一年前、2020-02-10のこの欄に「統治の歴史観と暮らしの歴史観」と書いた。
《断捨離の入口でうろうろしていたら、古い新聞の切り抜きに小浜逸郎がJICC出版から出ていた「ザ・中学教師」シリーズの変遷に触れて、私たちの活動を評している記事があった。・・・》
とはじめて、小浜逸郎が私たちの昔の活動を批評した文章を取り上げている。
アナーキーということを、私は肯定的に使っている。現場主義ということも、普遍的とか一般的にであるべしという考え方に対しさせて、肯定的に使っている。
つまり、こういえようか。普遍化するとか一般化するというのは、次元が違うことなんだ。今、ここに生きているものにとって、そんな言説や解釈は、どうでもいいこと。こちらに介入しないところでやっておくれと考えているのだ。
庶民の生き方とか、考え方というのは、アナルコサンジカリズム、そのものだと、いま改めて思う。なぜって? それは、原初の発生的な由来を持っており、現場のモンダイであり、現場での解決を望んでおり、それが全体や全国や世界にどのような意味を持つかなどということは、どうでもいいのだ。
だが、「論者」は、そうはいかない。その場、そのときの、そこでしか通用しないことというのを、全国区や世界に適用したがる。だがそのとき、現場の切実なモンダイは、どこかへ押しやられて、平準化され、平均化され、どうでもいいことに力が注がれて、揮発してしまっている。学者や、政治家や、エリートと呼ばれる官僚たちがやっていることって、そういうことじゃないのか。
だったら、庶民にとって、彼らは、いらない。最悪のウィルス禍何かが襲ってきたとしても、そういうエライさんたちに何かやってもらおうという「期待」を持つことをしないで、うるさい! お前ら、邪魔をしないでくれ、って叫び出したいよね。
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