2021年2月19日金曜日

ホンネとタテマエの折り合いがつかない時代がきた

  五輪組織委員会の会長が決まった。事務局長も、首相も、JOCも、「透明性を」と言っていたのに、候補者検討委員会のメンバーも公表しないなど、なんだろうねこの人たちのいう「透明性」って、と思わせた。まるでTVドラマの刑事物でみる取調室みたい。取り調べられている方からは見えないが、隣室からはガラス越しに全部見えているという、一方通行の「透明性」センス。

  というのも、TVの報道をみていると、2/12にすでに、橋本聖子が会長になり五輪担当大臣に丸川珠代がなると官邸が同意したと報じられていて、なんだまるで、出来レースじゃないかと思った。これは、メディアの報道が古いタイプの選考過程ばかりか思考過程を追い越していて、選考過程や思考過程の装いであるタテマエを引っぺがし、ホンネを丸見えにしている。それが人々に共有されているのに、気付かないのか、知らぬふりなのか、当事者が相変わらず古い「ことば」である「透明性」をつかって、カッコつけているだけ。こんなんじゃあ、タテマエを口にする人がバカにされるのは、当たり前だと思う。

 古いといえば、森組織委員会前会長の舌禍も古いセンスのまんまだったが、昨日、島根県知事が聖火リレーを取りやめる(検討をしている)発言に対して、自民党の竹下派の首領が「よく注意しておく」などと発言したこと。まるで県知事が国会議員の手下であるかのような感覚も、何世代前の古いセンスを持ち出してんだと思わせた。これも、島根県そのものを竹下某国会議員が取り仕切っているような殿様気分であるからなのだろうね。TVの報道をみると、いまの島根県知事は竹下某たち自民党の古き重鎮が推した知事候補を破って当選した方だとか。つまり、自民党県連自体がすでに分裂して、古き重鎮たちは権威も何も持たなくなっているのに、全国区の自民党本部でふんぞり返っているひとたちなのだと、裸の王様ぶりが、やはり透けて見える。

 えっ? これって、「透明性」なの? 

 そうなんだ。情報化社会になって、マス・メディアだけでなく、SNSが広まり、いろいろな事情が筒抜けになる。それを拾って拡散する過程が、またオカネになったりするものだから、ますます勢いをもって広まる。「文春砲」などという市井の井戸端メディアも威力を揮うご時世になった。

 この会長選出で使った「透明性」って、ホンネは自分(たち)が納得できるって意味で使っている。それなのに、外向けには「公正」とか「公平」とか「公開」って意味を込めてつかわれている。そもそも会長選出をリードする事務局長も「透明性を大事にして」といっていたのに、候補者検討委員会の委員は非公表、会議も非公表、あとで先行経過を発表しますって、何処が透明なんだよって思った。じっさいには、やはりメディアの取材で全部筒抜け。

 じゃあ、なんで非公表なんだよってなるよね。JOC会長の説明では、「委員名を公表するといろいろな団体などから圧力がかかって、公正な選出が妨げられるから」だそうだ。

 えっ、そうかい? っておもった。

 もし(公表した委員に対して)そうした圧力があったら、どこからどんな圧力がかかったと全部公表しますってやってこそ、圧力から自由な選考ができるんじゃないのかい? 「出来レースじゃないか」って勘ぐられるような裏面での、目に見えぬ「圧力」こそがモンダイなのじゃないか。橋本聖子なら会長にふさわしいと思っていても、なんだ出来レースだったじゃないかとなると、「ふさわしい」と思った自分がバカみたい。裏事情を知らなかっただけってなって、ふさわしいと思った私の中の「橋本聖子の権威」も損なわれると思うんだが、そう思いませんか? 

                                            *

 島根県を取り仕切っているのはオレだって竹下某の言葉もそうだ。まるで身裡か縁故関係か手下をあしらうような扱いで県知事を遇している。古いっていうより、原初の部族・氏族が少し大きくなった地縁的結合の殿様意識から、さほど遠くへ来ていない。近代市民社会じゃないんだよ、彼の胸中のシマネ県て。それがホンネ。それが、中央集権一本槍の近代的政治社会の神輿に(世襲二代目として)担がれているうちにタテマエとしての衣装は装ってきた。だから、こういうトンデモ発言が飛び出してくる。

 だが世の中は情報化社会。とっくに、市民社会の近代を隅々まで沁みとおらせてきた。コロナウィルスは(市民にとっては)地方分権的判断が大切だと身にしみて感じさせている。中央集権的なセンスだけではコケにされるようになった。

 古いセンスの方からみると、次のようにも言える。社会的「かんけい」を紡ぐ方法としての血縁・地縁という縁故主義的(クローニーな)関係の構築法は、実は滅びたのではなく、身の裡の奥深くにしまわれてきているのだ。その上に、時代に即した作法や儀礼や言葉が装われて、手順となり仕組みとなってきている。「公正」という言葉も、近代が付け加えて来た「公共」とか「公開」とか「公平」という観念も付け加えられ定着し、「権利」や「コンプライアンス」や「ポリティカル・コレクトネス」も加わって、多様になり、多元的にみてとられるようになった。その化けの皮が、情報化社会の進展によって、次々とはがされてゆく。

 森発言がモンダイになったのも、そうした時流の大きな波が押し寄せて来たからであった。

 その波を動かすエネルギー源の一つになっているのが、情報化である。これまで情報の発信源を(庶民が)マス・メディアに頼って来たときは、マス・メディア対策だけしていればよかった。ところが、どこからでも、誰からでも、何時でも、何処へ向けてでも発信され、拡散されるようになり、疑似的な衣装は、ことごとくがはがされてきた。従来の固定観念に寄り掛かったタテマエはコケにされる。

 今回の「非公表」というタテマエが、じつは克服するべき(圧力がかかるという)モンダイを先送りする便法でしかないということも、メディアの取材と報道によって、庶民は存分に知る所となった。「非公表」を掲げたエライさんたちは、化けの皮がはがされたように、バカに見える。権威も何もあったもんじゃない。

 にもかかわらず、政府のエライさんたちはここ十年ほどの間、口先だけのタテマエを喋々している「裸の王様」であることを、メディアによる報道によって暴露され続けてきた。

 そこへトランプが登場して、近代の化粧をはぎ取り、#ミー・ファーストのホンネを剥き出しでぶつける。それが今度は、世界の主潮流になった。しかも彼は、国際関係でも、身辺の政治にも、ほとんど私たちと変わらぬ素人であることを存分に露わにしてきた。近代社会に居心地の悪さを感じているものにとっては、偽善的な装いをはぎ取って「近代は裸の王様」と声高に叫ぶ子どものような振舞いを、世界最強国の大統領が4年にもわたって見せてくれたのであった。

 むろんそれを可能にしたのは、デジタル技術による情報化社会のもたらしたものであった。しかし、タテマエが崩れホンネがさらけ出されていることに気づかない人たちが、まだ政治の中枢に陣取っている。彼らのつかう言葉が、人々の心情に明らかな変化を与えている。それが「政治不信」である。そこを乗り越えない限り、「透明性」とか「公正」という言葉をいくら使っても、もう人々は耳を傾けない。自分の都合に合わせて、自助に励むばかりだ。

 ホンネとタテマエの折り合いのつかない時代が来ているのだ。

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