2021年8月15日日曜日

36会第二期第12回seminarご報告(4)汗と悔恨のこもる現代鋳物師の思い

 ここで一つ質問が入った。

「鋳物というが、3Dプリンタなんかが入ってきたから、昔流の生産方法は難しいんじゃないか」

 イセキさんは、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、そちらに話を移す。発泡スチロールを用いた整形が容易に行われる。電気代が安い。電気代といえば・・・と、浜岡原発から安く電気を供給されて急成長した会社があった。古い鋳物会社は21円でやっているのに、5円~17円で提供を受けている。日本の発電会社は停電しない・と、仕事の日常が染み出してくるように、電気代の1円2円が会社の存立に関わるように語りだされる。規模の大きな企業に比して小規模企業はいろんなところで競わせられてしまうのだね。

 こんな品物をつくってるんよと写真で示す。「コラム」とか「テーブル」と名付けられた工業部品。それがドイツ製品にまさる品質を持っていたと誇らしげだ。だが、船舶用のシリンダーなど、造船業における改革が図られて、国が大型の設備投資をしたところには敵わなくなる。3K業種が取り残されて、傾いていく。

 質問がつづく。

「70年年頃の高度成長期、その頂点に達したと言われる80年代からバブルが弾けるまでと、その後の低迷する◯十年と言われる時代の、鋳鉄などの工業生産では、大きな違いがあったんじゃないか」

 この質問に答えるあたりから、イセキさんの話には自責と怨念の響きがこもり始めた。「いや、自分たちが悪かったといえば悪かったんですよね。あの時代に、もっと先を見て、生産性向上などの手を打っていれば、自動車産業などの要求にうまく答ええることができたんでしょうが、そうはしなかった。韓国や中国の格安製品がのしてきた。」

「でも、品質ってことでいうと、安かろう悪かろうというのが、日本企業の製品との違いだったんじゃないですか。それを見極めて、高くても日本製品を使うってことができなかったのか」

 と、矛先が、自動車の設計製造をやってきたMさんに向かう。Mさんにすると、車の設計製造をしている会社が、日本の鋳鉄技術を衰亡させないために日本企業に発注するという方針を持つことはできないと率直だ。そこにこそ資本家社会の市場原理が働いているのだ、と。それは市場主体の考えるモンダイではなく、政府や政治家たちや学者らシンクタンクが担う分野というわけである。

 イセキさんの話は、具体的で率直だ。

 部品の発注者は発展途上国の品質粗悪な製品の値段をもって、価格交渉にやってくる。品質の違いを訴えると、なるほどそうだねと理解を示す。だが、彼らの手元にある粗悪品の値段だけはそのままに残り、おっしゃるとおりのいい品質のものを、この値段でつくってくれと「発注」に及ぶ。下請け企業は、それを受けなければ会社をたたむほかない。殆ど利益無しで「発注」に答えて「納品」する。

 あるいは、例えばトヨタのカンバン方式。何時にどの部品をいくつ納品せよと言ってくるが、その時刻にその部品だけを積んで運ぶには少なすぎるし、時間に遅れたらそれこそ一発でその後の発注はなくなってしまう。結局当時「道路を部品置き場に変えた」と言われたカンバン方式は隆盛を極めた。親企業の「発注」に応える経費は全部、下請け持ちというわけだ。

 あるいは同じ頃、部品製造地に組立工場を建設する方向へ方針が変わる。逆か。部品の中小企業を引き連れて製造業が海外へ拠点を移し始める。日本には、いわば本社機能と企業名だけが残り、いわゆる産業の空洞化が始まる。

 イセキさんは、山崎豊子の「大地の子」を思い浮かべたようだ。TVドラマにもなった。そういえば、あれは、日本が政府開発援助の一環として製鉄事業に対する技術援助を日本産業界を上げて行うことを横軸にしていた。縦軸になったのは、敗戦時に中国現地に取り残された残留孤児と、その父親。別様のテーマとして言えば、日中の戦後関係回復の物語であった。当然のようにそこには、両国の平和な関係が、経済的な関係も政治的な力関係を含めて、日本の優位がそのまま続くという見通しが底流にあった。だが事実はそうはならなかった。

 いつしか、中国が日本の鋳鉄業界を脅かすようになり、ついには、付加価値の高い精密機械の設計などは日本が、それを受けて単純生産を担当するのは中国という分業の構図が出来上がっていった。GDPで中国が世界第2位の地位を獲得する頃には、政治的な力関係の違いは如実になって、中国はアメリカと覇権争いをするかのように圧倒的になった。

 イセキさんの話は、鋳物業界の製品製造のありようと時代的な変遷に応じて常に価格競争に駆り立てられて技術革新をしてきた/こなかったことと思いが交錯して、青森県竜飛岬の風力発電のこと、ロボット導入のことから、鋳鉄管、遠心鋳造でパイプを作ること、回転する金型に溶解した鉄を流し込んでつくること、エンジン製造、キャリア、ヘッドプレート、ポンプケージと、製造技術と製品の名前が続く。

 その声のトーンは、ここまでの歩みが平坦な道ではなく思い起こせば、涙なしでは語れないような様相であったと推察される。そうしてここで突然私に「久冨さんはいつくるの?」と質問が飛ぶ。

「・・・ん?」何を聞かれたのか、わからない。

 いやじつは、と「ミーハナイト技術」の導入に話がゆく。

 おや、どこかで聞いた名前だ。なんだったろう。そうだ、思い出した。2016年3月26日のseminar で、久冨慶子さんが玉野高校から東京の三田高校へ転向するきっかけになったのは、玉野の(三井物産にいた)彼女の父親が「トウキョウ・ミーハナイトの鉄鋼製造部門」(現・三井ミーハナイト)に転勤したと話していた(『うちらあの人生 わいらあの時代』p145)。なんだそうか、イセキさんの関わった大阪の会社も含め、ミーハナイトは三井造船の関連部品を製造するメタル会社というわけだ。

「忙しくて仕事ができない」とイセキさんの話はつづき、ハイ・キャストという言葉を口にする。文脈がよくわからなくなってきた。

 実はこの間に、日本の技術の継承と産業政策と製造戦略を描くのはかつての通産省ではないかということを、ハマダさんに確認しようとフジタが声をかけた。しかしハマダさんは「聞こえない」と、立ち上がってやってくる。

 話を聞いてみると、彼は耳が遠くなり、ほとんど今日の話も少しも聞こえていなかったと分かった。じゃあどうして黙って座っていたのか。早く言えば、座席を変えるなりしたのにと思う。

 イセキさんは「もののけ姫」のアニメ動画の一部を見せて、これがフイゴ、これがタタラと話し、「たたらを踏む」というのがどうして、おっとっとっとと勢いあまって踏み外した意になるのかわからないと加える。でも、アニメを見ると、何人もの人が肩を並べて踏んでいる足元は、大きく浮き沈みして怪しそうだ。いつ踏み外してもおかしくない気配に満ちている。暑さで汗びっしょりになっている姿が、イセキさんの鋳物師として歩いてきた浮き沈みのある形跡のご苦労と重なって笑えない。「たたらを踏むのは5~6人で1馬力くらいかな」という表現が、イセキさんの歩いてきた理系の資質を表している。

 銅の精錬の技術は日本独自と言ったろうか。ヤマタノオロチというのが、溶けた銅や鉄が流れ出すさまを指していると言ったろうか。何本もの暴れ川の流れがいくつもの頭を持つ龍のように例えられたとも言われる伝説。それにも金属溶解の物語が込められていたとすると、それを治めていた大国主(オオクニヌシ)というのは、すでに相当の力を持っていたと考えられる。そこへやってきた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に「国譲り」する「力比べ」する話は、これまたseminar「お伊勢さんの神秘入門」で行った(前掲書p190)。考古学会でも、そのあたりが取り上げられ、邪馬台国との関係が論じられている(藤田憲司『ヒミコの鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』えにし書房、2016年)。イセキさんが疑問としていた、金属精錬技術が朝鮮由来かどうかといった論点に触れている。(つづく)

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