今朝(2/22)TV(TBS)をみていたら、橋本聖子新会長の「セクハラ」に関して、自民党の竹下亘国会議員が「男みたい」とか「男勝り」(だから、誰かをハグしてもおかしくない)と評して、これがまた女性蔑視かどうかとやりとりしている。そして、「女が男をハグをするのはセクハラなのか」とか、表現がモンダイなのかとか、「言葉狩り」では意味がないとか、それぞれのコメンテータが次元を定めず言葉を発して、次へと番組は進行していく。なんとも、収まりの悪い構成だ。
どうして、次元を定めないのだろう。
良いとか悪いとかいう前に、どういう次元で、そのコメンテータは善し悪しを口にしているのか。そこを見極めれば、混線するやりとりをいま少し整理できるのにと思う。差別的発言とか、ヘイトクライムとか、言っちゃあいけないことを口にするのはアウトという、ポリティカル・コレクトネスもそうだが、ある程度「社会規範」が定着した政治的社会場面で共有される「共通認識」である。まだ、社会規範が定まらず、流動的とか、移行過程にあるという場面では、ポリティカルコレクトネスは「言葉狩り」になる。世の中の「規範」は、どういう場面かによって跛行的に現れる。発言する個々人の身の裡にすると、どういう環境に生まれ育ち、ふだんどういう人々と言葉を交わしているかによって、身に沁みた「価値意識」はてんでばらばらである。ただ、それが、どういう場面で言葉を繰り出すかというときに、「社会規範」に寄り添っているのか、盾突いているのか、一つひとつ問われる。「かんけい」が表出する。それが物議を醸すわけだ。
これは、発言した人の意図が奈辺にあるかという問題ではない。受け取る人がどこに身を置いて、なぜ、どうみているかということも、同時に表出している。ところが、メディアというのは、「事実を客観的に報道する」と考えられているから、「何処に身を置く」ことも普遍的と思い/思われているし、「なぜ(そう)」みるかも行間に伏せられている。つまり報道される「事実」は、あくまでも発言者の身体性そのものを提示しているというかたちだから、後から話題にするコメントも発言者への非難や批判に集中して、発言者と受取り手という「かんけい」のモンダイとして受け止められることにならない。
もちろんTVがありとあらゆる問題を根底的に論題にすることができるわけではない。だから、いつでもどこででも、そのように次元を整理して、取り交わされることばの系を整え、限定された次元を取り出してやりとりをすることはムツカシイといえば、難しい。となると、せめて、この、今日のTV場面では、「ここ」に限定して話をしましょうと、次元を明快にして、コメンテータはつねにそれを意識して、言葉を紡ぎだす。そういうふうにしないと、話しは拡散してしまい、いわば消費的に言葉が交わされるだけに終わる。
でもまあ、井戸端TVって、そういうものだから、視聴者は、こいつ何様と思ってしゃべってんのよと(自問自答して)留飲を下げれば、観た甲斐はあろうってものだ。そもそもTVに、「論題」とか「論議」を期待する方がおかしいって言えば、可笑しい。「消費的」がいやなら、TVを観なければいい。そうだね、そうなんだよ。それこそ、次元が違うってもんだよ。
ただね、そういう世相だよって、私は言いたいのさ。井戸端的な消費的やりとりが、ちょっと次元の違うステージを垣間見せるってところに来ているような気がするんだね。たぶん、私がそう感じているだけじゃないと思う。社会規範の大きな変転の変わり目に立ち会っているんじゃないか。だからこそ、ますます世相を見極め、ものをみる目を少しでも広くして、人々の交わす言葉が現実過程に活きて交わされるように期待しているってこと。
年を取ると、そんなことしか「希望」がないんだよ。
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