2020年8月27日の本欄記事、《独裁制を望む「核心的感情」》は、今も新鮮な響きを持っている。
暮らしが立ちゆくかどうかに伏在している「核心的感情」は、我が身がおかれている「現在の直感」に導かれている。ということは、日々の一つ一つの出来事に抱く感情が積み重なり、それが「私の暮らし」に結びついて感得されたときに生まれる感情とも言える。
アフガンの混乱や中東の混沌は、対岸の火事。せいぜい日本はそうはなっていないと思うだけで、中央や地方政府に対する信頼感は、まだ崩壊しない。だがコロナの広がり方と行政の対応を見ていると、おいおいこれで大丈夫なのかよと、慨嘆したくなる。中央政府の対応が、後手と呼ばれているが、泥縄式。モンダイが目前に迫ってから、どうしたらいいかを考えている。これって、ワタシらとおなじセンスだよね。優秀と思っていた官僚組織がまるで機能しない。そう感じたとき、専制的権力とか、独裁的手法で果敢に前途を切り開いてくれる政治家が渇望される。
先日BSフジの討論番組を見ていたら、アフガンに出張っていったアメリカは、第二次大戦後のドイツや日本を民主化できたという錯覚があったとやりとりが始まった。出席者の桜井よしこは、聖徳太子の17条憲法を取り上げ、アフガンや中東と違って日本には民主主義の芽が合ったと力説する。ま、象徴的なこととして指摘するなら、それはそれでかまわない。ところが勢い余ってか、それ以来日本は、民衆を大切にする統治が行われてきた、イスラム世界にはそれがないという風に言ってしまった。馬鹿だなあ、そんなに言うと、象徴的な一事例ではなく、全面肯定になっちゃうじゃないか。イスラムだってコーランを読めば、それがどれほど困っている人たちを救う道を現実的に考えていることが書き込まれているとわかる、そういう一端が見えると、エリートというのが、ご自分の思念の世界で独り歩きしてふんぞり返っているだけなのかなと思って、その印象が心に刻まれる。
むしろ、橋下徹のように、自分のわかっていることだけをきっちりと分別して言葉にしていく方に、はるかに信頼を寄せる。現実に何もやっていない人はエラーをしながらやっている人に較べて、それだけで「核心的感情」において優位に立つ。自民党が沈めばそれだけで(相対的に世論調査などで)立憲民主党が浮上するってわけだが、ま、いずれも政治家であるだけに一桁台の上下しか望めない。そこへ、敵を明確に指摘して事態を打開しようと先制者が登場してくれば、そこへ我が身の暮らしを預けてみようと願わないではいられなくなる。ヒトラーの演説を直に聴いた兵士のように。
日本はいま、その端境に立っている。とはいえ、そこそこ暮らしが成り立っている年寄り層が、岩盤のように旧来の伝統的統治を支持しているから、なかなか若い人たちの思いが届かない。さあ、どこでそれが弾けるか。コロナウィルスが、膨れ上がる「核心的感情」の鬱積を突き刺す針になるか。
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