昨日(2/20)朝の、チャンネルを回していて目に留まったTV「さわこの部屋」。7本指のピアニスト・西川悟平が対談の相手。15歳からピアノを弾きはじめてニューヨークのカーネギーホールで演奏会をするほどになったとか、ジストニアという病に罹り、指が動かなくなったのをそれなりに克服してピアニストとして活動しているというのも驚きであったが、それ以上に、ニューヨークで暮らしていたとき、部屋に侵入してきた強盗とのやりとりは、面白かった。
突然部屋に侵入してきた二人の強盗。注射器を突き付け、部屋を物色する。それを見ていた西川が両手を上げながら「話していいか?」と声をかけ、「どうして、そんなことをするのか」と、強盗と言葉を交わす。彼らの生育歴を聞き、涙を流し、「何でも上げるからもっていっていいよ」といい、そのうちの一人が今日が誕生日だと知って、ハッピー・バースデイ・トー・ユウとピアノを弾いて上げ、日本茶を振る舞って朝まで過ごしたという話。
いや、まるでオー・ヘンリーの短編小説を思わせるデキタ話しであった。あとでネットをみると、彼が演奏会で披露する「鉄板ネタ」だそうだから巷間に知られたことのようだ。
面白いと思ったのは、「護る」ということ。何を「護っている」のかということ。むろん強盗は、何がしかのものを強奪しようとしている。だが西川は(どうしてこんなことをしなくちゃならないのだろう?)と彼らの不遇に思いをいたして、「話していいか? 聞いていいか?」と声をかける。
彼等の身になって言葉を発した、というのではない。もしそうしていたら、おまえに何がわかる、とまず反発が返ってきたに違いない。西川自身の「疑問」が、率直に口をついて出ている。西川が問うこと自体がやわらかい向き合い方であり、盗るものと盗られるものという「対立的関係」を解きほぐして、同じ世界に生きているものとして「同一の平面に立つかんけい」に変換している。さらに、彼の強盗氏がそれに素直に応じて話したことに西川が涙することで、強盗の目にも「同一の平面」は意識され、もう一人の強盗氏が今日が自分の誕生日だと口にするようにもなる。部屋に飾った写真からカーネギーホールで演奏するピアニストの日本人ということが、目に留まる。じゃあ、ひとつ誕生祝のピアノでも弾こうか、日本から持ってきた美味しいお茶を御馳走しようかと「かんけい」が転がる。
こうしたことが意図的に行われたとなると、西川は「人たらし」とか言われるであろう。だが、彼の人柄が自ずから滲み出て、やわらかい言葉になって口をついて出たとなると、西川の人への関心がつねに、具体的な境遇やおかれた環境という「かんけい」に向くように、きめ細かく働いていたからであると思える。そのような心づかいの仕方は、いわば心の習慣であって、常日頃の人との向き合い方で、そう心得て無意識にそのように振る舞うようになっていなければ、なかなか「ひとがら」にまでは沁みこまない。
そう考えてみると、まず西川は、自分の持ち物を守ろうとしてはいない。強盗を目の前にして、彼らの振る舞いの背後に積み重なって来たであろう境遇に思いを致すというのは、彼自身が恵まれない人たちの心根に触れるような体験を味わっており、まず自身をつねにそのような場においてモノゴトに向き合う感性を培っていることを示している。
苦労してきたことが大事なのではない。苦労してきたことをつねに原点として、いま苦労している人たちのことを基点にしてモノゴトに向き合う姿勢が、人に対する共感と人の境遇に対する同情を、その人をいたわる心もちへと導いていくのだ。そして、人をいたわる気持ちこそが、やわらかい言葉を惹きだし、「かんけい」を解きほぐし、蕩けさせる力になる。
これを政治過程においてみると、なんだただの性善説ではないかとリアリティを重んじる方々は言うかもしれない。たしかにそうだ。だが、そうした人との感性を大事にする心の習慣こそが、社会関係において「護る」に値する人間の文化ではないか。それがただ単に、知り合いの間だけとか、同じ民族だけとか、同じネットワークの人とだけというのではなく、国際関係においても通じることではないか。トランプのように#ミー・ファーストで振る舞えば、アメリカに対する国々も#ミー・ファーストで向き合うほかない。国際的な協調の道を探れば、そのような国柄の国なのだとみて向き合う「かんけい」が生み出されていく。そうでもしなければ、いつまでたっても人類は角突き合わせてかけひきに才能を費やす以外にないのではなかろうか。
誰が悪い、彼が悪いと非難の応酬をするよりは、現前のモンダイに向き合い、ともにモンダイを考えていく次元を探り当てる。それこそが、人と人、国と国、国際関係を思案していく次元である。その次元が、力のあるものが設定したスタンダードでは、力のないものは、黙って従う(か文字通り必死に反抗する)しかない。
「かんけい」を蕩けさせる人柄、国柄こそ、誇るべき文化として身につけていかねばならないと思った。
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