2021年2月13日土曜日

靄のかかった人生の流れ

 2年前に買ったチケットの映画が、いまかかっている。実は去年上映予定だったのだが、コロナウィルスの騒ぎもあって延期になった。そこへもってきて、上映館がリニューアルするとあって、延び延びになっていたのだ。だがなんとも時機が悪い。緊急事態宣言が出ている。知事は越境しないでと呼びかけている。何より公共交通機関がコワイ。チケットは無駄になるが、行かないと決めていた。私が山に行った日、カミサンは一人で行った。面白かったという。う~ん、でもなあとコワイものは怖い。ああ、でも今日は祝日よ、混まないわよ、とカミサンが言い、そうか今日は休みの日かと気持ちが動く。

 観に行った。JRも地下鉄も、座席に座れる。隣の席が空いていても、立っている人が座ろうとしない。ソーシアルディスタンスってやつを意識しているのだろうか。有り難いって言えば、ありがたい。往きも還りもそうであった。映画館も、座席が一つ置きに「空き」にしてある。空調も、12分で空気が全部入れ替わると館内放送を耳にした。リニューアルの効果を謳っている。

 なにしろ、はじまって終わるまでに4時間3分という長尺物。途中休憩を挟んで上映する。『モルエラニの霧の中』(坪川拓史監督、2020年)。季節で切り分けた7編の連作短編は映像詩のようにプロットを重ねていく。緩やかに、まさに語り口がとつとつと紡ぎだされてくるテンポに象徴されて、モノクロームの点描が映し出される。霧の中、時が流れる。ああ、この人は先ほどの画面の、あの子どもなんだとか、あの人の息子だったんだ、となると、もう数十年経ってるんだというふうに、観ているものが構成をして、物語りを紡ぐ。ゆっくりしたテンポが、のんびりし始めた私の頭に見合っているか。今の時代は忙しない。

 人が変わる。人の動きが孕む物語が積み重なって元の形は見えなくなり、いま土の外に顔を出している小さな芽吹きだけが(みえる人には)目に留まるように、ひとは暮らしている。目に留まるものが小さいから、ついつい踏みつぶしたり、何かをきっかけにしてこだわりがなければ、見つけられなかったりする。そうだよなあ、私たちの暮らしって、そうやって、茫洋と霧の中に積み重なって消えていってるんだよなあと、印象が刻まれる。

 時代も移り変わる。人も死に代わる。積み重なったものが、社会的には無用のものとして棄てられていく。だが、一本の桜の木が、定点観測のように人と時代と社会の移り変わりを見つめているんじゃないかと、この映像作家は、つかみだしてくる。7年間も掛けて制作したというのは、上映の前に登場した監督あいさつで知った。すでに亡くなっている大杉漣や小松政夫が登場人物であることも、そのなかで分かった。舞台になった室蘭の町も、移り変わる。

 人生そのものが、靄のかかったなかに過ぎてゆく。きっちりと切り分けて、解析して、ひとつの解釈をあてがって次へと行ってしまうキンダイは、いつも晴れ晴れとしていなくてはならない。そういう輪郭を描き採ろうとするクセを棄てて、霧の中に消えていく「かんけい」の堆積が、わが身の裡に、この地上にいた人の数だけ積もり積もって、この桜の木に凝縮されている。そんなことを謳いあげているように感じた。そうだよ、人生って、茫洋としたところで感じとってみるのが、最上の受け止め方なんだよ。そう受けとめてみると、なんだ、わからないことが茫洋とした地平に広がっているのが見てとれるように思う。そうだよ、それを感じとるのが最良のヒトの知性ってもんじゃないか、と。

 でも映画の最後まで「モルエラニ」が何か、わからないままだった。いまネットで検索してみると、アイヌ語で「小さな坂の下」という意味だそうだ。たしかに桜の木は、少し高みから見晴らせるように位置してはいた。この映像作家は、霧の中を見晴らすのに、やはり少し高みが必要だと言っているのだろうか。人生を見晴らすのは、高齢化するという、少し高みに立つ必要があるってことか? 今や年寄りが高みなんて誰も思ってないけど。

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