2021年8月7日土曜日

おや、バッカさんになっちゃった

  「五輪は感染爆発とは関係がない」と、バッハIOC会長ばかりか菅首相も言ったと聞いて、呆れている。単なる責任逃れの発言だとすると、この人たちは頭に立つ資格がない。わが身に降りかかる火の粉を振り払うのに精いっぱいで、この人たちの元で力を尽くしている人たちや生活している人たちが、何を心配し、どう気遣って暮らしているかに気付いていない。

 そもそも五輪というのが、お祭りである。「(開催している社会と)関係がない」というのなら、はじめっから「五輪は日本国民とは関係ありません」と言えばいい。どちらの頭も、そういうことは言えまい。一方でお祭りを行い、他方で、静かに暮らしてねと自粛を要請したり営業停止を命令したりするのは、単に矛盾というだけでない。そういう政府を信用しない風潮を広げている。

 コロナウィルスの蔓延によって、矛盾したことを行わねばならない苦しい立場に置かれているというのなら、その苦しい立場というのを率直に表明して、「ご協力をお願いしたい」と言えば、判官びいきの好きな国民性からしても、政府への不信感は広がらないであろう。だが、去年の新型コロナウィルスのはじまりのころからして、政府には「困った局面で苦しんでいる」という気配は見えていない。新型コロナウィルスを甘く見ていたのだ。

 感染が拡大する不安に満ち満ちていたのに、「コロナ禍がひと段落したら、感染症に関する秩序に必要な法的整備を考える」と言い、「(他の国に較べて)民度が高い」から他国のようには拡大しないと高をくくっていた。あたかも今回の新型コロナ禍がすぐに収まることのようにあしらってきた。加えて、go-toトラベルキャンペーンを張って、あたかもコロナ禍が収まるかのように振る舞っていたではないか。これらが、政府への不信感を間違いなく広めた。さらに政治家たちの「自分たちは特別」と言わんばかりの「自粛破り」の振る舞いやそれを弁護する幹部たちの発言が、いっそう不信感を確かなものにした。その総仕上げが、五輪だったといえる。

 五輪をコロナ感染と切り離すという「バブル方式」が、手抜きだらけのデスクワークということは、実施の前から周知の事実のようであった。何も、人々みなが「文春砲」になる必要もなかった。政治家や官僚たちが組み立てるコトゴトが、実務的に実施されるとは思えない。そういう気配を感知した「情報化時代の大衆の目」にマスメディアが加担して、一つひとつの逸脱事実や逸脱行為を報道する。ますます人々は確信を深めた。

 今の政府は、自己保身だけに走っているばかりか、民衆の健康のことを感知して動いているようには思えなかった。もし政府が「国民の安心安全を第一に考え」ているのだとしたら、「言葉に対する空疎感」が大衆化したといってもいい。フェイクニュースが混じっていると気づいた。民衆は言葉を選り分けて吟味して受け取るようになった。何しろ新型コロナウィルス禍と付き合ってすでに1年半が過ぎる。それなのに、今ごろ、医療逼迫を理由に「自宅療養を基本とする」というとんでもない世策を当然のように打ち出したからでもある。

 五輪を実施するのは当然の流れと政府がすすめていると知ったとき、庶民は(と私はみなさんと感性を共有していると思っているが)、自分のことは自分で決めろという時代になったと、政府と社会を切り離して考えるように決めた。若者が、コロナの感染拡大を気にしていないのではない。何を心配したらいいのか、何ひとつ身に沁むような「警告」を関係当局から受け取ったことはないと、ほぼ確信に近い認知をしていたのである。

 政府機関も都知事たちも、「緊急事態宣言」とか「蔓延防止措置」とはいう。けれども、要するに「三密」を避けろ、「ステイホーム」「マスク着用」という以外に、「酒が元凶」という以上のことは、何も言っていない。1年もあれば、「酒が元凶」ということを社会実験をして例証することだって出来ただろうに、その知恵すら持ち合わせていない。「自己防衛の要点」は、1年前から繰り返し聞かされてきて、私たちには、ほぼ習性にすらなっている。だのに机上の統計数値をみて、同じような「宣言」や「措置」を打ち出されても、それがどのような緊張状態を表しているのか、伝わりもしない。メディアの報じる「感染爆発の数値」をみて、身を引き締めるばかりなのだ。

 その伝わらない目下最大の理由を為しているのが、五輪である。もし政府の人たちや五輪関係の人たちが「五輪は感染爆発と関係がない」と眼前で言ったとしたら、「ばかいうんじゃないよ。おととい来いっ」て謂うよね。「政府は、国民とは関係ない」っていうのと同じなのだから。

 バッハさん、バッカさんになってしまったんじゃないの?

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