2021年8月30日月曜日

地図を喪失する

 数学者の森田真生が面白いことを言っている(雑誌「新潮」2020年7月号「危機」の時代の新しい地図。藤原辰史との対談)。

《現代は誰もがスマートフォンを携帯するようになったことで、「自分の現在地を見失う(ロストになる)」感覚を忘れてしまったのではないか》

 はっとさせられたのは、4月の私の滑落事故につながった山歩きは、「現在地を見失う感覚」だったのかもしれないと、指摘されたように感じたこと。森田は、こう続ける。

 《生き物の知性は基本的に、「自分の居場所がわからない」状況でこそ働いてきた……「迷子の状態」であることは知性が駆動する条件ですらあるのではないか》

 面白い。私は、4月の事故にいたる我が身の状況は、「獣になった感覚」と感じていた。自然と溶け込むように一体となった忘我の境地。「至福の滑落」と考えた。それを森田は、「知性が駆動する条件」と置き換えている。私がはっとしたのは、「獣になる」ことと「知性が駆動する」こととが切り離されず、ひとつとして扱われていること。

 つまり、般若心経の言葉をつかうと、「心」と「意」とがひとつに「身」としてとらえられていることであった。「新しい地図」というのが、ヒトが動物として新たな一歩を踏み出すときの、興味津々に、警戒心をたたえて「状況」を見つめる目と心を取り戻すことと受け取った。

 逆に言うと、今の地図は、天空から見下ろして現在地を指定し、見通しの悪い先行きの方向を定める役を果たしているのだが、そのために天空からの視線しか身の内に沸き起こらず、現場の現在を右往左往することの具体性を見失っていると言っていると受けとったわけだ。その具体性にこそ、面白さとそれを味わう「かんけい」の精妙さが揺蕩い、それを味わい尽くしてこその人生だと理解した。

 もう少し踏み込んで解釈すると、現在は天空からの視線でみる「状況」と現場で味わっている「世界」とが切り離されて、総合されていない。言葉では「神は些細に現れる」というけれども、それさえも「普遍」を語る言葉として用いられるか、些末に心を砕いて味わいなさいと現実的な視線で見つめることとが、切り離されている。断裂している。だが、それに気づかず、もっぱら「普遍」の言葉を用いて語ることが「知性」の働きと勘違いしている。

 この森田真生のことばは、藤原辰史が森田の数学に関する見方を「新しい地図」を提出と見なしたことをきっかけにしている。2020-1-2のこのブログで「メデタクもありめでたくもなし」で、藤原辰史『分解の哲学――腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社、2019年)の一節にふれて、「〈共〉が腐敗する」ことを取り上げている。いま読み返してみると、藤原の視線に共感を覚えていることがわかる。こういう発見は、うれしい。我が身の「核心部分」に強調点を打つような気分だ。いいところに来ていると、褒めてやりたいといおうか。忘れては、こういうことをきっかけにして思い出す。我が身にしみこんで「発酵した」思念が、森田の開けた穴を通してぽっと噴き出したと言おうか。でもこれって、我が身の思念が、先端的な思索の地図に居場所を見つけたようなことではないのか。それにホッとうれしさを感じているのは、天空から見下ろす地図感覚と同じじゃないか。そういうパラドクスも感じて、そう感じている私がうれしい。

0 件のコメント:

コメントを投稿