トランプ前大統領の弾劾裁判の評決が否決された。共和党の大半は、「すでに退任した大統領を弾劾するのは違憲」として否決したというから、トランプ前大統領の弾劾要件の判断を避けたとみることもできる。つまり共和党(の主流)としては、党を割ることはしないが、トランプが主導権をとることにはまだ懐疑的な「保留」を選んだわけだ。
狂ったように「盗まれた選挙」を叫ぶトランプ陣営をみて、アメリカの民主主義は大丈夫なのかと、海を隔てたこちらでは思っていたが、どうやら日本でも「不正選挙」と公言している人たちがいることが、分かった。
斎藤直樹(山梨県立大学名誉教授)は2021年2/1と2/9の「百家争鳴」で、「不正選挙」がなされたことと、それを大手メディアがスクラムを組んで揉みつぶしたと公表している。
大筋を拾うと、①不正はあった、②2016年の選挙結果でヨミを外した大手メディアが、事前に結束してバイデン選出でスクラムを組んだ、③政府組織も、トランプを排除するように動いた、の3点になろうか。
① フォックスニュースの報道に基づき、「不正」はあった。バイデン票をくり返し集票計数機にいれなおしているとか、夜間に不正を実行する動画画像がある。激戦州の多くで郵便投票の署名確認を行っていない。
② その実態を、大手メディアは一致してとりあげようとしない。2016年の大統領選で読み誤った大手メディアが、今回はトランプを排除しようと周到にスクラムを組んでいる。
③ それら「不正」を調べようとFBIも司法省も全く動かなかった。彼らもトランプはもうごめんだと考えていた。トランプはツイッターで激怒していた。
④ 最後の大逆転を1/6の選挙結果の承認議会に賭けていたが、トランプ支持者が乱入して、ぶち壊してしまった。
だが、上記の「不正」を訴え出た関係州の司法判断で取り合ってもらえなかったことの子細、大手メディアが組んだスクラムについての証拠らしいものや政府機関が動かなかった根拠については、ただ、トランプのツイッターやジュリアーニ弁護士の発言が引用されているだけである。また、その後にフォックスニュースがトランプ支持を掌がえししたことについても言及していない。
面白いと思ったのは、この方が(何か深い情報を得ているのであろうが)フォックスニュースが、こう報道していると引用した次の行では、その報道が事実であったと前提して、論を展開していることだ。メディアスクラムもそうだ。政府機関のトランプ排除も、トランプのツイッターの言葉だけが、その事実を訴えているにすぎない。つまり、この方も、彼の論展開を目にして、疑問を持つ人たちがどう受け止めるかを勘案して記述していないのだ。
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アメリカの民主主義が問われていると、私も感じている。その目安の一つが、弾劾裁判をどう共和党が受けとめ、乗り越えるかと考えていた。だから、今ここで一言私見を言っておかねばならないと考えて、キーボードを打っているのだが、齋藤直樹のエッセーをみて、ちょっと違ったことへと目が移っている。
それは、情報化社会がもたらした真偽見極めの規準の変化である。
情報化社会と謂われるのは、情報量の多さに加えて、情報伝達の速度が速くなり、手段が多様になったこととされてきた。もう一つ掘り下げると、情報メディアが多様になったことによって、マスメディアの情報の真偽を判断する規準が、「権威」に拠るよりも受取り手の皮膚感覚によるものへと変化した。つまり、情報判断が個別化し、受取り手の在り様によって多様化し、一筋縄の物語で括ることができなくなったともいえる。自らが得心できないことをフェイクだと排除する、根拠を提示せずに「思いのたけ」を言い立てる。
トランプという大統領の登場は、まさしく、情報化社会のもたらした嫡出子であった。まず彼は、統治機関である政府の仕組みの動き方自体を気ままに変えた。統治システムがもってきた「権威」をぶち壊しのである。ツイッターで、直接国民に訴える。大統領の得心することが真実であり、大統領の訴えに耳を貸す人だけが真実を尊ぶ人民である。それ以外の情報はフェイクであり、反対・抗議する人民は、敵である。
この構図は、わかりやすい。しかも、統治システムへの不審をひとつかみにして取り払ってくれる即断即決。政府機関や国際関係の(どこで誰がどうやって動かしているのか目に見えない慣習や条約という)システムにケツを捲る大統領の試行錯誤は、ツイッターのSNSを通じて、双方向であり、まさに自分たちが大統領の政治を支えている実感を伴う。目を瞠る指導者の登場であった。それが、半分近い支持者を収斂させた。そう、ナチズムやファシズムと同じ意思結集ではあるが、これぞトランプ流の民主主義。1/6の「議会へ行こう」は、その総決算であった。
いうまでもないが(唯一神を信じる国において)それが逆に、陰謀論を登場させてもいる。陰謀論には、目に見えない誰か(たち)に差配されているという疑惑とともに、何者かがしっかりと見据えて世界を動かしていてほしいという願望も込められている。ちょうど世界が創造神の手によって作り出され、人を自然世界の総管理者として位置づけてくれたように、自ら判断しなくてはならない実存の不安を安定させる定点を求めているともいえる。つねに「敵」を見据え、「敵」と闘う。そうすることによって、自らの(内心の、国内の、結集する中心部の)結束力を高め続ける。まさに部族社会時代の(外部と出逢った後の)集団統治のやり方が、儀礼や仕組みの虚飾をはぎ取って、剥き出しで現れてきたのであった。
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人類というのは、こういう変転をくり返していくのだろうと思う。くり返して、少しは良くなっていくかというと、そう簡単には言えないのが、アジアの片隅にいる私の感懐である。振り返ってみると、果たして現在の私たちの(世界の)到達点が、紀元前500年頃の世界と較べて上等かというと、ひと口には言えない。風呂とトイレに関しては、私は迷わず現在の方が優れていると、その部分だけを切りとって断定するが、私たちの存在する世界全体の「関連」においてみると、果たしてそういっていいのかどうか、わからない。実在の「かたち」こそかわるけれども、ひょっとすると、繰り返し同じ地平を彷徨っているのかもしれない。そんな気がしているのである。
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