連携しながら自立していくかという「関係」のモンダイなのだ。


 コロナウィルス禍の下で、どう振る舞うかという問題も、〈依存―独立〉の矛盾的な実在の在り様として考えると、人々と人々との「関係」のモンダイが浮かび上がる。そういう地点に一年経って到達したのだと、身の裡を振り返っている。

2021年2月8日月曜日

渦巻き再生するマグマ

 真藤順丈『宝島HERO's ISLAND』(講談社、2018年)を読む。

 1952年から1972年の沖縄が舞台。戦中生まれ戦後育ちの私たち世代なら、心当たりのある20年ほどである。そう、日本が独立してから沖縄を「取り戻す」までの年数を指している。その間、私は自身が生きていくのに懸命で、沖縄のことを気遣う余裕がなかったなあと、思う。いや、気遣うという余裕自体が、本土(ヤマトゥ)の心もち。気遣ってなんかいらんワ、とこの小説に登場する人々は思っている。

 アメリカ世(ユ)が本土世(ヤマトゥ-ユ)になったからと言って、沖縄人の心裡が晴れるわけではないと、島津の時代から強烈に感じ続けてきた人たちにとって、アメリカ世は複雑な思いを抱かせる。だが、基本的には戦争の「混沌」がつづいている。暴力的に占領する米軍に盗みでもって生活必需品を奪うのは、いわば生きる必然。略奪品を人々に配って暮らしに役立てる心粋(=心意気)こそ、人々の「英雄」。その心粋(=心意気)、魂にこそ、命が宿る。命が宝(ヌチドゥ タカラ)という俚諺を想い起せば、それが繰り広げられているシマこそ「宝島」。

 絶対的な国家権力が牛耳る「民主社会」は、統治する方も支配される方も「混沌」に投げ出されている。暴力に裏づけられた圧倒的権力支配は、犯罪的暴行を生み、偶発的事故をも治外法権的に処理されて不公正な暴虐と化す。本国の貧困と差別の集積としての年若い兵士たちとベトナム戦争での疲弊、そのはけ口としての沖縄という構図も、おおよそ近代的な合理性と法の支配という条理を絵空事にしてしまう現実展開。「宝島」は、人類史が培ってきた制度や仕組みや観念を吹き飛ばして、原初の「混沌」に足をつけて歩き始めた地平の心粋を探り当てていかねばならない。生きる原初のマグマが、制度や観念の表層を取り払って噴き出してくるしか、道が残されていない。

 そこで作動する「ちから」は、高度経済成長にドライブをかけていた平穏な社会からみると、不条理と不合理と盗みと暴力の行使であり、暴虐の支配であり、犬猫と同じあしらいの人々の暮らしにおかれて見棄てられて、蠢いている。おおよそ「本土」の気遣いが届いていないというよりも、独立した本土の人々が、まったく知らない世界が展開していたのであったが、(今となって)一皮むけば、実は本土も同じ統治支配の構図があったのであり、近代的な制度や観念は、それらを隠す覆いでしかなかったことが、暴かれている。

 この作家は、原初のマグマは、渦巻いて再生していくと展開する。1972年に「本土復帰」してのちに、「宝島」は再生するのかへ疑念を提示して、物語は終わる。そのとき読んでいる私の胸中には、「沖縄」というより「琉球」という地名が色濃く印象付けられていた。明快にその言葉がつかわれてはいないが、心粋(=心意気)のなかに垣間みられる独立不羈の心もち、自分たちのことは自分たちで決める強い意思が、自ずともたらした印象であろう。

 ひょっとすると、本土はとっくに、そうした心粋(=心意気)を喪ってしまったのかもしれないと思わせた。いや違う。ひとたびそう見えたとしても、その心粋(=心意気)は渦巻き再生していくのだと、この作家は叫んでいるように思った。

2021年2月7日日曜日

埋もれた社会規範のマグマ

 コロナウィルスによる世界の大慌ては、人類史がどのように「社会規範」を紡いできたかを、よく示しています。コロナウィルスの「脅威」をどう受け止めるかというとき、目前の暮らしを立てる立て方によって、その評価が異なったのです。むろん、どれが正しいやり方かもわからなかったわけですし、やたらと感染者や死者が多くても、それは外部から持ち込まれた「脅威」であって、それを排除すればいいとばかり「チャイナウィルス」呼ばわりしていたのは、「神のご意思」を奉って、迫る事態に(打つ手はないとして)ある種観念するのと同じ、心理的な働きをしている。「陰謀論」である。

 一つの社会の規範は、外部からの脅威によって意識され、かたちづくられる。

 思えば社会が人類規模に広がったのは、遠く見えはじめたのが五百年前、繋がりが切実になって絡み合いはじめてからはせいぜい百数十年、資本家社会的な市場が一つの影響力を及ぼしはじめたと考えると、まだほんの数十年です。いや現在であってもまだ、資本家社会的な市場経済の世界規範が確立しているわけでないことは、市場経済交渉が二国間であったり多国間であったりしながら、未だに揺れ動いて落ち着きどころを探っています。

 逆にいうと、原初(世界には)、社会は小さいのがたくさんあった。社会規範は、その小さい社会それぞれの中の、安定的関係としてかたちづくられていたのです。そこに生じる「脅威」は、何時でも外部から持ち込まれたといえます。もちろん「脅威」ばかりでなく、新しい「刺激」も外部から持ち込まれましたから、「外部」は「脅威」と「刺激」の両義性を持っていたといえます。両義性のそれが、どちらに転じるかは、受け容れる社会の規範の流動状況によることでした。

 つまり、待ち望むことであると同時に、用心して向きあわねばならないものであったわけです。

「脅威」は、外部からの力による攻撃だけではありません。外部からの「刺激」によって、小さな社会の安定的関係(=規範)が揺らぐことでもありました。つまり「外部」と触れあうことによって、小さい社会で自然発生的にかたちづくられてきた内部の規範が意識され、これでいいのか、どう変える必要があるのかと思案する対象になったといえます。

 それは同時に、内部と外部が、その端境のところで溶け合って共有する規範を新たにかたちづくることでもありました。そのようにして、小さな社会が、隣接する、あるいは遠方から接触してくる小さな社会とふれあって、少し大きな社会に変容していくことです。世界が広がることでした。

 そのとき、元の小さな社会の規範は無用になるのではなく、そこに生きている人々の心裡深くに堆積して、社会としての紐帯のマグマのように作用しています。次々と出会う新しい社会との接触によって、小さな社会が大きく変容していくことがくり返されていくとは言え、いつでも新規に塗り替えられてはいても、心裡に堆積する「規範」の原形(=マグマ)を参照しながら、適合的かどうかが問われ続けています。頭で判断するより一足早く、身が反応していると、進化生物学的にも明らかにされています。同時に、その社会においては、規範は多様性を帯び、分岐が生じるマグマの動きを保ってしまいます。それを一つにつないで、「くに」とか「連帯」と感じる地点のマグマには、新たに加わった「安定的関係」の規範もあります。「民主主義」とか「自由」とか「独立不羈」というのも、古いマグマの心裡から紡ぎだされてきた、後付けの規範だといえます。

 それを発生的にみると、原初は混沌でした。

 善し悪しの別もなく、小さな社会の中で安定的関係を模索していたのでしょう。どうして「安定的関係」を模索したのか。そもそも「安定的関係」とはなにか。持続的関係と言ってもいいでしょう。家族、氏族という保護的な関係の中で人は育ちますから、親や兄弟、縁戚の人たちとの保護的な関係が、まず身に沁みつきます。自らに関わる保護的な関係は、他者に対する利他的な関係です。でもその根底には、自己に対する保護的な関係(=利己的関係)も包み込まれていますが、それが剥き出しでは受け容れられません。その、生育中の、利他的=利己的関係が同時進行的に成立する規範こそが、身に沁みて培われたものと言えます。

 利他的と利己的が対立するのは、他者と自己が分裂するからです。それは別様にいうと、自己の保護的な障壁が薄くなり、「外部」がすぐ身の傍に屹立するようになるからです。「自由」とか「独立不羈」というのも、小さな社会=自分という、「外部」との関係が崩れて、「家族」ですらが「外部」の抑圧のように感じられる時機を、生物学的な生育歴中に抱え持ち、身の裡に堆積していたからだと、大人になってから振り返って気付くというわけです。

 原初は混沌であったというのは、自己が自己として小さな社会から分岐して後に、振り返って見てとった、後付けの解釈です。そうやって後付けで解釈してみると、混沌はアナーキーであり、規範に対する反抗であり、掟破りであり、無茶苦茶であり、規範とか秩序という収束的な社会関係を壊すことと同義にみえるわけです。その衝動は、ヒトが人間になることによって乗り越えられているわけではなく、堆積して身の裡に沈み、なおかつ、生きていく生命体のマグマとしてつねに身の裡に渦巻いてエネルギーの再生をしている。そうみるのが、人間的とか動物的とか区分けするよりも、一番適切に、社会的な事象とヒトとしての「わたし」とをつないで理解する地平ではないか。そう思っています。

2021年2月6日土曜日

大きな公園とビオトープ

 一昨日(2/3)と今日(2/5)、二つの公園を案内してもらった。先日の、さいたま市西区の秋葉の森自然公園と同じ、師匠の探鳥地である。

 一昨日の一つは、上尾丸山公園。今日のそれは、坂戸市にある浅羽ビオトープ。

 上尾の丸山公園は、都市公園といおうか、児童遊園地や運動公園、遊具のある広場やバーベキュウ場まで設えられている森に囲まれた区域。荒川沿いに南北に2kmほど伸びる公園の西側には、並行して小川も流れる湿地がある。川の水は、目下、涸れ気味だが、葦や萱が生い茂り、その向こうには荒川の河川敷が広がっている。

 坂戸の公園は高麗川の河川敷に広がる東西約2kmに広がる原野。いや精確にいうと、西の日高市から鶴ヶ島市を経て坂戸市に至る10km余の高麗川ふるさと遊歩道の一部だが、ビオトープという名の通り、自然保護地区のような景観を保っている。どちらかというと、見沼田んぼのトラスト地に近い感じの地域が、大きく広がっている。こちらは上尾丸山公園と違って、いつ行っても鳥数が多いということであった。

 丸山公園を訪れたのは水曜日。すでに駐車場にはたくさんの車が止まっていて、子どもを連れた家族が遊具のまわりに群がっている。あるいは日当たりのいい広い芝生に敷物を敷いて、小さな子ども兄弟を遊ばせたり、滑り台を懲りずに何回も上り下りする子どもに付き合って、親も滑り降りたりしている。傍らを、ラジオをぶら下げて、のったりのったりと歩きまわるお年寄りもやってくる。ご近所の方なのであろう。

 望遠カメラを持った鳥観の人も、何組か、先行している。コゲラがクヌギの木の幹に取付いて、木肌の溝をほじくっている。虫を見つけたのだろうか。木の幹に「虫取りをする人へ 掘った穴は戻してください」と書いた小さな標識が取り付けてある。カブトムシやクワガタの幼虫を取りに来る人がいるのだろう。下にみえる湿地の水が涸れかけている。今年は雨が少ない。それにこの公園は武蔵野の平地にある高台。水を供給するのは荒川だから、地下水をくみ上げでもしないと水はすぐに枯渇するのかもしれない。そういえば、思い出した。1970年のころ、4年ほど、この上尾に住んだことがあった。そのとき、ここの水は美味しいと言ったら、そりゃあここの上水道は地下水を汲み上げてっからだよと教えられたことがあった。関東北辺にふった雨や雪が関東ローム層とその上に降り積もった黒土に沁み込み、地下水となって大宮台地へゆったりと流れ込んでいるというのだ。表層を流れる川の水よりも、地下を流れる浸透水の方が水量が多いかもしれないと思った。

 残った水路の水をのぞき込んでいるカワセミが一羽。それを遠巻きにしてカメラを構えている4人の人たち、それに背中を向けた師匠が指さすところの、入り組んだ枯木に身を隠すようにヨシゴイが背を向けてじっとしている。背に陽ざしを受けて日向ぼっこか。傍らの茂みを飛び交う小鳥がいる。出て来た。ヤマガラだ。色合いが美しい。

 さらに先、じっと何かをみているカメラマンがいる。師匠が「あれ、なんだかわかる?」と指さす。頭が白い? わからない。「ほらっ、お腹にオビがあるじゃない」と言われて、ノスリだとわかる。私は視力が落ちているのか。カメラに収めておいたのを今見ると、たしかに、腹にだんだら模様がある。ノスリだ。近づいてシャッターを押す。ノスリはこちらを見下ろして、目が合ったように思った。

 あら、富士山、と師匠が言うので目を上げると、遠方に、雲を少しからげた白い富士山が、霞に溶け込むように姿を見せている。良い日和だ。

 端の方まで歩き、荒川をのぞき込んでから、中央の芝地でお昼にしようと引き返す。風が強くなった。水路を覗きこんでいるカメラマンがいる。みると、お立ち台に立ったカワセミが水面をにらんでいる。私もカメラを構えてシャッターを押す。ピンとは運まかせだから、ま、記録ってところだが、こちらを向いたカワセミの目がちゃんと写っていた。

 お昼を済ませ、帰路を歩く。少なくなった池の一羽のカワウが陽ざしを受けて青光りする羽根を広げている。普段見ているウと違い、威勢の良さがみなぎっている。ダイサギがいた。脚で水中をかき混ぜては、覗き込んで、ときどきくちばしを差し込み、小魚であろうか、虫であおろうかを啄ばんで呑みこんでいる。少し離れたところの石垣に身を寄せるようにコサギが佇んでいる。池中央の噴水台の上にアオサギが乗って周りを睥睨しているようだ。

 この上尾の丸山公園でみた鳥の数が少なかったので、昨日(2/5)に浅羽ビオトープへ案内してくれたというわけであった。

 上尾よりはちょっと遠い。倍くらいの時間がかかる。上尾から川越に向けて荒川を渡る開平橋を超えると、橋の上から西側の山が一望できる。左の方に雪をかぶった富士山、中央にはっきりかたちがわかるのは武甲山、そして右の方には、やはり雪をまとった浅間山が一目に収まる。やあ、すごい。これをみただけで、この道を走った甲斐があったというものだ。

 どこを走ったかは、naviまかせで分からない。ビオトープ近くの浅羽野小学校を目印にしていたが、その近くで師匠が、ああ、あそこよ、と指さす所に何台かの車が止まっている。ビオトープ駐車場とあり、トイレも設置されている。

 たぶん高麗川の土手を超えて河川敷に入る。ビオトープを紹介するイラスト看板には「国土交通省荒川上流河川事務所」とある。へえ、荒川と高麗川は関係があるのかと思う。この高麗川の下流には越辺川がある。一昨年の大雨によって越辺川が氾濫し、老人ホームが浸水被害を受けたのではなかったか。「こまがわふるさとの会」が活動報告の新聞を掲示している。その脇に「武蔵野銀行緑の基金、セブンイレブン記念財団、武州入間川プロジェクト」の協賛団体が名を連ねている。なるほど、こういった人たちの支援を得て、ボランティアがビオトープを管理しているのだなと分かる。見沼田んぼのトラスト地と同じだ。

 高麗川の本流と並行して、そこから分流している細い川がビオトープの中を流れている。その水流も少なく、下流でついに伏流してしまい、本流に合流するところで水面が現れている。川に挟まれたところの灌木の下地に鳥影が動く。みると目の周りを白くしたガビチョウだ。いつもは賑やかな鳥だが、落ち葉をつついて何をか啄ばんでいる。ダイサギがいる。師匠が足の色に注目しろという。人肌色をしていてアオサギほどに大きいのをダイサギ、これまでダイサギと呼んでいた、それより少し小さく脚の黒いのをチュウダイサギとして区別するようになったと教えてくれる。

 シメがいる。イカルの群れが右手の林から現れ左の灌木へ飛び移る。シロハラの声がする。木の枝をカシラダカが飛び交う。茂みに現れた小鳥に陽ざしが当たり、縞模様の入った黄色い腹を見せつける。マヒワか? 師匠に告げてそちらを指さしたときには、もう飛び去っていた。いても不思議ではないけど…と師匠は、慎重だ。帰宅して図鑑をみるとマヒワもそうだが、アオジも縞模様のある黄色い腹をしている。でも、正面から腹を撮った図鑑の写真は、どちらもなく、判別が出来なかった。

 ベニマシコが対岸の茂みの中にいた。これも、私だけが見て、師匠はみていない。赤い腹をみただけなので、これも同定できていない。ま、慌てず、ぼちぼちと憶えていこう。カワラヒワが枝から飛びさる。細い川から離れ、高麗川を下にみながら西へと歩く。ジョウビタキが枯木の突端に止まる。アオジが現れる。シジュウカラが飛び交う。セグロセキレイが、河原を行き来している。キジが3羽、声を立てて飛び上がった。

 おっ、畑がある。ビニールの覆いをかけて何かを栽培しているようだ。少し先に看板が立ててある。「この場所は国道交通省が管理している河川区域(国有地)です。この場所を耕作することは河川法**条に違反します。撤去してください。云々」と書いてある。ビオトープの管理をしている「こまがわふるさとの会」と(この畑の耕作者とは)どういう関係にあるのだろうか。私の感覚では、いいじゃないか。(国土交通省が必要となれば)いつでも壊して撤去すればいいと思うが、そうもいかないのだろうか。公平平等に反するって言っても、何も手をつけないで放棄地にしておくよりは、なにがしかの耕作をしている方がいいじゃないかと思うが、何かまずいか。

 エナガも現れた。カシラダカが草地の何かを啄ばんで群れている。イカルが小川に水を飲みに来て群れている。と思うと、林の中の草叢に降りてちょいちょいと嘴を動かしている。おっと、その左の方にはカメラを持った鳥観の人が二人、じっと佇んでいる。

 お昼を済ませて、東の方へ行ってみる。すぐに行きどまる。小川を渡り、土手と小川のあいだの踏み跡をたどる。向こうに関越道の橋が架かり、通過する車の音が轟轟と響いてくる。ハクセキレイが2羽、縺れあって飛び遊んでいる。

 高速道の橋の下を超えると、水辺にシギがいる。師匠はクサシギよという。イソシギがよく目につくが、首のところに食い込みがあるかないかをよく見てねという。私の双眼鏡では見えない。カメラに収めたが果たして、それを観察できるようにとれたかどうかは、わからなかった。

 こうして、ビオトープの探鳥は終わった。おおよそ3時間半。ずいぶんいろんな鳥の、いろんな姿を観ることができた。

2021年2月5日金曜日

超モダーン・システムに適応する人々

 東京に、春一番が吹いたそうな。2/5、一面青空の晴。自転車に乗って9km先にある、さいたま日赤病院へ行った。この病院、2014年に弟が亡くなったときは、国道17号沿いにあった。駅から遠く不便であったが、いつであったか現在の、新都心駅のすぐ脇に移転した。もちろん電車で行けば、駅から徒歩3分だからアクセスがいいと評判だったが、これまでご縁がなかった。

 先日、ご近所のかかりつけ医でホルター心電図をつけたとご報告した。24時間の心電図を計測した。やはり昼間は2秒ほどの空白が生じている。不整脈だ。夜寝ているときには、その空白が4秒になっている。気分が悪くなったりしないかと問われ、別に~と応じると、不整脈の専門医がいるから診てもらいましょうかと、日赤を紹介されたというわけ。

 でも電車に乗るのがいやだなあと調べてみたら、わが家から何と9kmの距離。なんだ、これなら自転車で行ける。そして晴れわたる街。セーター一枚。午後北風に変わると聞いていたので、ウィンドブレーカーを持参したが、使わなかった。

 第二産業道路を外れ、浦和西高校近くの住宅街を抜けて、新都心駅に近づき、駅北側の地下道をくぐると、日赤病院の脇にぽんと出る。のんびり走って40分足らずであった。

 驚いたのは、患者の数。最初入ったビルは静かであった。と思っていると、そこは小児科病棟。案内係の人に、ご本人ですかと聞かれ、ハイそうですと応じたら、出口の向こうにある建物を指さして、別棟へ案内された。受付の2階フロアも、3階も1階も人で一杯。これは「密」だ。9時10分。

 「総合案内」で手続きの仕方を教わると、あとはほとんど口を利かないも済む。「診察券」ができると、一緒に渡された書類の記載にしたがって、3階の検査へ、1階の検査へ、再び3階の診察室で医師に診てもらい、2階の会計処理へとすすむ。大きく表示された番号に従い、それぞれの部屋の中の検査処理室の入口に表示される呼び出し番号にしたがって検査を受ける。その結果は、たぶんデジタル送信されて医師の元に届けられ、診察の資料として使われている。

 では、全くデジタルまかせかというと、そうではない。看護師やスタッフが声をかけ、何百人という、40科に及ぶ患者が右往左往しなくても済むように手際がいい。想定通りに運ばない人がいることを、十分組みこんで、人の言葉と動きがうまく作用している。15階建てほどもあるビルの5階分を検査と診療につかい、上部に入院加療の病室を配置したつくりは、ごった返すのではなく整然と「密」であった。座る場所もないところが、過剰な治療と期待感を湛えている。車椅子の患者もいるが、その方たちの通行が塞がれるようなことはない。入院している方と思われるパジャマ姿の患者もいる。

 そのように「密」な状態であるのに、検査治療を待つ人たちは、まことに整然と静かであり、何をどうして良いかうろたえている様子は、ない。つまりこれは、これほど過剰な患者を抱えた大病院のシステムが、見事に働いていることをしめしている。また、ここにかかる患者の人たちが、私をふくめて、見事に適応していることを表している。座る椅子が足りないということを除いて、設計段階から、人の動線を組みこみ、デジタル機能を駆使して、遅滞なきように、また渋滞を起さないようにデザインするのは、大変なことではないか。

 9時10分に病院に着き、会計を終えて病院を出たのは13時少し前。滞在時間は3時間50分ほどになる。医師の診察時間は5分ほどではなかったか。運動中の心電図をとることを予約し、その結果を聞くための予約も一月後に組み込んで、私の診察は終わった。すぐにモンダイになるようなことはなかろうが、念のための検査ですと、医師は口にした。初診だからということもあるが、別にそれで文句をいうつもりはない。医師とのやりとりをプリントにした文書をもらって、次回来院の際の注意を高等で受けて、短時間にそれだけのことが処理されていく工程に目を瞠った。超モダーンな病院のシステムに驚嘆しながら、デジタルとアナログの混在する、人の動きを組みこんだ仕組みの組み立てにひとしきり感心したのであった。

2021年2月3日水曜日

春立ちぬ

 節分と立春に1日のズレがあることを忘れて、一緒くたに考えていた。昨日(2/2)の陽気は、文字通り春が来た気配に満ちていた。

 朝8時ころまで降っていた雨が上がり、気温はどんどん上がる。10時ころ家を出たとき、空にはまだ黒っぽい雲がかかり、ひょっとしたら傘もいるかなと思わせたのに、帰ってくる頃には青空が広がっている。歩いていても、何がどうということではないが、お湿りを得た大地が温かさを寿いでいるように思えるほど、春の気配になった。いいねえ、この季節、と連れと言葉を交わしながら裏道を抜けて歩く。畑や苗木の植栽が目を覚ましたように感じる。竹林の脇を通るときには、もうタケノコが顔を出しているんじゃないかと覗き込むほどの気分であった。買い物ついでの散歩。

 汗ばむ。お昼前に帰宅し、お昼を済ませ、一休みしてから、もう一度、歩きに出た。30年前、この地に越してきたころうっそうと生い茂っていた森は切り払われ、幹線道路が敷設されている。その道沿いの広い部分は、土盛りをして沈むのを待っているのか、もう何年も裸地のまんまだ。中には囲いをして「工事中」の看板を掲げたまま、20年ほども経過しているところも。一体どうしたんだろう。

 県営団地にぶつかる。脇の道を西へ抜けようとしたが、一段低くなった細い水路沿いの工事をしていて、通行止め。水路に沿って南北に連なる耕作地の向こう側の住宅地とこちら台地側の住宅地を結ぶ通路が見つからない。南へ進路をとり、中学校にぶつかって行き止まり。もう一度、旧幹線道路に戻って西へ向かうが、ここも何か大きなホールのような建物があって、迂回して、旧幹線道路に戻ってしまう。大きな紙袋を下げた着飾った女の人たちが次々と出てくる。畑地を流用したような駐車場があり、何人かの整理用員がでて、交通整理をしている。何だ、この建物は。ぐるりと回って正面の入口の「監視所」にでる。どこにも、何も書いていない。掲示板に、よく意味の分からない「標語のような言葉」が書いてある。宗教団体なのか。それとも「内観」とか「精神修養」と呼ぶ、何かの集まりがあるのだろうか。

 旧幹線道路を渡って自宅の方へ向かう。浦和神経サナトリュウムの看板をみる。そういえば、40年ほど前、引きこもりの生徒の相談で、歌人でもあったここの医師に会いに来たことがあった。そのときは森の中という印象であったのに、今は新しい幹線道路から病院の建物の全容が見える。そうか、これだったのかとあらためて認識する。

 冷たい風が吹き込んでくる。見上げると、ちょうど頭上に黒い雨雲が広がる。南の風と北風がちょうどこの頭上でぶつかっているのだと思う。妙なことに、立春に向けて温かい節分が追い払われて、北風が吹きこんできたのだ。固定観念を吹き飛ばすような自然の所業。面白いと思った。

2021年2月2日火曜日

ウソの有効範囲と尊敬のまなざし

 国会議員が、コロナ渦中に夜の町へ行ったということで、議員職を辞任したり、離党したりしている。そのうちの一人、松本潤議員が「一人で行ったとウソをついていた」と表明し「有望な後輩議員を気遣って」と釈明した。それが「釈明」になると思っているところが、この議員にとっての「ウソの有効範囲」である。つまり、こう釈明することで、ウソの正当性が明かしだてられると思っている。

 だが、モンダイが週刊誌にとらえられたのは、緊急事態宣言によって国民に「自粛」を要請している最中に、議員が逸脱行為をしていいのかという「特権意識」である。つまりウソの正当性は、議員と国民との関係の次元においてはじめて有効性も認められ、正当性

も保障されるのである。

 ウソをついているのが許せないという感覚は、たぶん(日本の庶民は)もっていない。ウソをつくなと子どもに教えるのは、親兄弟というか、身近な共同性を裏切るなと言っているのである。ウソがうそであるとばれるのは、その弁明が「事実を語っていない」と判明したときだが、「語れない事実」もあり、にもかかわらず、何がしかのことを語らざるを得ないときに、ウソが発せられる。それがウソと分かった時にも、聞いている方が、ま、それはそれで致し方ないわなと、腑に落とすからだ。ウソの有効性とは、そういう嘘も方便として許容されることを示している。

 その有効性の範囲が、「有望な後輩議員」をかばってというウソは、同じ派閥か同じ党かは知らないが、その議員の関係範囲においてに限定されるにすぎない。それを、マスメディアの前で公言するというのは、彼の思い及ぶ「関係範囲」が派閥か党の範囲に限定されているからだ。「離党」というのも、党に迷惑はかけられないという言い訳をしているが、それもせいぜい、「党」との関係に限定される。つまり、夜の町で遊んだことやウソをついていたことが「迷惑をかける」範囲にある「党」は、じつは、その議員の行動についてなにがしかの「責任」を負う立場にある(と承知している)と語っているのである。だからじつは、「党」はそれについて何がしかの「責任」をとらなければならない。それが論理的必然であるが、「国会議員の進退はご本人が決めることだ」という決まり文句で、「党(の責任者)」は頬被りしている。

 そうだから他方で、同様の行動をした公明党の議員は、議員辞職した。これは、議員辞職させたと受け止めることによって、「党」が責任をとったと(国民は)受けとめる。別に私たち国民の範たれなどと期待してはいない。だが「みっともない真似はするなよ」とは思う。

 では「みっともない真似」とはどういうことか。もちろん市井のオジサンが「みっともない真似」をすることを咎める「国民」はいない。庶民はバカな真似をするものだし、愚かであることは「人間だもの」と承知している。だが国会議員となると、少なくとも私たちを統治する立場にいる。統治する立場の者が、派閥や党や、ご自分の選挙区や身の回りのことしか考えていないという「実存の次元」に、落胆するのである。なんだこいつら、ワシらとおんなじじゃないかというのが、「みっともない真似」に見える。だから「国民の範たれ」というのとは、次元が違う。

 マス・メディアは、実はそのあたりを抉り出して、庶民の思考を整理する役割がある。それが報道の役割であり責任である。議員の振る舞いの示す次元は奈辺になるのか。それを解き明かして、市井のオジサン・オバサンが喋々していることと橋を架ける。それを果たしてこそ、マス・メディアも尊敬を得るであろうし、報道される政治家たちも、その振る舞いを言い訳するのではなく、語れないことには沈黙を以って応じることができる。

「ウソをついていました」と公言する議員には「うそつき議員」と綽名をつけて呼ぶ。市井のオジサンはそういう応対を望んでいる。

2021年2月1日月曜日

山友も性友も趣味なのか

 一昨日(1/30)の朝日新聞の「悩みのるつぼ」には、時代の大きな変容を感じた。相談者は20代の女性。セックスフレンドと同棲して1カ月、心安らぐので結婚したい。でも相方は「非日常こそが面白い」と言っていて、結婚を言い出すと別れになるのではないかと心配、というもの。回答者の美輪明宏は相方のステージを考慮して、なにをしたいかを考えろ応えている。

 相談者の、セックスフレンドと暮らしとをきっぱりわけて同棲していることに、隔世の感がある。つい先日、佐藤正午の小説に感じたこと、性を機能的に分節化してみている見方が、すでに若い人たちには社会的に定着しているのか。そういえば、この全国紙の欄は「悩みのるつぼ」。パッと見たときの私の受け取り方は「人生相談」であった。つまり前者は、分節化したままだが、後者は総合的である。私たち年寄り世代の「性」の受け止め方は「人生」と切り離せない総合的なものであった。総合性が前提にあるから、身と心との分裂と内心で煩悶していたのだが、端から「性」だけを分けて「性友」とみていると、なるほど、どう統合するかが、次なるステージの課題となるわけか。

 ということは、同棲ということも、単なる生理的欲求部分での協調であって、暮らしという(全体的というか)総合的実存とは別物とみえる。いわば趣味の面での協調であって、山友とか鳥友とか観劇友というのと変わらないセンスで受けとめていると思われる。でも、そういうことなのか? 

 生理的欲求ということであれば、呑み友達とかランチ友だちとかお喋り友達というのと同じで、その場その場の愉しさが大事だが、それはそれで、その都度おしまいになる。断片である。SNSのネットワークと同じで、愉しめる間はつながっているが、つまらなくなれば離脱すればいい。関係を取り結ぶかどうかは自在となると、社会関係のつくり方も変わってくる。どう変わるか? 

 家族というのは、取り替えの利かない「紐帯」に結ばれている。この「紐帯」というのは、構成員の相互が拘束し合うことを必然とする。桃井かおり主演の映画『隣の女』で桃井が、「独立・自由って、恋愛すると全部なくしてしまうのよ」と呟く台詞があった。これは女に限らない。相互に関係を取り結ぶということは、互いに拘束することが生まれることを意味している。ただ、山友と性友は違うと、私たち年寄りは考えている。つまり山は、趣味の領域。その前提になる暮らしの領分が確固としてあり、暮らし領分の都合によって山友との協調は袖にされても仕方がないと了解している。だが性友は、趣味ではない、暮らしそのもの。実存と切り離せないと考えているから、他の性友に浮気したり二股掛けたりすることを、不実・不倫として、逸脱行為と考えてしまうのだ。進化生物学的に「性」を捉えても、そういうことができると、ジャレド・ダイヤモンドも展開していた(『性はなぜ楽しいか』)。「性」の相互性がもつ「拘束性」には、生理的な欲求を刹那的に満たすだけでなく、持続性・継続性が含まれ、その延長上には、「食」「住」をふくめた経済性も見え隠れしているのである。

 ん? あっ、あっ、同じところをぐるぐる回っているか? ちがうよね。

「性」は、それ自体が相互性を持っているから、関係の紐帯として「拘束性」をもつ。性的欲求を個体の生理的欲求を満たすこと機能的に考えると相互性が欠け落ちる。ちょうど「食」が、腹が減ったからそれを満たすと考えると、個体のカロリーや栄養分の補給のモンダイになってしまう。だが、獲物の獲得や分配、調理や給餌が集団的に行われる行為であることを考えると、相互性が浮かび上がり、「紐帯」の相互性が(考えかたの基点によるが)「拘束性」と受け取られることも生じる。持てるものが持たないものに分ける、公平に分ける、小さい子にも飢えないように与えるという分配のやり方は、それぞれの属する集団によって違いはあるが、それぞれに「掟」をもっている。その掟を受け容れることが集団への参入の出発点である。

「セックスフレンド」という同棲の形は、相互性の前提となる「拘束性」を、「契約」として扱うことによって、棚上げしている。個人の独立と自由が整うにしたがって、ますます「契約」的関係が一般化している。それは「独立・自由って、恋愛すると全部なくしてしまうのよ」という桃井の台詞が込めている「性/愛」が(人の関係に)もっている溢れるような余剰部分を、どう人の豊かさとして組みとめるか。そういう時代的ステージに立たされていると思うのである。