2021年2月12日金曜日

体の反抗と警鐘

  男は手紙を書いている。先ほどから一向に筆がすすまない。次の言葉を考えていたのに、いつのまにか寝込んでいる。ぐらりと体が傾き、机に額をぶつけそうになって、さっと身を起す。その瞬間に、何をしてるんだ俺は、と怒りに似た憤懣が心裡に湧き起る。もう何時間も寝ているじゃないか。疲れているはずがない。なのに、なんだこのざまはと自分の身のふがいなさを感じる。つい手紙に、この眠気が不快だと書きつける。

 と、机の左隅にある小さなミミズクの置物の目が、きらりと光る。


「おまえ、何に腹を立てているんだ?」

「眠気だよ、この眠気。なぜなんだ。どうにかならないのか」

「眠いんだろ? 眠ればいいじゃないか」

「だっておれは、今手紙を書いてんだよ」

「急ぐ仕事かい?」

「いや、そうじゃないけど・・・」

「後回しにすればいいじゃないか」

「だって、十分寝て起きたばかりだぜ。なのに、このふがいない」

「おまえさん、医者にかかってんだろ? 余命いくばくって言われたんじゃないのかい?」

「そりゃあそうだが・・・、そんなことを言ってたら、いつまでたっても病気に勝てないよ」

「どうして病気に勝とうてすんだよ。病気になって休めっていわれてんじゃないのかい?」

「そんな、気弱なことでどうすんだよ。もうそれだけで負けが込んでるってもんだ」

「そうじゃないよ。おまえさんは、頭で考えてるから、そういうことを言うんだよ。体の身になって考えて見ろよ」

「ん?・・・」

「もう70年以上も、こき遣ってきたじゃないか。手入れをするよりも、筋トレだ、持続力だ、瞬発力だって、体を苛め抜いて来たんじゃないのかい?」

「そんなあ、イジメたなんて。鍛えたんだよ。鍛えたのっ」

「同じことさ、体にとっては。過ぎたるは、なお、及ばざるがごとしだよ」

「うるせえ、知りもしないくせに」

「そう、しらないよ、わたしは。でもね、おまえさんの体は知ってるんじゃないのかね」

「ん? どういうこと?」

「体が悲鳴を上げているのさ。ヒトってのは勝手なもんで、こうと思い込んだら、ついついそれに向けて突進しちまう。お前さん、ちゃらんぽらんてのが、いやなんだろ。いい加減にするってのが、できないんじゃないのかい? そう、几帳面で、水も漏らさぬ潔癖症。誉め言葉だと思ってるだろうが、そりゃあ、近代のヒトの悪い癖だよ」

「・・・」

「眠気ってのは、おまえさんに対する体の軽い反抗ってとこだね。医者に言われた病気ってのは、重度の反撃ってわけだ」

「おいおい、自分が自分に反抗したり反撃してどうすんだよ」

「そう、気づいたかい? 反撃してる自分てのは、体の方だ。反撃されてる自分てのは頭の方だね。自分が分裂してるんだよ、お前さんは」

「どういうこと?」

「何かをしようとするときに、自分の体に聞いてみろって。これって過ぎたることかいって、体に聞いたことはあるかい?」

「体に任せていたら、何もできなくなっちゃうよ」

「そんなことはない。体は頭よりも優れた判断能力と反応能力を持ってるんだよ。ああ、大人の話だよ。子どもはまた別の文法をもってるからね。いっしょくたにはできない」

「・・・」

「70年以上も連れ添ってきたおまえさんの体じゃないか。まず、よくもったねえとねぎらってやらなきゃあ。眠気を不快だなんて、体に対する頭の暴虐だよ。病気だって、よくこれまで我慢してきたねえって、いたわってやるのが先だろ?」

「そんなんじゃ、病気と戦えないよ。負けこんで死んじまうよ」

「そこだよ、そこ。戦うんじゃないよ。負けこんでやればいいじゃないか。体がそうしたいっていうんならサ。死にごろってのこともあるんだからさ、頭もそういうことを考えておいてやらなくちゃあ、体がかわいそうだよ。ヒトはまず、頭が死ぬんだ。身体は、その後から死んでいくんだよ、少しずつ、だんだんと、ね。」

「年を取ってからの病気とか体の不調ってのは、これまで生きてきたあいだの頭に対する警鐘なんだよ。だからしっかりと耳を傾けてさ、ほど良く世話を焼いてやんなよ。ご苦労さんってサ」


 男は机から離れ、傍らのベッドに横になった。誰に手紙を書いていたんだっけ。思い出そうとしたが、思い出せない。そんな茫茫たる気配を感じながら、眠りについた。

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