映画「ボヘミアン・ラプソディ」が再上映されているというので、観に行った。1年半ほど前上映館は、人で一杯であった。その少し後、私の高校の同期生が「私の人生に寄り添ってくれたメロディ」と題したSeminarの掉尾を飾る話しとして「ボヘミアンラプソディの秘密」を供した。Mama just killed a manにはじまる原曲の歌詞を紹介し、フレディの身を置いた境遇に思いを馳せ、詩句の語りを人類の終焉と重ね合わせて受取り、「自分が自分を殺す歌だ」と解説を加えてから、自らヴァイオリンを弾いて聴かせてくれた。再上映館は、ドルビーシステムを整えている館であった。文字通り「自分が自分を殺す歌」の響きをはらわたに沁みるように(空席の多いなかで)、全身で感じてきた。フレディがピアノの前に座り、いくつか鍵を叩いてから、Mama just killed a manと声を放ったとき、思わず涙がこぼれて止まらなくなっていた。
映画そのものはロックバンド・クイーンの物語なのだが、収録した曲の音はすべてクイーンの演奏をつかっていると評判であった。その音が、己の人生を謳いあげること一筋に生きた(私たちより4歳若い)男の人生として、「寄り添っている」ように感じたのは、同時代を生きたという感触なのであろうか、その(揺れ動きも含めて)ひたすらな一筋に、わが人生を重ねてみているからなのか。重ねていると言っても、私たちはごく平凡な市井の民として年を経てきたから、フレディの在り様そのものは、わが人生の反照ともいえるものであったが。
音というのが、身に直に響いて伝えてくるものを強く感じている。ことばにすることをためらうほどの、密度をもってわが内腑に落ちていく。
そしていま、似たような響きを伝える小説を読み終わった。青山文平『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)。音ではない。言葉を紡いだ作品だが、内腑に落ちていく密度が、同じように濃厚であり、私の現在に接着して、かつ、批判的である。
音ではないが、能舞台における所作・振る舞いをことばできっちりと分けていく。その綿密さと子細に届く視線が、読み手の姿勢をきりりと引き締める。そんな思いが生まれて来る小説であった。
《定まった型から外れる所作をすれば、それは能ではなくなる。初めから終いまで、能役者は型をつないで舞い切る。能に、「興に乗じて」はない。》
そのように5歳のころから教わってきた男が15歳から17歳になるまでのお話しであるが、死を覚悟して自らが育った「くに」の先々を切り拓く物語である。この男も、フレディ同様に、能一筋に生き、そこに自らの人生のすべてを投入する。その見切りと漂わせる佇まいの峻烈さが、わが身の現在に批判的に立ち現れるのである。
能というのが、死者と現世とをつなぐ展開をすることはよく知られている。お面をかぶるというのも演者の個体から雑味を取り去る仕掛けの一つという。それも、役者の勝手を許さない所作のカマエやハコビの子細を読みすすめると、ふだん歩いている己の歩き方がどこまで地面との緊張感を保っているかを問われていると思えて、手に汗がにじむ。
かほどの厳しく己を御してきたか。いや、そういう、程度のモンダイではない。彼の人のように己自身を見つめて来たかという次元の違いを突き付けられていると感じる。もちろん舞台となっている時代の大きな差異もあろう。人が生きるという、ただそれだけのことに、これほどの厳しい舞台設定を考えたことがあるか。そう思うだけで、ちゃらんぽらんに生きて来たわが身が、いかに人類史のごくごく一部だけをかじってきたにすぎないか、感じられる。
ま、この齢になってそう気づいただけでも、良しとするかという慰めしかことばにならない。青山文平の紡ぎだした言葉の、鮮烈に印象に残ったことば。「関わりにおいて密、交わりにおいて疎」。このことばの、彼岸からみた此岸への批判的な味わいを、心にとどめておきたいと思った。
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