去年の2/8のこの欄に「江戸を想う」と題して綴った一文がある。
《「新型コロナ」騒ぎで、横浜の港に豪華客船が足止めされています。医薬品や食料を補給しているのを見ていて、ふと、江戸末期に来航して、薪と水の補給を許可してくれと頼みこんでいた・・・》と書き始めて、コロナウィルス騒ぎのはじまりに触れている。
じつはその2日前、三浦アルプスを歩いて、はっきりと横須賀港の裏の高台から横浜港をも遠望して、「対岸の火事」を見つめている。そのとき、ひょっとするともうすでに、ウィルスは上陸しているんじゃないかと予感を綴っている。予感の根拠は記していないが、発生源となった武漢の都市封鎖や往来の禁止という外国の取り組みをみていて、そうだよなあ、豪華客船だけに絞ってていいのか、ウィルスの拡散する抜け穴があちらこちらにあるじゃないかと、世界をみる私の感性が訴えていたってわけだ。
その後をみてみると、文字通り予感が当たった。喜んでいるのではない。政治家や官僚、学者たち為政者が、市井の年寄り以上の感性を持っているはずなのに、どうして、事態を大網をかけみることをしなかったのだろう。いや、そういう方がいたとしても、そうさせない力が働いていたんだよと、ワケを知るジャーナリストは解説してくれる。五輪開催とか経済の後退とかに思いを馳せて、「日本の安全」を保とうとしていた、と。
でも一年経ってみると、それだけではなかったと「わかる」。第一波が第二波、第三波と及ぶことや、それに応じた感染の広がりのチェックや、それを実務的に保障するシステムの整備など、振り返って考えると、あれもこれも、目前の「課題」に対処するだけで精いっぱい。先々を見通し、実務的な細部にも目配りして、全体をイメージすることが軽んじられているのが現在のシステムだと、一年経って思い当たる。
今更、どうしてそうなったと由来に目をやってやりとりしても、仕方がない。ただ、皆目前のことだけに集中して、目前の事態の積み重ねが何を招来するかをみていないのでは、大きな物語を描くことはできない。いや逆か。ひょっとすると、大きな物語はもう少しも人の心を動かす力にならない。どなたも、目の前のコトを愉しみ、目の前の損得に夢中になり、一瞬一瞬を味わって生きる力をつけようなどと、刹那的になっている。それは時代の然らしむるところであって、もう誰も、大きな絵を描いて行く末を案じることをしない。もしそうしているなら、ヨーロッパの気候変動への切実な反応に、もっと共感する動きが多くてもおかしくないはずである。つまり、個々の為政者の能力とか関心を傾ける感性という次元ではなく、時代とか社会とか世界が、長期的な見通しというものを片隅に押しやるセンスに満ち満ちるようになったのである。
でも気付いたときには、もう引き返しがきかない所に来てしまっている。ではどうすればいいかというと、いまさら庶民にどうこうする知恵があるわけがない。ただ、自らの身を自身で護るために、長い目で見て何が必要かと思案して、導き出されることへ踏み出す「ちから」が残されているかどうか。それこそが肝心と思う。他人に依存することを当然と考えてしまう感性。これって、なんだろう。「独立不羈」の魂が失われていないか。
そう思うと、現代の市場社会ばかりでなく、人は人に依存して暮らしてきた。基本的に依存しないでは生きていけない「関係」に包まれている。そのなかで、「独立不羈」であるとは、〈依存―独立〉の矛盾的な実在をどう統一的に保つかという綱渡りである。それは、一個が一個との関係をどう紡ぐかという次元のモンダイではない。人々が、どう人々と連携しながら自立していくかという「関係」のモンダイなのだ。
コロナウィルス禍の下で、どう振る舞うかという問題も、〈依存―独立〉の矛盾的な実在の在り様として考えると、人々と人々との「関係」のモンダイが浮かび上がる。そういう地点に一年経って到達したのだと、身の裡を振り返っている。
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