今日(2/23)は、去年から天皇誕生日になったが、私にとっては末弟Jの生誕71年。昔から「祝日」であった。Jは7年前に、64才で彼岸へ逝ってしまった。現役の編集者として、出版社を切りまわしながら奮闘している最中であっただけに、無念であったろうという思いが私の胸中にも残った。
その彼が手掛けた「作品」の二つが、今も私の部屋の「祭壇」におかれてある。ひとつは『虚心――藤田政義遺墨集』(1986年)と鹿野貴司『山梨県早川町――日本一小さな町の写真館』(平凡社、2016年)。前者は亡父が遺した「墨書」を風変わりな体裁の43余ページにまとめて封入している。この撮影の時には、どこであったかスタジオに出向いて、私も少しばかり手伝った記憶がある。皺だらけの和紙に書き落とした「墨書」の皺を伸ばし、光が照り返さないように調節をして、一枚一枚(カメラマンが)写真に撮って行った。このころは、フィルムカメラであったから、デジカメのように修正は利かなかった。職人仕事というのはこうも厳しいものかと、感嘆してみていた覚えがある。
後者の本は医師から余命宣告を受けてなお、車を運転して早川町まで出かけて、出版の話をまとめていたものだ。死後に(他の編集者の手を煩わせて)出版にこぎつけた。この30年の時を隔てた二つの、思いの籠った「作品」は、Jの編集者としてのありようを示す記念品である。
後書の末尾につけた長い(解説)「千人力を写真にかえて」の中で、著者・鹿野孝司は、こう記している。
《縁あって七面山に毎月登る僕も、本格的な登山の経験はない。七面山以外で登ったことがある高山は富士山くらいだ。その僕に、この写真集の企画立案に尽力してくださった日本出版ネットワークの藤田順三さんは「早川町の写真集を作るのなら、絶対に白峰三山へ登れ」と言う。藤田さんは山と渓谷社で役員まで務めたアウトドアの達人であり、この写真集の制作にも並々ならぬ意欲を燃やしていた。僕は決して山岳写真集を作りたいわけではなく、撮りたいのは人であり暮らしなのだ、と主張しても、藤田さんは白峰三山に登れと言ってきかなかった。……(中略)……しかしこのときはカメラを持っていないことすら忘れ、ただただ夜空を眺めていた。あの風景を観られただけで満足だった。藤田さん、あんなにうるさく「白根峰三山へ登れ」といった理由がわかりましたよ、人生で最高の星空でした。》
彼岸へ届けるべく書き記されたJへの呼びかけは、私の心裡に彼の仕事ぶりとともに、彼が此岸に遺した創作物がなんであったかを伝えるように響いてくる。
何かの番組で、「作家・向田邦子のいつも最初の読者であった」という編集者の話を聴いたとき、作者と読者をつなぐ編集者とか出版社の、縁の下の貢献に思いをいたして、そのご苦労に思いを致したことがあった。私たち読者は、創造される「作品」の仕上がりしか目にしていない。しかも、その制作にあたっても企画とか、編集とか、デザインとか、さらに販売などにまつわる手間暇などは、ほとんど目にも止めず、「作品」の面白かった/つまらなかったと評価をして、いかにもいっぱしの読者面して、(読者として)創作に加担しているような気分になっている。だが、こうした縁の下の貢献にふれると、多数の「媒介者」のご苦労が、心地よい社会と暮らしを支えてくれているんだと、思いを新たにした。
Jが亡くなってまもなく満7年。忘れるというよりも、生前の記念日が死後の祈念日として心裡に残り、私が年を取るとともにJも年を経て行くのを感じるのは、やはり生誕○○年というメデタイ日であるからだ。それと同時に、こうした兄弟の誕生日をわが身に沁みこませる育て方をした妣にも、ことばを加えなければならないかなと、思ったりしている。
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