いま東京オリンピックが開かれています。国民には、コロナウィルスの感染が拡大しないように「自粛」を要請しているのに、世界各国から人を招いてお祭り騒ぎをするとは何事かと、強い反対論がある一方、日々繰り広げられるゲームではメダルをとった、惜しくも入賞だったとメディアもはしゃいでいます。なぜスポーツは、人を熱狂させるのでしょう。
日頃山歩き以外に私は、それほどスポーツに熱はいれていません。プロ野球の阪神戦のチケットをもらって後楽園球場や西武球場に足を運んだり、埼玉スタジアムでの浦和レッズのサッカー観戦に、友人のお誘いで一緒に行ったりするくらいです。そんな私ですが、オリンピックのゲームは、ときどきTVの画面で楽しんでいます。TVもないし、新聞もとっていない方々は、どうしているのでしょうか。
関心を持ってみているのは、ソフトボール、野球、サッカー、バレーボール、卓球のゲームです。柔道や陸上も目に留まるとしばらくはみています。ゲーム全部をみるのは、それほどありません。根気が続かなくなっているのですね。でも、接戦となってはらはらするのは、とても楽しいことだと感じています。何が楽しいのだろう。
(1)ごひいきのチームがあること。(2)ルールを知っていて、ゲームが接戦であり、それが観ていてわかること。(3)まったく知らない競技でも、新しい時代を感じさせる要素があること。
(1)では、つくづく「わたし」はニホンジンなのだと思っています。ついつい日本チームを応援しています。日本チームが出ていないゲームだと、その競技の(その場面における)運動能力の高さをみて驚きます。これは(2)です。何とヒトはこれほど高く飛ぶのか、こんなに速く走るのか、というだけではありません。鉄棒の空中離れ業も、床運動のバック転も、自転車の空中での回転と手放しときちんとそれをつかんで斜面を下る技も、みていて美しい。いや、なかなか若い人はやるねえと、わがことのようにうれしくなっている。予選を1位で通過した15歳の選手が、難度の高い技に挑戦して失敗して泣きじゃくっている。これは、ワザというよりも、難しい技に挑戦する心持ちが、駆け寄って慰めるほかの選手たちの振る舞いで分かるから、心粋に感じているのかもしれません。これは(3)ですね。
こういうときに感じる美しさは、一体感と言うよりも、ヒトを超えようとする意気込みを「共有」しているとも言えましょうか。スポーツが「平和」と結びつくのは、その「共感性」にあります。ところが、「ニホンジン」に共感しているとすると「平和」とは少し違っているように思います。でもニホンチームを応援している自分を否定する気になれません。「わたし」はこれを、「ナショナリズム」(日本という国家にたいする共感性)ではなく、私の躰に刻まれた「くに」という「ふるさと」への共感性(愛郷心)だと見分けています。政治家は、これを一緒くたにしてオリンピックを政治的に利用しようとしています。それをみると、なんだか「わたし」が政治的に利用されているような気分の悪さを感じ、止めてよと言いたくなります。
(2)は、オリンピックだからこそ感じることです。今、国政関係は、我が儘をいかに通すかを争っています。アメリカも中国も、戦後世界がつくりあげた国際関係で有力国としての地位を得ていながら、その国際関係を自分流に、「#ミーファースト」を力づくで押し通す。力の強いものの言い分が通るというのが国政政治の常識になっています。
ところがオリンピックでは、「ルール」がはっきりしています。それに従うことによって競技が成立する。その限定された「ルール」の元で強いものが勝つという舞台を共有している。それは競う領域をきっちりと限定している。それが清々しい。だから逆に、力を競うことが世界的に共有される。スポーツが世界の平和に貢献しているとすると、まさしくその競技の領域を限定し、ルールを共有しているという点にあります。
0 件のコメント:
コメントを投稿